ショートストーリー551 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
サンドバッグをリズムよく打ち続ける音が、男の好調ぶりを表していた。。。

「ワン・ツー!ワン・ツー!ワン・ツー・スリー!...もっとガードを高く、脇を閉めて右フックを打つんだ!」

ジムの会長である瀬田が、打ち続けている男の隣で、そう叫んでいる。

男の名は、村柿。。。

街外れにある、トタン屋根の寂れた倉庫のようなボクシングジム。外壁には「練習生大募集!」とペンキで書かれた看板が貼ってあるが、誰も立ち止まることなく通り過ぎてゆく。。。


八畳間ほどの狭い室内には、勿論リングなどなく、ただサンドバッグが2本、天井から、ぶら下がっているだけである。自分のフォームを確認する為、壁に立て掛けられた大きな鏡は、以前、瀬田会長が廃品回収業をしていた時に、閉店したサウナ店から引き取ってきた一品であった。


「ほら!..ボディがノーマークじゃないか!...もっとステップを踏んで前後左右に動くんだ!動きでパンチをかわせ!」

瀬田は、この村柿に己のボクシング人生のすべてを賭けていた。10年前にジムを開いて以来、100名近くの練習生を指導してきたが、一番優れていた選手でさえ6回戦ボーイ止まりであった。

瀬田は、この弱小ジムから日本チャンピオンを生み出すことに執念を燃やし続けてきた。

「筋トレマシーンもパンチングボールもない田舎町のこのジムからスターを生み出し、都会の大型ジムで恵まれた環境下にある選手を、是非ともマットに沈めたい。。。」

それが瀬田の野望でもあり、幼少期から抱えている己のコンプレックスを打破する唯一の手段だと考えていた。

村柿は瀬田の怒号のような激しい指示を浴びながら、着実にその動きをマスターしていった。。。

約2時間のマンツーマン指導を終えると、瀬田は村柿に向って言った。

「来月の試合は、いよいよ10回戦だ。。。相手は日本バンタム級5位の野丘。こいつに勝てば、その次は、いよいよタイトルマッチに挑戦だ!...この無名のジムから、とうとう日本チャンピオンが誕生ってわけだ!」

瀬田は、そう語りながら徐々にハイテンションになっていった。顔が赤みを帯びるほど興奮していた。

そんな瀬田の言葉を、スポーツタオルで体の汗を拭きながら黙って聞いていた村柿は、瀬田に一度だけ鋭い眼差しを向けると、またすぐに視線を外した。

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「おい!?...お前、嬉しくないのか?..日本タイトルが、もう手の届くところまで来たんだぞ?」

瀬田は笑みを湛えながら、そう言うと、村柿の背中を軽く叩いた。すると村柿は、スポーツタオルを肩からさげ、瀬田を睨むように見つめながら言った。

「会長...お言葉ですが、まだ来月の試合すら終えていない段階で、やれタイトルだ、チャンピオンだと、騒がないでもらえますか?...そりゃね、会長には感謝してもしきれないほど世話になってますよ。...でも...俺は競走馬でも、ドッグレースの犬でもないんですよ!..生身の人間ですからね!」

普段、感情を、あまり表に出すことがない男が、時に声を荒げながら瀬田に向かって、そう言い放ったのだった。

「お、お前...なに怒ってんだ?」

「今日は、これで失礼します」

村柿は瀬田の質問に答えずそう言うと、革ジャンを羽織ってジムから出て行った。。。


「いったい、何なんだ....思春期の子供じゃあるまいし」

村柿が立ち去った後、瀬田はジムの片隅で日本酒の一升瓶を口につけて飲みながら、虚ろな眼差しで、そう呟いた。


翌日の夕方。。。いつものトレーニング開始時刻になっても、村柿はジムに姿を現さなかった。瀬田は新しい練習生の指導をしながらも、村柿がドアを開けて入ってくるのを、今か今かと待ちわびていた。


やがて日が沈み、ジム内に明かりが灯っても、一向に村柿が姿を現す気配はなかった。。。

夜10時。。。すべての練習生が帰った後、瀬田は、また一升瓶を持ち出し、床に胡坐をかいて飲み始めた。

壁に掛かった時計の秒針が一周する度に、瀬田は一升瓶に口をつけ、ラッパ飲みをした。

「てやんでぇ~~!俺の言葉の何が気にくわねぇ~のか知らねぇ~が、ガキみてぇ~に、すぐふて腐れたんじゃ、こっちだって、バカバカしくて、やってらんねぇ~よ!...勝手にしろってんだぁ~!」

悪酔いした瀬田は、ろれつの回らない口でそう言うと、そのまま床に横になって眠り込んでしまった。


「プルルルル...プルルルル...プルルルル...プルルルル...」

真夜中、突如、ジムの電話が鳴り響いた。瀬田は10回目のコールで、ようやく目を覚ますと、這いつくばるようにして受話器に手を伸ばした。

「はい、瀬田ボクシングジム...」

「....」

「もしもし?...どなたですか?」

「.....」

「おい、こら!こんな夜中に、いたずら電話なんかすんじゃねーよ!」

「か、、、会長...俺っすよ...」

電話は、村柿からであった。。。その声は、なにかに耐えているような声であった。


「おう!..村柿か!?お前、こんな夜中にどうしたんだ!?練習に来ないから心配していたんだぞ!」

「会長、、、俺、やっちまった....この手で..この手で、素人を殴っちまった...」

「お、おまえ...今、どこにいるんだ?!」



結局、村柿は瀬田に自分の居場所を教えなかった。。。そして翌日の朝、村柿は最寄の警察署に自ら赴き、傷害の罪で逮捕されたのだった。。。


瀬田の言葉に反抗し、ジムから立ち去ったあの日の夜、久しぶりに昔の彼女と会い、居酒屋で飲んでいた村柿は、ひょんなことから隣席の酔っ払い客と口論になった。

その酔っ払い客は、その界隈では煙たがられている酒乱のチンピラであった。チンピラは、やがて村柿の元彼女に手を出し始め、彼女の髪を引っ張っては悪態をついた。

村柿は絶対に手を出すまいと懸命に堪え、チンピラの手を彼女から引き離そうとしたが、チンピラから顔に唾を吐き掛けられた時、とうとう怒りが爆発したのだった。

チンピラは、全治一ヶ月の重傷を負った。

法廷で、村柿の正当防衛が一部認められ減刑されたが、ボクシングライセンス剥奪という厳しい処分が下されたのであった。。。

あと一歩の所まで来ていた、日本バンタム級タイトル。。。


毎日、毎日、村柿の好物が入った手作りの弁当を携え、刑務所に差し入れに行く瀬田の姿があった。

瀬田は面会した村柿に向かって、優しい眼差しを向けながら言った。

「お前が出てきたら....あのジムで共に一から、チャンピオンを育ててゆこう。。なぁ」

瀬田の言葉を、うつむいて聞いていた村柿の膝には、穢れなき雫が一滴、また一滴と、こぼれていた。。。








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