『あなたたちは今から別の何かになるのではありません』
師匠から学び始めてからしばらく、この言葉の意味がわかりませんでした。
私は師匠からの教えを受け続けることで真理を会得し、悟りに至り、特別な人間になるものだと思っていました。
しかし、師匠の教えとは何も得ないこと、つまり捨てることだったのです。
私達は生まれてから今まで多くの体験をし、記憶をつくってきました。
この記憶を別の言い方をすれば思い込みです。
人が持つ思い込みの中には自身に害をなすものがあります。
それがあるために人は悟りから遠ざかっているとグル(導師)達は言います。
だからそれを捨てなさいと私の師匠は言うわけです。
『あなたたちは今から悟りを得るのではありません』
『悟っていないという幻想を捨てることです』
この師匠の言葉からもわかる通り、捨てることが大事なんです。
日月神示では『赤子の心になれ』と述べられています。
赤子のような素直で無邪気な心になりなさいと言うことです。
では害になる思い込みとは何でしょうか?
人として生きていれば日常生活で心が動くことがあるはずです。
実は心が動くこと自体が害で、大きな動きをするものほど害も大きいというわけです。
また目をそらしたいもの、触れたくないものがあるなら、それも害になるものです。
なぜかというと目をそらそう、触れないようにしよとする原因が心の動揺からの逃避だからです。
これらを捨てる方法は何度も書いてきた通り、それとともにあることです。
そのために必要なのが素直な心、無邪気な心なんです。
素直に、無邪気に心の動きを見ることです。
これが心の洗濯、掃除と言われるものです。
これを繰り返すことで心の驚くべき浄化作用を体験することが出来ます。
心を浄化して現れるものが神心であり、それが悟りとか真我の実現と言われるものです。
目をそらしても、触れないようにしても害は永久になくなりません。
むしろ、より大きくなって迫ってきます。
逃げれば逃げるほど追ってきます。
これも神の計らい故です。
向き合いなさい、それとともにありなさいということです。
この話には得るものなど何もないと気づいてもらえたでしょうか?
師匠はこう言います。
『得ようとしないものが一切を得る』
以下は日月神示の一文です。
日月神示
【扶桑之巻 13帖】
木でも草でも皆、中から大きくなるのざと申してあろう、付け焼刃や膏薬貼りで大きくなるのではないぞ、三千年に一度という、またとない結構な時がめぐりて来ているのであるぞ、為せば為るぞ、難しいこと申しているのではない、自分の中の自分を掃除して自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、磨けば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞ、キリストぞと申してあろう、内にあるものを磨けば外から響くもの、磨かれた穢れのないものとなるのぢゃ、中の自分を掃除しないで居るといつまでたっても、岩戸が開けていても岩戸は開けん。
【扶桑之巻 15帖】
天のことは今までは人民にはわからなかったのであるぞ、時めぐりて来て、岩戸が開けて、わかるようになったのぞ、今までの人民であってはならん、地そのものが変わっているのであるぞ、人民は我が強いから一番遅れているのであるぞ、人民の中では宗教人が一等遅れているぞ、神人とならねば生きては行かれんのぢゃ、天地がアメツチとなってきているからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目覚めた人民少ないぞ、今に昇り降りで忙しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民たちよ、もうその時は過ぎているのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地を踏みしめよ、大地の気が身内に蘇るぞ。