難関突破の神社 恋の宮 金崎宮 | 北陸の神社仏閣、温泉紹介

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金崎宮 

 福井県敦賀市金ヶ崎町1-4

 

 戦国時代 織田信長最大のピンチを切り抜けた「金ケ崎の退き口」が有名で、そこから「難関突破」の御利益のある神社といわれています。また、明治時代に始まった「花換祭」の風習から「恋の宮」の別名でも知られています。

 

 

 

 

金ケ崎の退き口

 織田信長軍が朝倉氏を優勢に攻めていたころ、同盟関係にあった朝井家(信長の妹お市の方の嫁ぎ先)が朝倉方につくことになり、信長軍は挟み撃ちの危機に接します

 

 お市の方が兄の信長に陣中見舞いとして「両方を結んだ袋に入った小豆」を送ります。それを見て、挟み撃ちの意味に気づいた信長は一目散で京都まで逃げたとの逸話もあります。

 

 信長軍の撤退で、しんがり(相手の追撃を抑えながら撤退する危険な役)を務めたのが、後の豊臣秀吉と徳川家康といわれております。

 

 

 

恋の宮

 明治時代、金崎宮へ桜見物に訪れた男女が「花換えましょう」と声をかけあい、桜の小枝を交換することで思いを伝えたそうです。「花換え」をしたカップルは将来幸せに恵まれるといわれ、金崎宮は「恋の宮」と呼ばれるようになったとのことです。

 

 

御祭神

 尊良親王 恒良親王

 

 1336年 足利尊氏が京都に攻め寄せてきたため、後醍醐天皇は新田義貞に皇子の尊良親王 恒良親王を北陸道に向かい再興するよう命じます。

 

 新田義貞一行は金ヶ崎城に入りますが、足利尊氏は高師泰を総大将として兵六万余で金ヶ崎城を攻撃し、遂に金ケ崎城は落城します。

 その戦いで尊良親王は亡くなられ、恒良親王は脱出しますが捕らえられて京都に幽閉されます。後に毒薬を盛られて亡くなられたといわれます。

 

由緒には

 明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月 尊良親王を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。とあります。

 

拝殿

 

 

 

 

 

手水舎

 

 

御朱印

 

 

 

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