武田信玄の前進基地・松代城を訪ねて・千曲川の畔・川中島の戦いの拠点 | 西村治彦の日記

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武田信玄の前進基地・松代城を訪ねて・千曲川の畔・川中島の戦いの拠点

 この日は、長野市松代町松代44番地にある「松代城址(まつしろじょうし)」を訪れました。「松代城」は、戦国時代の武将・甲斐の「武田信玄」が、越後の戦国武将「上杉謙信」と、5度にわたって戦った「川中島の戦い」の舞台として知られています。1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)まで 戦いは続きました。

「千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)」が合流する三角地点が「川中島」です。

千曲川を境に、北信濃を制圧したい「武田信玄」、一方、信濃の上杉謙信は、北信濃から南方を支配したかったのです。戦国時代の武力による戦いです。

第一次から第5次まで、「川中島の戦い」はあったと言われています。やや武田軍の方が軍勢は有利でしたが、結局 勝負がつかず、引き分けでした。

武田軍の死傷者4000人余、上杉軍の死傷者3000人余、各地で争われていた戦国時代の典型的戦いでした。

「武田信玄軍」は、「松代城」を拠点に戦いを進めました。「武田信玄」の同父母の「武田信繁」が、信玄の実の弟であり、「川中島の戦い」の先頭に立つ武将として、武田軍を率いて戦いを進めました。

この戦い(第四次川中島の戦い)の中で、「武田信繁」は、若くして戦死してしまいました。享年37歳でした。

現在、この「武田信繁」の子孫の方を、私は知っております。我らが上田市の行政書士「武田恭宏(やすひろ)さん」であります。うちの長野県、群馬県、栃木県の事務所顧問をお願いしております。「武田恭宏さん」は、「武田信玄」及び「武田信繁」の父親・甲斐武田氏18代・武田信虎の末裔であります。

「武田恭宏さん」と「武田信玄」は、顔形がそっくりです。

血は争えないものです。「遺伝子」が そのまま続いています。

「武田恭宏さん」は 子供の頃から、人々から「先祖返り」と言われていたそうで、体が大きく、頭も大きく、まるで「武田信玄」と見間違うほど よく似ています。性格も似ていますね。正直で、すぐに世を正したくなる性格は、「武田信玄」そっくりであります。

現代の「戦国大名」であります。現代が 当時の戦国時代なら、戦いで正義の天下を取ったのではないかと思うのであります。信玄の弟・「武田信繁」の末裔ですので、短命かと思いきや、現在も元気で、正義の戦いを挑んでおります。

私は、長野市松代にある「松代城」を訪れて、「川中島の戦い」、「武田信玄」、「武田信繁」のことを想像しながら、「武田恭宏さん」のことを思い出し、「松代城」の城内、城外を歩いておりました。

戦国時代を戦い抜いて、最後 天下を取ったのは、「徳川家康」でした。隣と隣が戦い、100が50になり、50が25になり、やがて10が5になり、最後2が1になり、遂に集約されて、天下を取る武将が決まりました。「大阪冬の陣・夏の陣」で、豊臣方を破り、「徳川家康」が天下を取りました。その長い戦いの一部が、ここ「松代城」にもあったのです。通信手段や話し合いの場がなかったので、武力による戦いは、仕方がなかったのです。

現代は 話し合いが十分出来ます。通信手段も十分あります。喧嘩をしても、世界の大勢に対しては、勝ち目はありません。

戦国時代のような戦いはやめて、民主的話し合いの場で、国民一人一人の幸せを求めて行く時代です。

そんな世界の情勢を考えながら、私は、「松代城址」を歩いたのでした。過去の戦いを思い出し、歴史を鑑みて、今後は如何にして、「平和」と「自由」を 一人ひとりが 獲得していくべきかを、考えるのでした。

 

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