石部神社
石川県小松市古府町カ169
石碑の御由緒より
弘仁14年(823)3月、越前国から分かれて加賀国ができた。その府庁のあった所がこの近くで、その南に当社がすでに祀られていたと伝えられる。当時国司は、毎月一日に加賀の主な神社八社を廻り参詣した。やがて当社を加賀国総社とし、ここを参拝することによって八社を廻るのに代えた。当時の隆盛と規模の雄大さは、加賀国第一であったと言われている。
安元2年(1176)国司と白山衆徒との争乱「涌泉寺事件」に関係し、大きな被害をうけ往年の盛況はなくなる。
慶長5年(1600)小松城主丹羽長重は社殿を修理し宝物を納められた。
加賀三代藩主前田利常は厚く尊信し、歴代藩主もまた厚く敬い奉幣した。
明治5年8月郷社に列せられ、明治39年12月神饌幣帛料供進社に指定された。
幾年月の間に栄枯盛衰が繰返され、まさに時代に翻弄された神社と言えます。
涌泉寺事件
国司代理の藤原師経(もろつね)が、ある日、涌泉寺の寺僧たちが水浴びをしていたところに、師経の家来が寺に乱入し馬を洗うなどの乱暴狼藉をはたらきます。普段から横暴な振る舞いに不満を持っていた寺僧と師経の家来達の間で戦いとなりますが、師経は寺を焼き払ってしまいます。
涌泉寺と白山宮の衆徒は、焼き払った師経の処分を求め、延暦寺(比叡山)とともに朝廷へ強訴し、このあと朝廷の内部抗争に発展し全国的内乱へとつながったといわれます。
この抗争は「平家物語」や「源平盛衰記」にも記録が残っています。
御祭神
櫛日方別命(クシミカタ命)
大物主命と活玉依毘売命(イクタマヨリビメ命)の子にあたります。
櫛御方命の子孫には、崇神天皇の時代に三輪山の大物主を祀る神官として、大物主の祟りが原因で、大流行した疫病を鎮めたといわれる意富多々泥古(オオタタネコ)がいます。
古府シマ遺跡
石部神社の南方から西方に位置し、神社周辺には加賀国府があったと考えられます。
この遺跡で発掘される土器の年代から、平安時代末頃の国司の館など加賀国府に関連した施設があった可能性が指摘され、平安時代末の土器も多く出土しました。
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