小田山城:福島県 会津若松 | 投資 播種 目を出せ! 植木屋のブログ

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鶴ケ城から最短距離で山裾へ

山際には寺社が多い

『建福寺』枝垂れ桜が有名のようです。

長岡藩家老 河井継之助の遺骨を最初に埋葬した場所。

 

河井継之助、会津藩家老 西郷頼母などの幕末の有名人の墓があるが、

道なき道で分からなくなった。

 

戊辰戦争時には新政府軍が鶴ヶ城に向けて砲撃を撃ち込んだ場所です。

天守閣までの直線距離は1350mで、当時の大砲の射程が1500m。

佐賀藩のアームストロング砲は2000m以上。

天守閣は攻撃にさらされました。

写真の中央上に天守閣がまる見え。

 

『会津藩家老 丹羽能教(1766~1843)』およびその一族らの墓石群。

会津藩 軍事奉行、5代藩主松平容頌(かたのぶ)以来4代の藩主に仕えた。

文化五年(1808)会津藩は幕府に北方警備を命じられ、能教は軍事奉行として遠く樺太に出陣した。さらに文化七年には江戸湾警備を命じられ三浦半島に砲台を築き、海防に尽力した。

 

 

『田中三郎兵衛玄宰(はるなか)(1748~1808)』

名家老田中正玄の4世の孫に生まれ、若くして田中家を相続し、34歳で家老になり後に大老になった。

松平容頌(かたのぶ)、容住(かたおき)、容象(かたひろ)の3代の藩主に仕え、藩政の改革を行った。

手工業の殖産興業を勧め、藩校「日新館」を創設して人材を養成した。

天明の大飢饉の後に会津を立て直した立役者という。

 

 

 

堀切跡

先にも尾根が続いているが、下っているので、ここまでとした。

 

蘆名氏時代の小田山城

三浦半島を本拠とする三浦義明の十男・佐原十郎義連が文治五年(1189)会津を拝領。3代光盛の時、領地としていた相模国三浦郡葦名(現横須賀市)の地名に因んで葦名氏を名乗ったと云われる。

会津に移ったのは7代葦名直盛の時で、元中元年/至徳元年(1384)に黒川城(後の若松城)の前身となる東黒川館を築いたと伝わる。小田山城はその後、東黒川館の詰城として築かれたと考えられる。

永禄十一年(1568)16代葦名盛氏が向羽黒城を築き移るまで機能していたものと考えられる。

 

蘆名氏の廟跡になった。

2023.12.14(木) 登城