三十 環海異聞の序例附言

 今年に五十二歳に成るかと年の初めに思いしも、もう半年近くも過ぎた。我が家の周りはどの樹木()もすっかり青葉だ。

 北国の国防がためにと正月早々駆り出された各藩の人数は、耳に届いているだけでも相当な人数に上った。会津藩が一六〇〇人、続いて南部藩が一二〇〇人、津軽(藩)も一二〇〇、秋田(藩)が六〇〇、庄内(藩)が三〇〇、仙台(藩)が二〇〇〇人だったか。

 箱館、会所など要所々々に人を置いて蝦夷地を警固すると聞いても居たが、何故か今になっても去年(きょねん)一昨年(おととし)(文化三年、四年)のような騒ぎを聞かぬ。襲撃事件が減りもしたに、オロシヤ側に何ぞ予期せぬ問題が生じても()るか。

 蝦夷地が事が気になりながらも、環海異聞の最終編集、校正に追われる毎日だった。されど周りはそれだけで良しと吾を放っておいては呉れなかった。

 二月には(仙台)藩に源四郎(工藤源四郎)が亡くなった後の工藤家の跡目相続人の届けを提出した(二月九日、官途要録)。

工藤様(工藤平助)亡き後の相続人(工藤源四郎)が届けを吾がしても居れば、今回も引き続き頼むと桑原殿(桑原隆朝純(純明)に頼まれもした。だが、(相続人の)人選は兎も角も、工藤様(工藤平助)の御恩を思うに、吾が本来せずばならないことだった。

 また、合間々々に寒地に見る病の特徴を少しばかり書き置き(寒地病案)していると口にしたれば、版元に発刊せよとせっつかれ(三月発刊)、五月初めには中居(中居(なかい)厚沢(こうたく)、中井亀助として身幹儀に関係した人物。広島蘭学隆盛の祖)の書いた「弼離考(ひきりきこう)」(西洋の医薬や蘭学を世間に紹介する)に再び付文(推薦文)を書きもした。

 この五月(文化五年。一八〇八年六月)に発刊にこぎつけた「環海異聞」は、とうとう首巻も含めれば十六巻にもなった。随所々々に右仲(松原右仲)の書いてくれた絵図を挿入したれば読む者は楽しくも有り、理解し易いだろう。版元の評判も良い。

その附言には、天文方の間重富殿に大変お世話になったと書き記したが、堀田様の教えの通り昌永(山村昌永、才助)の名も、右仲(松原右仲)が名も一切出さなかった。

 また、オロシヤは耶蘇を宗旨とする国であると書いても、それ以上に耶蘇の事を詳しく書きもしなかった。オロシヤの家や屋鋪(やしき)(店舗)の特徴、生活の有り様、文化の有り様、食生活の有り様などを少しばかり書くに留めた。

 また、漂流民が事に触れるに、地は北墨(きたあ)()()()洲の属島に始まり、亜細亜(あじあ)洲、欧暹(よーろっ)()洲、亜弗(あふ)()()洲、南墨(みなみあ)()()()洲の五大洲方を遍歴して地球の四面環海を一周し、驚涛(きょうとう)九万里を(しの)ぎ、(ふたたび)我が東方に帰朝せし、前代未聞未曽有の一大奇事にして上下古今剖判三千年来絶えて無き所の奇話異聞なり。命を受けて此編纂環海異聞と題せしもこれが故也と記した。(文は宮内庁書陵部所属本、国会図書デジタルの「環海異聞」からー句読点、フリガナは筆者)