軍事・海運・商業の中心で、陸海交通の要所として重要地である志布志を手に入れようと、
およそ400年間に豪族が興亡の歴史を繰り返した城である。
南北朝時代には楡井(にれい)氏が領したが、畠山氏と禰寝(ねじめ)氏によって攻められ落城、楡井氏は滅亡した。
楡井氏を滅ぼした畠山直顕は延文3年(1358年)肥後の菊地氏に敗れて敗走し衰退、志布志城は島津元久が領して新納実久が城主となった。
七代新納忠勝の時には勢力を拡大しようとしていたが都城城主北郷忠相、串間城主島津忠朝の怒りをかって攻められ忠勝は降伏。
新納(にいろ)氏の所領は北郷氏と豊州島津氏で分領となった。
その後永禄5年(1562年)頃に肝付兼続が所領としたが、肝付(きもつき)氏が島津氏に降伏すると、志布志城は島津氏の直轄地となり、鎌田政近が入るが、元和の一国一城令によって廃城となった。
志布志小学校裏門を少し登ると廃屋の脇に内城入口
矢倉場は大手口近くにあり、
矢倉とは弓矢を納める倉庫であるとともに重要な防衛施設。
曲輪には、1357-1538年までの180年間に志布志を納めた新納(にいろ)氏初代、新納時久公の供養塔がある。
南北600メートル東西300メートル、6つの廓からなり、その間は空堀で遮る構造となっている。
マップが有るので迷わないが、方向音痴となる。
本丸
本丸の一角にある「三宝荒神」は新納氏(にいろし)180年間の居城の守護神
曲輪3下段
曲輪2上段
空堀
大空堀
大野久尾への道は雨で濡れた草が腰まで繁る。
腰から下がずぶ濡れ。池にハマったような状況になりテンションダウン。。。
内城の外観
2018年5月23日登城