下田湾に突き出た鵜島と呼ばれる半島上に築かれた、天然の要害。比高60m。
城の北側に位置する稲生沢川河口の船着場への安全な航行と、南伊豆における後北条水軍の制海権確保を主な目的としていたと見られる。
築城年代は定かではないが、天正16年(1588年)には豊臣秀吉に備えて大改修され、伊豆衆の一人清水上野介康英を城主とした。
天正18年(1590年)豊臣水軍は長宗我部元親・脇坂安治らを大将とする一万余りの軍勢で城を囲まれ、対する北条方は清水康英を大将としてわずか六百余名の兵力であった。
五十日余りに及ぶ籠城の末、開城勧告を受け入れ降伏。
北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、慶長6年(1601年)に三河国の田原城へ転封。
以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。
現在は、下田公園として整備され、カーター記念碑や開国記念碑などがある。
下田城は湾に張り出した、北西から南東へ伸びる尾根を中心に、東へ伸びた二本の尾根に曲輪を展開する。
曲輪は非常に手狭で、「天守台」と伝えられる主郭部がやや広い程度で、多くの兵を置くことは不可能である。
尾根上の曲輪とは対照的にその下に設けられた横堀は深く、一部には障壁を設けて畝堀となっている。畝堀は特に主郭の下の部分に良く残されている。
志太ヶ浦展望台
馬場ヶ崎展望台
下田の街方向
下田駅前(城址方向は後)
下田城美術館なる模擬天守もあるらしいが気がつきませんでした。(老朽化のため休館中)
たぶん、写真の正面の山腹。