いちばん辛かったこと | りぼんの日記

りぼんの日記

ある日夫が突然失踪。その原因は脳腫瘍(悪性リンパ腫)でした。わずか2ヶ月の闘病生活を経て2022年9月10日53歳でこの世を去りました。夫の闘病の記録と残された私と3人の娘の今を綴っていきます。

夫の闘病中に一番辛かったのは

何もかも私が決めなければいけなかった

ことでした。



夫が脳腫瘍の診断を受けた時

すでに認知症や見当識障がいが出ており

精神的な乖離もあった為

意思決定不能な状態で

治療方針から何から何まで

私が決めなければいけない状況でした。



最初に診断を受けた時の告知は娘と4人で

聞きましたが

その後の病状説明や手術に関することは

ほぼ私1人で話を聞いてその場で決めました。



夫の病状は

いつ急変してもおかしくないほど悪く

手術も治療も急がないといけなかったため

病院からは即決断を求められました。

だから誰かと相談してから決めるなんて

悠長なことを言っていられませんでした。

それは亡くなる直前まで続きました。



コロナ禍だったので

病院での病状説明には1人しか入れず

いつも「奥さん」である私が呼ばれます。


主治医や看護師に囲まれて

手術、抗がん剤、放射線治療、

緩和ケア、万が一の時のこと

たくさんの決断を求められました。


そして夫に関する全ての同意書は

私がサインしました。

何十枚書いたか分からないくらい大量の同意書

全てに…です。



一度だけ

夫にサインするようにと

振ったことがありましたが

夫は首を横に振って

書くことを拒否しました。




ほとんど話しが出来ない状況の中

夫の意思が分からない状態で

夫の命の選択まで

私1人で決断しなければならない…

その事が私にとって

とてもとても重たくて

とてもとても辛かったのです。




抗がん剤治療が始まる時



万が一患者本人に

意思決定能力が不能になった場合

全ての意思決定を引き受けます

という主旨の同意書にサインを求められましたが



「私には荷が重すぎて出来ません」

と号泣して書くまでに時間がかかりました。




緩和ケア病棟で

鎮静剤を変薬したら

今後2度と目覚めることはない

という時の変薬の決断も

私1人でした。




その時のことは

到底忘れることは出来ません。





夫の命の選択を全て委ねられてしまった

その重さは計り知れないものでした。




今でも



本当にあれでよかったのだろうか?

夫の意思に沿っていたのだろうか?

他の家族の意思を汲むことができたのだろうか?




そう思うことがあります。