二十九 馬場佐十郎が事
「こちらこそ昨年のお礼にも、新年の御挨拶にも行かねばならぬに・・。
先に御来宅頂くとは・・・、恐縮、痛み入ります」
「ハハハハ、そんなに恐縮がられてはこの屋敷に来ずらくも成る。
吾の勝手な思いじゃが、許されよ。ここに来るは吾の息抜きでも御座る。
天文方を離れて地理、測量、窮理が事、天文が事、世界が事等を気楽に話せるはここしか無いでの。
御迷惑でなければお茶で世間話も許されよ」
「勿体なきお言葉。
教え頂く事ばかりなのに恐縮に存じます」
「ハハハ。正月早々、息抜きに来たと申したでは御座いませぬか。
年齢もそう違わなければ、話し易くも有る大槻様です。
委細構わぬところで、お茶を所望しても良いかの?」
(大槻玄沢、宝暦七年九月(一七五七年十一月)生まれ。間重富、宝暦六年三月(一七五六年四月生まれ)
赤面もする。遅い。タホもお京も間殿がご訪問を知ろうに、お茶は如何したと思いもする。
間もなく、お茶を淹れてタホが来たにホッとした。息災に有ったかとの問と、今年も宜しくとの御挨拶に恐縮したタホが部屋から出て行く。それだけで安堵を覚えもした。
「正月にも御座いますれば、御話の後に酒でも一献、如何でしょう?」
「いやいや、その心配は要らぬ。
御子息は息災に御座るかの?」
「倅?、玄幹に御座いますか?
はい、今に(仙台藩)御屋敷の方に出ておりますが・・・。
(玄幹は)藩の医者の見習いの身にございます」
頷く間殿だ。
「今度、長崎から馬場佐十郎貞由と言う者が来ることになっての。
倅殿が長崎に在った折に、好を通じていたとも聞いておる。
それ故、その若者が江戸に来たらば何かと聞き役にもなって欲しいと思っての。
慣れぬ江戸でも若者同士、教え合うことも支え合うことも御座ろうかとの老婆心よ。
佐十郎はオロシヤが調査と蘭書翻訳がために江戸に残された馬場為八郎殿の弟御じゃ。父親が早くに亡くなり、また年齢(歳)も離れておれば、(為八郎殿は)佐十郎の養父でもあると己で笑いながら申しておった。
為八郎殿同様、天文、窮理に詳しく蘭語にも達者な若者と聞いて居るが、驚いたはその佐十郎の口から大槻様の御子息の名が出たと言うのじゃ。
玄幹殿が長崎に行かれたのは三年前じゃったかの?。
その折に、出島のオランダ通詞に非ずして江戸に名の聞こえしは志筑忠雄、その活躍が江戸にも知れていると話し、習うべき人物が傍に居るではないかと語ったのが玄幹殿と聞く。
佐十郎は、御子息の奨めで志筑殿が所に弟子入りしたと言ったそうに御座る。
今に身は出島に出入りする稽古通詞にあるそうだが、蘭語ばかりでなく仏蘭西語、英吉利語にも達者とお聞きして居る」
驚きもした。だが、今に傍に在らざれば玄幹に確かめようもない。
「何歳になられるのかの。して、御上に何ぞ特別な御用向きが御座いましたか?」
「若干、二十二歳と聞いておる。
御上(幕府)の中に、吾国による世界地図作成が必要との考えが出て来ての、景保殿(高橋景保、天文方の総帥)に作成の命が下ったは(去年の)暮の十二月。それも堀田様の発案に御座ろう。
堀田侯の目は世界に向いておる。吾はラランデ歴書の翻訳に取り組んだ中で、天文学の研究にも世界を知るにもこれからは翻訳の力、語学の理解が不可欠と痛感しておる。
世界地図を作るにも、オランダ、イギリスにフランスにオロシヤ等々、異国の地図も参考にせずばなりませぬ。それで天文、地理、測量が事に詳しく、かつ語学に堪能な者、得意とする者を景保殿の補佐にすると言うことで御座ろう。
天文方の業(仕事)がまたも増えもするが、これも堀田侯のお考えに御座ろう。
今頃、侯はクシャミでもして御座るかの?」
何時も最後は陽気に冗談をお口にする間殿だ。吾への要件を済ませ、間殿を取り巻く近況をお聞かせ頂くだけで(吾の)心は和みもする。
(馬場貞由(幼名、佐十郎)が実際に江戸に来たのは文化五年四月。(一八〇八年五月)である。実兄、馬場為八郎が同年三月に御上の命を受けて再び蝦夷地に向かい、形の上では兄の仕事を引き継いだ。
また、髙橋景保が吾国初の世界地図を完成したのは三年後の文化七年(一八一〇年)で、それが「新訂万国全図」である。西洋や中国の作成した地図を参考にしながらも、また、大黒屋光太夫から意見を聞き、更に間宮林蔵の樺太調査の結果を踏まえて、初めてカラフト島を世界地図に載せた。
世界が参考にすることにもなった「新訂万国全図」は日本製の初の世界地図である)
「蝦夷地からお戻りになった後も、堀田様はオロシヤが事を気にして御座います。
御上(幕府)の中で協議されたのでしょう、暮(文化四年十二月)に(仙台)藩が御家老、中村日向様(中村日向守景貞)が江戸に呼び出され、中村様は慌ただしく再び蝦夷地警護に向かわれたのです。
連れもして行った藩士の方々共々、仙台よりも遙かに寒い冬を越したことになります」
何と思われるか解釈されるか分らぬ。親しくもある間様なれども、蝦夷地に北国を管理する力のある御大名を派遣すべき、家の子郎党を引き連れて御大名が蝦夷地に定着を計るべきとは己の案であることを隠した。