継体天皇即位の軌跡 第13回(江沼地方 古墳群) | 北陸の神社仏閣、温泉紹介

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今回は継体天皇の即位やその後の継体王朝を支えた豪族、国造の墓と思われる古墳をご紹介します。

現在の石川県加賀地方の南部(江沼)を治めていた豪族は、「上宮紀」によると、継体天皇の母(振姫)の母の出身氏族である 江沼氏といわれています。

 

1)法皇山横穴古墳(石川県加賀市勅使町53-1) 6世紀後半~7世紀末

 

複雑な構造と精巧な作り方で全国的に知られた遺跡で未調査のものを含めると200基は超えるものと予想されます。

 

 

2)狐山古墳(石川県加賀市二子塚町チ-14) 5世紀後半

 

副葬品の種類や量は機内王陵墓の様相を呈しており畿内との関係の深さをみることができます。

 

3)富塚丸山古墳(石川県加賀市富塚町イ78) 6世紀前半

 

南加賀最大の円墳です。

 

 江沼氏は「古事記」には、江野財臣と書かれ、武内宿禰の子である若子宿禰の後裔氏族とされています。武内宿禰といえば、蘇我氏の祖ともいわれている人物です。

 

 <武内宿禰の逸話>

 景行天皇(12代)に越国(現在の北陸地方)に遣わされた武内宿禰は、蝦夷地(当時の蝦夷地は現在の北陸、関東、東北を含む東日本全域)を討伐することを天皇に進言します。その中で、越の人々が「入れ墨」をしていると書かれています。このことから入れ墨の習慣は「やまとの国」にはない習慣だったことがわかります。

 

 その「入れ墨」といえば、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」の風習のひとつとして書かれています。邪馬台国は北陸にあった??

 

 

※「邪馬台国」はどこにあった?

 

 恐らく越と出雲、九州北部とは文化、人物などの交流も盛んに行われており「入れ墨」の習慣も共通していたのではないでしょうか、おそらく九州北部を治める豪族が魏に使いを出し「親魏倭王」の称号を得て後ろ盾にした、というところが真実で「邪馬台国」は九州の豪族と思われますが如何でしょうか?

 

 

※「日本書紀」「古事記」に「邪馬台国」「卑弥呼」が全く触れられていないのはなぜ?

 

 当時の編纂者達は「魏志倭人伝」は知っていたようですが、やまとの国とは関係のない国が行ったことなので採用しなかったのではないでしょうか?

 

 もし日本書紀の編集者の人達が「邪馬台国」について少しでも触れておいてくれれば、このような大きな現代のミステリーになってなかったでしょうね。