武田信玄は、甲斐武田家の第19代当主であります。「武田信長」は長南城の城主です。 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

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武田信玄は、甲斐武田家の第19代当主であります。「甲斐の虎」とうたわれ、勇名を馳せた戦国武将であります。

 信玄より遡ること 約150年の室町時代、甲斐武田家の第13代当主=武田信満の子、「武田信長」は 上総武田家の当主でありました。

室町時代に 上総にある「久留里城」を築きました。

 その支城として、現長南町にある「庁南城」を築きました。

私は その「庁南城址」を探検しに

行って参りました。

現在は「庁南城」を「長南城」と書かれることもあり、ここでは「長南城」と書くことに致します。



 「やぁ~! 凄い森の中です」。

室町幕府の力が 衰え、各地で、その地を管理する「守護」が 武器を持ち 武装して、「戦国大名」と化していきました。「長南城」の当主、「武田信長」は、当時 危急を知らせる「太鼓」を叩いて、「のろし」を上げて 敵に備えました。「長南城」のある高台にその「太鼓森」を築きました。

 坂道を上り、深い森を潜って、突き当たりに、長南城の「太鼓森」の石碑がありました。

現在では この地、「長南町」が、「長南城址」を管理しています。

千葉県長生郡長南町は 人口8771人の小さな町ですが、長い歴史があるのです。


 当時は 情報の伝達は、煙、音、鳩などが主流でありました。太鼓を叩いて 人々に 危急を知らせる。音の叩き方の種類で 内容を知らせたのでしょう。


 近くには、城主「武田信長」の子孫、真里谷氏が築いた「真里谷城」があります。

 この辺りの城は 土、木、竹で作られましたので、敵の攻撃には 極めて弱かったです。

戦国時代の戦いの中で、どの城も ことごとく 落ちました。

 西から やってきた「北条軍」、江戸城を築いた「大田道灌軍」は、夜中に 不意打ちで、ことごとく 現千葉県にある城を 落としていきました。

 それで、「長南城」も ほぼ残っておりません。城址として、太鼓を叩いた森として、「長南城址の太鼓森」として、往時を知ることが出来ます。

鬱蒼とした「長南城址の太鼓森」を登って行くと、頂上には 神社がありました。深い森を抜けて、眼前に小さな神社を見て、「ほっ!」としました。

こんな山奥に神社があるなんて。



 「妙見神社」と書いてあります。

「妙見」とは 北極星を中心とした宇宙空間の世界観思想であります。現千葉県の当時の当主「千葉氏」の崇拝する神社です。したがって「妙見」と知れば、千葉氏の流れであることが分かります。「武田家」と「千葉家」は 室町時代から戦国時代に掛けて、着いたり、離れたりの戦いの中で、縁があったのでしょう。



 そのような、群雄割拠の時代に、千葉県の山奥に、「長南城」があり、少し離れたところに「久留里城」や「真里谷城」があり、それより大きな「大多喜城」があり、現千葉市には「千葉城=猪鼻城」があります。これらの城以外にも 千葉県には 無数の「城址」があります。みな 潰されて、天下統一の犠牲になって参りました。


「千葉城」の当主、千葉氏も 西から来た「北条氏(鎌倉幕府の北条執権と区別するため、後北条氏と表されることもある)」に やられ、

「北条氏」も、「織田信長軍」に やられ、織田信長を継いだ「豊臣秀吉」も「徳川家康」に やられ、最終勝者「徳川家康」が 国をまとめ、江戸時代へと 定まりました。



 そのような武士階級が、最後 日本を統一した原点を「太鼓森」で見て参りました。

思い返せば 感無量になります。


「武田信玄」の弟、「武田信繁」の末裔である、ウチの事務所の顧問である信州上田の行政書士「武田恭宏さん」の顔は

 きっと、「長南城」城主、「武田信長」にそっくりだったのだろうな、と想像致します。顔、形は 長い間に渡っても 遺伝します。

 私の自宅近くの「武石町」は千葉氏代々の「千葉三郎胤盛」や、四男、「武石四郎」が統治のために住んでいた「武石城」のあった土地であります。住民の顔は、戦国時代の千葉城当主「千葉常胤」の木像の顔と そっくりなのを、私は 知っているからであります。

 

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