ショートストーリー636 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
「明日の午後、この港から出航する貴典丸という名の船に乗りこんで、沖縄に向ってください。...その理由は、ただ一つ。..あなたを長年待っている人が沖縄にいるからです。」


シゲルは今日、初めて出会った女性から、いきなりそう言われ、目を丸くした。


「え?...沖縄ですか?...あのう、私は沖縄に知人も友人もおりませんが。..ははぁ、..それ新しいジョークか、なにかですか?(笑)」


午後4時を過ぎた港には、東からの風が強く吹いていた。その風に長髪をなびかせながら、女性は表情を緩めることなく、シゲルに再度言った。


「私、生れてこのかた、ジョークや冗談といった類は言った事がありませんの。..今、言った事は、あなたに対する偽りのない忠告です。」


今日、横浜の某ホテルにて行われたシゲルの新作出版記念パーティに突如現れたこの女性は、パーティが終わると、シゲルのもとへ歩み寄り、「あなたに、至急行って頂きたい場所があります。ここでは、なんですから、港へ行きましょう」と誘われたのであった。


パーティの後、シゲルはすぐに出版社の担当者や作家仲間たちと飲みに行く予定であったが、女性の真剣な眼差しに、なぜか心動かされ、港まで来たのであった。


「忠告ねぇ。...仮に私が、あなたの忠告どおり沖縄に行ったとして、それで一体、なにが変わるというんです?..沖縄で誰が私を待っているというのですか?」


シゲルはジャケットのポケットから、シガレットケースを抜き取ると、ジャケットを脱ぎ、ボタンダウンの麻シャツの袖をまくった。

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女性はシゲルの問い掛けに即答せず、防波堤に打ち付けては消えてゆく波の飛沫を見つめていた。


そんな女性の横顔は、どこか哀しげで触れ難い美しさを漂わせていた。シゲルは思わず見とれてしまいそうになった自分を律するかのように、煙草をくわえ火をつけた。


「あっ、そうだ...。そこまで忠告してくださっているあなたのお名前、お聞きしても宜しいですか?..」


シゲルは手すりに背を預け、背伸びをしながらそう言った。



「名前は...今は言えません。..でも、いずれ私が何者なのか、嫌でも知る時がきます。..それまでは知らないほうが賢明でしょう。」


風の悪戯で目にかかった髪を、手で後ろに撫でながら女性は、そう答えた。


そして、先ほどのシゲルの質問に、言葉を一句一句噛み締めるようにして答え始めた。


「遠い過去と、遠い未来。...その中間に今、私とあなたは存在しています。...本来なら、同じ時間に存在してはいけないのに。...沖縄に縁もゆかりもないと思うのは、今現在のあなた。...しかし、それは遠い過去の記憶を忘れているだけのこと。...あなたが明日、ここから船に乗って沖縄に向えば、明々後日には着くでしょう。..そこで目にする光景や人々の中に、あなたの未来が隠されているのです。」


その女性の言葉にシゲルは、いぶかしげな表情をし、首をひねった。


「こりゃ~、変な奴と関わってしまったようだ。...この場は、うまく誤魔化して別れ、飲み会に合流しよう」


内心そう思ったシゲルは、煙草を吸殻入れにねじ込むと、再びジャケットを羽織り、女性に言った。


「今日は、私の出版記念パーティにお越し頂き、ありがとうございました。今後もご愛読、ご支援のほど宜しくお願い致します。おっしゃられたご忠告は、真摯に受け取らせて頂きます。それでは私、このあと予定がありますので、これにて失礼致します。」


そう言うとシゲルは深々と一礼し、足早にタクシー乗り場へと向った。


翌日....。


昨晩から明け方まで、スタッフらと飲み明かしたシゲルは、休日という事もあり、午後1時までベッドで眠り続けた。



近くの建設工事の音で目覚めたシゲルは、自分でパスタを茹でて、遅いランチを食べ始めた。


オーディオから流れてくるバロック音楽に耳を傾けながら、シゲルは、昨日の女性の忠告を思い出していた。


「ふん...変わった女だったな。..きっと変な奴から洗脳でもされたんだろ。..」


結局、シゲルは女性の忠告を無視し、沖縄へは行かなかった。。。




それから一週間ほど経った、ある日....。


いつになっても打ち合わせに現れず、携帯も繋がらないシゲルを心配したスタッフが、シゲルの自宅マンションへと向った。



管理人から合鍵を預かり、スタッフが部屋のドアを開け中に入ると、そこには変わり果てたシゲルの無残な姿があった...。


金品を盗られた形跡も、争った形跡もない部屋の寝室で、シゲルは息絶えていた。



その頃....。


青く澄んだ海と空が広がる沖縄の高台で、そのつぶらな瞳から涙を流し、空を見つめている女性の姿があった。。。


シゲルの出版記念パーティ後、港でシゲルに沖縄行きを忠告した、あの女性であった。女性は、頬を伝う涙を拭おうともせず、こう呟いた。


「なんで、私の忠告に従ってくれなかったの?...あなたが忠告どおり、ここに来ていれば、遠い過去のあなたと、遠い未来のあなたが無事繋がり、私と結婚して生涯幸せに暮せたのに。。。。」


その後、間もなく、その女性の姿も沖縄から消えたのであった....。









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