沼田城:群馬県 | 投資 播種 目を出せ! 植木屋のブログ

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鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏(ぬまたし)の12代万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が、天文元年(1532)の頃に崖上の台地に最初に城を築きました。

『倉内(くらうち)城』とも呼ばれたこの城は、関東へ至る要衝の地にあることから越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名によりめまぐるしい争奪が繰りひろげられることになります。

三の丸には観光案内所と無料駐車場

 

愛犬愛猫に真田の陣羽織を貸してくださるそうです。

 

発掘された本丸石垣

 

真田信之25歳、小松姫18歳

真田昌幸嫡男 信之・正室 小松姫

小松姫(稲姫)は徳川四天王の本多忠勝の娘であり真田昌幸の長男・真田信幸の妻である。

関ヶ原の戦いの直前、真田父子三人は、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。

昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。

後に、自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。

昌幸・信繁は大いに感心したと言う。

 

 

元年(1681)11月、5代信利は江戸両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で城地は没収、改易となりました。

城は幕府に明け渡され、翌2年に城はすべて破却されて堀も埋められました。

 

英霊殿の先の小高い丘が天守閣跡

 

本丸の北の『捨曲輪』沼田氏の古城跡です。

 

『平八石』

真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後に載せた石といわれています。

天正8年(1580)武田勝頼の命により沼田に進出した真田昌幸(まさゆき)は沼田城を攻略し、さらに翌9年には沼田城の奪還に来攻した平八郎景義(へいはちろうかげよし)を謀殺して沼田氏を滅亡させました。

 

天狗堂

 

日本一の木彫天狗面(長さ3m、幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1t)

 

この地の領有を主張する北条氏とこれに応じない真田氏との間に沼田城をめぐって攻防が続きましたが、天正18年(1590)に北条方が真田方の名胡桃城(なぐるみじょう)を不法に攻略したことが契機となり、豊臣秀吉の小田原城攻めで、北条氏は滅亡しました。

 

『西櫓台跡』

北村明道の描いた真田時代の沼田城

220224.5.14(火) 登城