曼殊沙華の咲く頃に。支配者は誰だ?
「曼殊沙華」は「彼岸花」とも、「リコリス」とも呼ばれています。
秋の彼岸の頃 満開となるので、一般的には、「彼岸花」と呼ばれています。
種が出来ないので、日本国中の「曼殊沙華」は 元は 一つの球根から 全国に広まったと言われています。
球根や葉には 毒があるので、モグラを寄せ付けないので、墓や畑の畦に植えられ、秋になると真っ赤な花が 目立ちます。
「曼殊沙華」と呼んだほうが ロマンがあります。
ここ東京、葛飾区奥戸8丁目に
「宝蔵院」と言う古い寺があります。
この寺では 現在、「曼殊沙華」 が満開であります。
入り口近くから 境内の奥のほうまで、真紅の「曼殊沙華」が咲き続いています。
真紅に 変化をつけて、ここ「宝蔵院」には「白い曼殊沙華」
と「黄色い曼殊沙華」
が 咲いています。「白い曼殊沙華」は 長く、丁寧に整列して 咲き揃ってっておりました。
「白い曼殊沙華」や「黄色い曼殊沙華」も ずいぶん美しいものです。
ここ「宝蔵院」には 言い伝えがあります:
木造薬師如来立像は、ここ「宝蔵院薬師堂」の本尊として安置されています。台座・両手ともすべて一本の木から彫刻された一本造りで、左手胸前で薬壷を持っています。像の高さは22.5センチ、光背は31.8センチです。
江戸時代後半、宝暦のころ、王政復古(徳川幕府を廃絶し天皇制を復活する運動)を唱え、その後の尊王思想(天皇制)に影響を与えた「竹内式部(たけうちしきぶ)=竹内敬持(たけのうちたかもち)」の門下で「徳大寺公城(とくだいじきんむら)」の家臣である「本堂良喜(よしのぶ)」は、「宝暦事件(1758)(尊王論を初めて唱えて弾圧を受けた事件)」の際、京都を追われ、「宝蔵院」に身を寄せていました。その良喜の後を追い、「徳大寺公城」の娘「妙姫」は、師の「竹内式部」から預かった「薬師仏」を背負いやって来ました。
竹内式部が獄死した後、二人は この地に堂を建て「薬師仏」を安置し、師の「竹内式部」の冥福を祈ったと伝えられています。この像が「式部薬師」と呼ばれ、長きに渡り 信仰されてきています。
小像ですが制作も古く、広く信奉されてきた像であります。
その後 戊辰戦争となり、江戸幕府は崩壊し、明治新政府となりました。「徳大寺公城」は 明治新政府となって、名誉回復、従一位の追贈を受けました。そんな明治維新前の幕府と天皇制との激しい争いの中で起きた出来事でした。
政権は幕府か、天皇か。いつの時代も 誰が 天下を取るのか、誰が支配者なのか。
現代では 選挙により、政権作りがなされます。江戸時代以前は 武力により政権が 移っていきました。「強い者勝ち」の世界です。
追われた者は 逃げ、隠れる。巻き返した者も いましたが、そのまま 人生を終わってしまった者もいる。
天皇制復活を唱えた「竹内式部」や「徳大寺公城の娘、妙姫」もそのまま 人生を終えました。その夢を秘めた「宝蔵院の薬師仏」は 権力闘争の足跡を伝える仏様なのです。
「宝蔵院」のすぐ脇には、
「新中川」が流れています。
川幅は 143.5メートル、全長7.84キロの一級河川です。私は「新中川」に架かる「奥戸新橋」の上から「新中川」を見つめました。
流れる水の無常さを「宝蔵院の薬師仏」に例えることが出来るでしょうか。
真っ赤な「曼殊沙華」が、
「そんなことを考えるな!」と せせら笑っているようにも見えました。
ブログランキング参加中です。
クリックにご協力おねがいします。
↓こちらをクリックしていだだけますでしょうか。