『御本丸』の虎口
北郷島津氏によって永和元年(1375)頃に築かれたという。
都島に築かれたので「都城」あるいは「都之城」と呼ばれたという。
この城の名前がそのまま市の名前になっている。
羽柴秀吉による九州征伐が行われると、島津氏は降伏し、薩摩・大隅・日向三ヶ国を安堵されることとなった。
その際に領内の国替えが行われ、都之城には、8万石で伊集院忠棟が入城する。
伊集院忠棟は、気を見るに敏な人物であったようで、当初から島津義久に和睦を説いており、
羽柴秀長軍との戦いの際には、わざと進軍せず、これがきっかけとなって島津軍は後退した。
その際に、忠棟は剃髪して秀吉に降伏し、以後、主家の島津義久との間で和睦交渉を行った。
この交渉を受け入れて降伏したからこそ、島津家は存続できたとも言えるが、伏見の島津邸内で島津忠恒によって暗殺されてしまう。(1599.3.9)
伊集院忠棟の嫡男忠真は、都之城などに立てこもり、反乱を起こす(庄内の乱)も和解。(1599ー1600.3)
関ヶ原役2年後の慶長7年、伊集院忠真は日向野尻で暗殺され、一族粛清され滅亡した。
ここにも、豊臣家に対する家康の横車があったのか。。。
石仏・石柱が集められていた。
大淀川が見える。川向こうは『西都城駅』
足元に復元『大手門』があったらしいのだが気付かなかった。
模擬天守は『都城歴史資料館』
瓦には島津氏の家紋『丸に十文字』だが、
都城島津氏の家紋は、十字が丸の縁に着かない。
物見櫓跡
堀を挟んで向こうは『西城(狭野神社)』
西城
藪が深いので、地形を想像しながら付近を巡り歩いてみた。
2024.6.5(水) 登城