ショートストーリー635 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
「今夜、どうしても会いたいの。...来てくれるわよね?」

携帯電話から聞こえてくるエリコの言葉は、どこか悲痛な叫びのようにも聞こえた。


「今夜?..随分、急だね。俺にだって都合ってもんがある。..いきなり言われてもなぁ。...今夜は旧友と飲みに行く予定が入っているんだ。..また後日にしてくれないか?」


エリコの恋人であるカズオは周りに気を遣い、声を抑えながらそう言った。お互いに勤務時間内は電話をかけない約束なのだが、この日のエリコは、カズオがまだ就業中の午後3時に、かけてきたのだった。


「どうしてもって、それほど急な用なのか?」

カズオは返答しないエリコに、そう訊いた。


すると少し間を置いて、エリコが寂しげに答えた。

「もういいわ。...なにか特別な理由がないと会えないのなら、もとの見知らぬ二人に戻るしかなさそうね。...」


そう言い残して電話を切ったエリコに、カズオは首をかしげながら心で呟いた。


「エリコ、いったい、どうしたんだ?..なにを焦っているんだ?...まるで、駄々っ子みたいだな。..毎週デートしているのに、また会いたいなんて。..」

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この日、カズオはエリコのことが気になって、最後まで仕事が手につかなかった。


午後8時20分。仕事を終えて会社から出てきたカズオは、高校時代からの旧友と飲む為、約束した居酒屋へと向った。


路地裏にあるその店の暖簾をくぐり中に入ると、すでに奥の座敷で旧友は待っていた。カズオと目が合うと、旧友は手を上げて人懐こい笑顔をみせた。


「来るのがあまりに遅いから、先に一杯やっていたところだ。...まぁ、駆けつけにビールでも飲めよ」

旧友は、そう言うと瓶ビールを手にして、自らの空いたグラスに注ぎ始めた。


「おいおい、勘弁してくれよ。俺は新しいグラスを貰うから、それは、お前が飲んでくれ(笑)」

カズオがそう言うと旧友は、冗談混じりにふくれっ面をし、おどけてみせた。


冷奴に枝豆。ホッケの塩焼きに漬物。それらをつまみながら酒を飲み、二人は積もっていた話を小出しにしては、あーだ、こーだと語り合い、そして心から笑った。


気の置けない友と過ごす安らいだ時間は、瞬く間に過ぎていった。旧友がトイレに行った時、カズオは、ふとエリコのことを思い出した。エリコが言った「どうしても会いたい」というフレーズが、幾度もカズオの脳裏に甦っていた。


「どうしても会いたい。.か。..そこまで言ってくれる女が、この先、俺の人生に現れるだろうか?..そこまで俺を必要としてくれる女は、エリコをおいて他にはいない。...」


カズオは、そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。トイレを済ませて旧友が赤ら顔で戻って来るや否や、カズオは切り出した。


「申し訳ないが、急用が出来た。今夜は久しぶりにお前と会えて、こうして楽しい時間を過ごせたことに感謝してる。...どうしても外せない用なんだ。ほんとごめんな。..また俺から連絡するから」


酒に酔っている旧友は、カズオの突然の言葉を聞いて、状況を今ひとつ飲み込めずキョトンとしていたが、「おう、分かった!」と、機嫌よく笑顔で答えた。


カズオはテーブルに二人分の飲食代には余りある紙幣を置くと、再び旧友に「ごめんな!」と言い残し、店から出て行った。



路地裏から通りまで小走りで向うと、カズオは手を上げてタクシーを拾った。


「渚4丁目のスカイパークタウンまで、お願いします」


運転手にそう行き先を告げると、カズオはエリコの携帯にこうメールをした。


「さっきは、つれない返事をしてごめん。..俺、やっと気がついたんだ。..エリコの要求を二の次にしても優先させなければならない大切な用事なんて、どこにもないってことに。..」



メールをエリコに送信し、携帯を閉じると、カズオは車窓を流れゆく街の光を見ていた。


「すれ違うだけの人、打ち解けず、うわべだけの人が大多数のこの街で、こんな自分を必要とし、求めてくれる唯一の存在。そんなエリコという奇跡を、失いたくない。...」


タクシーは、ようやくエリコの尊さに気がついた一人の男を乗せ、夜のしじまに消えていった。。。。









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