托鉢とはお坊さんがじっと立ちったままお布施をもらう修行のように見えます。
しかし、これは修行をしているのではなく、修行をさせているんです。
昔は托鉢で家をまわる時、出来るだけ貧しい家を選んで訪問していたそうです。
なぜかというと貧しさの原因は与えることをしないからなんです。
それを学ばせるために与えなさいと体験させているんです。
過去のグル(導師)達は愛を与えなさい、慈悲を施しなさいと言いました。
表面的な貧しさは内側の貧しさが原因だとグル達はよく知っているからです。
必要以上に得ようとする心、不満の心とは内側が欠乏している状態です。
故に外側に欠乏が現れるんです。
必要以上に得ようとする心、不満の心自体が貧しさそのものなんです。
日月神示では『与えることはいただくこと』だと述べられています。
与えるものに欠乏はありません。
満足しているからこそ与えることが出来るんです。
故に満足が現れるんです。
またお釈迦様の説いた縁起の通り、影響は巡りめぐって戻ってくるようになっています。
あなたの与えたものが影響となってあなたの元に戻ってくるんです。
与えたものしか受け取れないんです。
現在は我善しの奪い合いの世と言われています。
それが国単位で起こっているため、多くの貧しさを生み出しています。
自国では国民から奪い、外交では他国から奪い、それで満足しているかと思えば不満になっている。
ここに喜びや楽しみなど生まれようがありません。
政治も同じように与える政治でなくてはいけません。
与えることが出来るのは物だけではありません。
先に書いたように愛や慈悲を与えることが出来ます。
生き方、考え方、気づきを与えることが出来ます。
それらを通して喜びを与えることが出来ます。
喜びが欲しければ、喜びを与えればいいんです。
以下は日月神示の一文です。
日月神示
【地つ巻 18帖】
我れ善しの政治ではならんぞ、今の政治経済は我れ善しであるぞ。
臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、⦿(かみ)の光のやり方でないと治まらんぞ、与える政治がまことの政治ぞよ、臣民勇む政治とは、上下まつろい合わす政治のことぞ、⦿(日)の光ある時は、いくら曇っても闇でないぞ、いくら曇っても悪が防げても昼は昼ぞ、いくら灯りつけても夜は夜ぞ、⦿のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあろうがな。
政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、政事(まつりごと)でないぞ。
⦿の臣民、魂と肉体の別ないと申してあることわからぬか、⦿のやり方は人の身魂(からたま)、人のはたらき見ればすぐわかるでないか。
肚にチャンと⦿鎮まっておれば何事も箱さしたように動くのざぞ、いくら頭が偉いと申して、胃袋は頭の言う通りには動かんぞ、この道理わかりたか、ぢゃと申して味噌も糞も一つにしてはならんのざぞ。
【光の巻 3帖】
今の政治は貪(むさぶ)る政治ぞ、⦿のやり方は与え放しざぞ、(うづ)ぞ、マコトぞ。
今のやり方では世はおさまらんぞ、道理じゃな。
天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与えるものあるのざぞ、惜しみなく、隈なく与えて取らせよ、与えると弥栄えるぞ、弥栄になって元に戻るのぞ、国は富んで来るぞ、神徳満ち満つのぢゃ、この道理わかるであろうがな。
取り上げたもの何にもならんのぢゃ、捧げられたものだけがマコトじゃ、乗り物もタダにせよ、田からも家からも税金取るでないぞ、年貢取り立てるでないぞ、何もかもタダぢゃ、日の光見よ、と申してあろうが、(金いらんと申してあろが、)暮らしむきのものもタダで取らせよ、タダで与える方法あるでないか、働かん者食うべからずと申すこと理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与えて取らせよ、与える方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与えぱなしぢゃ、そこに⦿の政治始まるのぢゃぞ、⦿の経済あるのぢゃ。
やって見なされ、人民の算盤では木の葉一枚でも割り出せないであろうが、この方の申すようにやって見なされ、お上(かみ)は幸で埋もれるのぢゃ、余るほど与えて見なされ、お上も余るのぢゃ、この道理わかりたか。
仕事させてくれと申して人民喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ。
皆々⦿の子ぢゃ、⦿の魂植えつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、惜しみなく与えるうちに人民元の姿現れるぞ。
貪(むさぶ)ると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、算盤捨てよ、人民⦿とあがめよ、⦿となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民、地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろうがな
【まつりの巻 7帖】
金いらんことになると申してあろうが、世界の人民皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねてもわからんこと近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、⦿の心が九分通り臣民にわかりたら、⦿の政治わかるのぢゃ、与える政治いくらでもあるぞ、一通りと思うなよ、時と所によっていくらでもあるのぢゃ、つまることない⦿の政事(まつりごと)ぢゃ。
人民の政治、⦿国(かみぐに)には用いられんのぢゃぞ、三千世界天晴れの政治早う心得て、まつりくれよ。
悪⦿(あくがみ)の眷属(けんぞく)はまだよいのぢゃぞ、箸にも棒にもかからん、話のわからん動物霊に化かされて、玩具にされていて、まだ気づかんのか、⦿はいつまでも待たれんから、こんな身魂は一所に集めて灰にするよりほかないから、心得ておりて下されよ。
【秋の巻 15帖】
何程世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、その心が我が強いから、一方しか見えんから、世界の為にならん。
人類のためにならんぞ。
洗濯ぢゃ、洗濯ぢゃ。
自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与えてもなくならんぞ。
与えよ、与えよ、与えてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。
無くなると思うのは形のみ見ているからぢゃ。
カラのみ見るからぢゃぞ。
本質は無限に拡がるぞ。
与えるほどよりよく、神から与えられるぞ。
井戸の水のようなもんぢゃ。
汲めば汲むほどよくなる仕組。
【碧玉之巻 12帖】
捧げるもの、与えるものは、いくらでも無限にあるではないか、捧げよ捧げよ、与えよ与えよ、言(ことば)こそは誰もが持てる其の捧げものであるぞ、与えても与えても無くならんマコトの宝であるぞ。
【五葉之巻 5帖】
もの与えることなかなかぢゃ、心してよきに与えねばならんぞ。
与えることは頂くことと知らしてあろうが、与えさして頂く感謝の心がなくてはならん、強く押すと強く、弱く押すと弱くはね返ってくるぞ。
自分のものというもの何一つもないぞ、このことわかれば新しき一つの道がわかるぞ。