「君を心の中で、妻だと思っている。...現実では結ばれない定めなら、せめて心では結ばれていたい。」
和道は、そう言うと、着物姿の典子を見つめ、その唇が、なんと答えるのか待った。
鹿威しの軽やかな音色が庭園に響き渡ると、二人が居る老舗料亭の和室に、一陣のそよ風が走り、結った典子の髪から爽やかな良き香りが漂った。
「お茶、冷めてしまったでしょう?...今、お入れしますね。」
話を逸らすかのように、典子は和道の湯呑みを見て、笑みを含ませながら言った。
「あぁ、すいません。...」
そんな返事しか出来ない己を、和道は不甲斐無く思いつつも、細やかな気遣いを忘れない典子に、更なる親愛の情を抱かずにはいられなかった。
小枝にとまる鶯の紋様が描かれた白い九谷焼の湯呑みに、鮮やかな若葉色の茶が湯気をたてながら丁寧に注がれてゆく様は、まるで小津安二郎の映画のワンシーンのようにも感じられた。
「はい、どうぞ。...お熱いから気をつけて」
木目が美しい漆塗りの茶托に、白く美しい手を沿え、差し出す典子。
和道は、思わずその手を握り締めたい衝動に駆られた。
「はぁ。...ありがとうございます。」
しかし、己の口から出てきた言葉は、相も変わらず味も素っ気もない単調なものであり、和道は、自分がもどかしく思えた。
「私、困ってしまいます。..急に、そんなことを仰られても。..」
典子のその言葉を訊くと、和道は淹れてもらった熱い煎茶を、ひと口飲みこんだ。
「美味しいなぁ。...自分で淹れるのと大違いだ。」
「誰が淹れても、大して変わりませんわ。..和道さん、お上手なんだから」
和道の言葉に典子は、親しげにそう返すと、大きく開かれた障子戸から見える紅葉に目を向けた。
「ご迷惑ですか?...私の愛は..」
秋の清涼な空気の中で、徐々に薄れ消えてゆきそうな典子の恋心を、和道は、何とかくい止めたいと思い、そう尋ねた。
「迷惑だなんて、全然。...ただ...」
典子が、そこまで答えると、和道は、「ただ?...なんです?」と、言葉を続けた。
「突然の告白に戸惑っているというか、私の中で和道さんの想いを消化できていないというのが率直なところなのです。」
和道を見つめ、そう答える典子の表情には、大人の女性が持つ、ある種の“ゆとり”のようなものが漂っていた。
典子の優しくも潤んだ眼差しに、和道は吸い込まれてゆくかのように視線を合わせ続けると、体の奥から熱くなるのを感じた。
「突然ですから、今は驚きのほうが大きいのも仕方のないことです。...でも、時間の経過と共に私の想いが、典子さんの中で段々消化されてゆけば、それでいい。..」
和道は、そう言うと、おもむろに立ち上がり、陽射しの注ぐ縁側へと歩いていった。
そして目を瞑り、深呼吸をすると振り返り、「典子さん、暖かくて、とてもいい気分ですよ。」と、微笑みながら言い、手招きをした。
典子も微笑みながら立ち上がると、和道の半歩斜め後ろに立ち、「えぇ...ほんとに。」とだけ答えた。
「こんな所で、愛する人と一緒に暮らせたら、どんなに素敵なことだろう。...」
和道は典子を意識しながら、広大な庭園を見つめ、独り言のように呟いた。
暫し静かな時が流れ、二人の耳元には、風にそよぐ木々の葉の音と、野鳥の囀りだけが届いていた。
「こんなに広くて美しいお庭とお家があっても、一人きりじゃ寂しいですわね。...どんなに美味しいお料理でも、一人で戴くより、感想を言って喜んでくれる相手がいれば、心も満たされるでしょうし。。」
典子がそう言うと、和道は再び振り返り、典子と見つめ合った。
「典子さん...私は..私は、あなたが欲しい。..誰よりも、あなたを愛しています!...どうか、一緒になってください。」
和道は、抑えていた感情を吐露するように真剣な面持ちでそう言うと、典子の返事を待つまでもなく、両手で抱き締めたのであった。
「和道さん!...庭園から見えてしまいます。..それに、もう時間が..」
そこまで言うと、典子は口を閉ざし、和道の体に大人しく身を委ねた。
「今までの紆余曲折の人生も、きっと、あなたに出会う為の道だったように思えます。...もう、あなたを絶対に離しませんよ。..いいですね?典子さん」
和道は、典子の艶やかな髪に頬を当て、そう言うと、さらに愛しい典子を強く抱き締めた。
典子は、目を閉じたまま、「はい。...」とだけ、静かに答えたのであった。
庭園の大きな池には、つがいのコハクチョウが、互いに身を寄せ合いながら、波紋を残し漂っていた。
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