ショートストーリー979 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」

遠くにそびえ建つ高層ビルの群れが、霧に霞む午前5時..。

 

 

 


青いコートを着た女が、サングラス越しにその景色を眺め、口元をほころばせた。

 

 

 

 

 

「とうとう来ちゃった。...なんか、不思議な気分」

 

 

 

女は心でそう呟くと、躊躇することなく、ヒールの踵を鳴らしながら、再び歩き始めた。

 

 

 

 

女の名は、ルミ。

 

 

 

 

 

関東の、とある地方都市で、ブティックを2店舗経営していたが、ネット通販の台頭と長引く景気低迷により、この夏、10年間の歴史に幕を下ろしたのであった。

 

 

 

 

 

そんな折、ルミは、かねてより衣服の仕入先として交流のあった田所という男から突然デートに誘われ、東京までやって来たのである。

 

 

 

 

この10年、ブティック経営一筋で生きてきたルミにとって、異性とのデートなど想像すらした事もなく、田所からの誘いは、まさに青天の霹靂であった。

 

 

 

 

 

そんなルミが、田所の住む高層ビル34階の一室に向かっている最中、当の本人は、来週から始まる展示会に向け、徹夜で配布資料の作成やポスター作製をしていた。

 


「よし。...大体、出来上がった。..今日は休日だし、少し眠るとするか。」

 

 

 

 

田所は大きな欠伸をすると、そう呟き、寝室のベッドに横たわった。

 

 

 

 

連日の寝不足もあり、田所は、すぐに眠りに落ちた。

 

 

 


一方、ルミは時々スマホで所在地を確認しながら歩き続け、ようやく田所の住むビルの下までやって来た。

 

 

 

 

 

「2日前に電話で、今日、会いに行くことを伝えてあるけれど、まさか急用ってこと、ないよね。。」

 

 

 

 


ルミの心に、一抹の不安がよぎり、ビルのエントランスで足を止めた。

 

 

 

 

 

先日、ルミが電話で田所と約束をした予定では、当日の朝、田所の車で一緒に出かけ、田所がよく行く海沿いのレストランで、ブランチを食べることになっていた。

 

 

 

 

「よし。..行ってみよう。」

 

 

 

ルミは誰もいないエレベーターに乗ると、34階のボタンを押し、目を瞑った。

 

 

 

 

いくら知っている仲とはいえ、ビジネスとしてではなく、個人的な付き合いで田所に会うのは初めてのこと。

 

 

 


ルミは、初めてデートをした高2の秋の日のことを思い出していた。

 

 

 

 

やがてエレベーターは、一度も止まることなく、34階に到達した。

 

 

 

 

 

エレベーターの扉が静かに開くと、ルミと入れ替わるように、一人の女性がエレベーターに乗りこんで来た。

 

 

 

 


ルミは、エレベーターから出る際、軽く会釈をし「すいません」と言って外に出たが、その長髪の美しき女性は、すれ違う際、一瞬だけ冷ややかな目つきで視線を交わすと、強張った表情のまま入っていった。

 

 

 

 

 


見知らぬ者同士が挨拶を交わすことなど、ほとんど無くなってしまったようにも思えるこの世知辛い世の中で、女性の態度は今の日本において特別、変わった光景でもなく、よくある日常風景ではあった。

 

 

 


しかし、なぜかルミの心には、引っかかるものがあった。

 

 

 

 

「あの人も、このビルの住人なんだわ、きっと...。」

 

 

 


ルミは自分にそう言い聞かせると、もうすぐ田所に会える喜びと心地よい緊張感に胸をときめかせた。

 

 

 

 

楕円形の斬新なデザインのビルゆえ、緩やかなカーブを描く廊下を歩いてゆくルミ。

 

 

 


ようやく、田所の部屋の前まで辿り着くと、チャイムを押し、田所が出てくるのを待った。

 

 

 

 

 

物音ひとつしない部屋からは、田所が出てくる気配はなく、ルミはチャイムを数回押してはドアが開くのを待った。

 

 


「おかしいなぁ。。今日、約束したのに。...」

 

 

 

ルミは、そう呟くと、試しにドアノブを回してみた。

 

 


「あら?!...鍵が、かかってない。」

 

 

 

 

ルミは驚きながらも、ドアを少しだけ開け、中に居るはずの田所の名を呼んだ。

 

 

 


「田所さ~ん。...おはようございます。..ルミです。いらっしゃいますか?」

 

 

 

 

ルミの呼びかけに対し、一向に返事のない室内。

 

 


ルミはドアを閉め、出直そうかと思ったが、「田所に何かあったのでは?」と心配になり、意を決して部屋に入っていった。

 

 

 

 

 

この時、ルミの脳裏に、先ほどエレベーターで擦れ違った女の顔が浮かんだ。

 

 

 

 

「まさか...」

 

 

 

抽象的ではあるが、不吉な予感がしたルミは、次々に室内のドアを開け、田所を探した。

 

 

 

 

すると、寝室らしき部屋のドアが開けられたままになっていて、そのドアノブには血のような赤いものが付着していた。

 

 

 


「田所さん!...」

 

 

 

ルミは思わず大きな声を出し、寝室の中に入ってゆくと、ベッドに横たわり、目を瞑っている田所を見つけ、その名を呼びながら体を大きく揺すった。

 

 

 

 


すると田所は、大きな欠伸をしながら目を開け、寝ぼけ眼で「あっ、ルミさん、いらっしゃい。...そうだ!今日だったね。..ごめん!」と言った。

 

 

 

 

 

ルミは、そんな事よりも、田所が何事もなく無事だったことに安堵し、「もう!..びっくりさせないでよ~~!」と、笑みを浮かべながら言い、思わず田所の手を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

「ここ数日、ずっと徹夜続きだったから、作業が一段落して寝てしまったようだ。...鍵のかけ忘れ、気をつけるよ。...せっかく来てくれたのに、心配かけてごめんね。」

 

 

 

 


田所は、申し訳なさそうに言うと、寝ぐせのついた頭髪をかき上げた。

 

 

 


「そこのドアノブの血みたいなのは?」

 

 

 

 


「あぁ、それは夕べ、展示会用のポスターを試作し終えた後、とても眠かったので、手に塗料が付いたまま、洗わず寝室に入ったからだよ。」

 

 

 

 


田所は屈託のない表情でそう言うと、ルミに赤いインクの付いた手のひらを見せ、苦笑いをした。

 

 

 

 


「田所さん、かなり疲れているんでしょう?...デートは、今日じゃなくてもいいじゃない?...また別の日にしましょうよ?」

 

 

 


ルミが田所の体を気遣い、心配そうにそう言うと、田所は微笑んで答えた。

 

 

 

 


「その件については、ノープロブレムだよ。..レディーとの約束は、しっかり守るのが男の礼儀さ。...今、ちょいと出かける準備をするから、冷蔵庫のワインでも飲んで待ってて!」

 

 

 


田所は、優しい笑顔でそう言うと、ルミのおでこに、さり気なくキスをした。

 

 

 


「うん!...私が酔っぱらう前に準備を終えてね。」

 

 

 

 

嬉しそうにそう言うルミに、田所は「了解しました!」と言って敬礼し、おどけてみせた。

 

 

 

 

 

 

やがて、ルミを助手席に乗せた白いオープンカーは、煌めき始めた穏やかな太平洋を泳ぐように、海沿いの道を走り抜けていった。。。。

 

 

 

 

 

 

 

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