『掛川城大手門』
大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。
『大手門番所』
江戸時代末期に建てられた番所が現存するのは全国的にも珍しい。
掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられました。
『三光稲荷神社』
安土桃山時代の文禄年間、山之内一豊が城主だった時に、秀吉の伏見城築城に加わった縁で伏見稲荷を勧請したのが始まりとされます。
一豊の時代には家中の者が、城より旅行する時に道中の安全と業務の達成を祈願し、帰城の際は無事のお礼に参拝したといいます。
大手門から大手橋を渡って、北へ向かうと『掛川古城』
『掛川城』の天守閣は西へ500mほど
『本曲輪』
『天王山 龍華院』
『龍華院大猷院霊屋』
明暦2年(1656)、嗣子のない掛川城主『北条氏重』が三代将軍家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型造りの霊廟です。
『北条氏重』
保科正直の四男で、母の多却は徳川家康の異父妹。
慶長16年(1611)後北条氏の一門である北条綱成の孫・氏勝の養子となり、下総岩富1万石を継ぐ。
最終的に掛川3万石を領しが、5人の子がすべて女子であったため、64歳で死去した後、嗣子なく改易となった。
大堀切の土塁
本曲輪と二の曲輪を断ち切る大堀切
『二の曲輪』
『掛川古城』は文明5年(1473)に今川義忠の重臣朝比奈丹波守泰煕によって築かれ、以後、朝比奈氏3代、約百年間統治しつつ城郭を広げた。
応仁の乱で義忠は東軍に身を投じ、西軍に属した斯波義廉から遠江を奪取することを企図したが、塩買坂の戦いで義忠は流れ矢が当たり討死した。
それに乗じて信濃守護の小笠原氏が遠江へ侵攻する構えを見せたため、泰煕の子泰能が新たに『掛川城』を築き『掛川古城』はその出城となった。
徳川家康は永禄11年(1568)に今川氏真は逃げ込んだ掛川城を囲んでいるが、小笠山砦に布陣した家康は戦局が有利に動くと掛川古城に馬を進めて督戦している。その後も掛川城が武田氏に対する最前線となったことで掛川古城も改修を受けている。
2023.12.23(土) 登城