「はい。覚えて御座いませんか?。
正月にここへ来た時に、御馳走にもなりながら叔父上に「鯨漁叢話」(大槻玄沢著。享和四年、西暦一八〇四年刊)をお借りして御座います。
その際に、学頭からも古賀先生からも、長崎も平戸の生月島での体験を纏めよ、鯨が事を纏めよと言われたと御話して御座います。
今にその宿題に取り組んでおります」
横で玄幹が頷く。確かに、(吾の書いた)「鯨漁叢話」を貸した。正月早々体調が悪くも有り、また、漂流民の聞き取りが事で吾は頭が一杯だった。藩の新年の賀正の宴もやっとの思いで出席したことを思い出した。
貸した事は覚えても居る。だが、それが学頭から民治への宿題だったとの認識が掛けている。
民治の話を聞くに、相手が林学頭だったと雖も、堀田様は(仙台)藩の学制改革の構想を直ぐに語りはしなかったと想像がつく。吾もこの場でその事を口にする必要も有るまい。いずれ民治の仙台行きが実際となれば、色々と話すことも有る。
だが、民治(大槻平泉)は、養賢堂(仙台藩の藩校)はかくあるべきと、かつて折々に東蔵殿(志村東蔵)と意見を交わしていたらしい。まさかに、かつて版木代も無いと嘆き、故人ともなった林子平殿の学制改革の建議書の中を聞くとは思いもしなかった。
確かに東蔵殿が実兄は同じ儒学者として藩(仙台藩)に在る志村實因殿だ。(大槻玄沢が一緒に漂流民の聞き取り調査に当たった志村弘強の実兄でもある)
子平殿と年齢頃を同じにしておれば、五城殿は(林子平の)建議書の事も知っていよう。弟の東蔵殿とそれに係る意見もかわして居たろう。
藩士になると決めた民治の思いを聞くことにもなった。民治は言う。
「叔父上も知っていることと思いますが、藩には養賢堂があります。
されどその学生は減る一方で、吾が仙台に出たばかりの頃にも藩の人材育成が機能していないと師匠(志村東蔵)から何度か耳にしております。
それで江戸行きを希望した師匠に、吾もノコノコ付いて来た所でした。
あれから十四、五年になりますが、養賢堂は今も相変わらずに有ると聞いても居りますれば、(藩の)学制改革とて必要かと思います。
(養賢堂の)教壇に立つともなれば、その改革の一端を担いたいとも思います」
「何ぞ、具体的に思うこともあるかの?」
「はい。師匠の教えでも御座います。
人材育成の有り様を藩に建議した。(藩に)相手にされず脱藩したと聞く林子平殿と言う御仁の説を教えて頂きました。感心してお聞きしたことでもあり、今に覚えても御座います。
一つ、武士の子弟のみならず百姓町人までも養賢堂の学生として受け入れるべし。
一つ、人材は学問にて育つ。故に儒学を教えるのみにあらず広く教えるべし。
一つ、学内の敷地に天文台を立て天文、算術教育も施すべし。
一つ、養賢堂が施設の拡充と蔵書、書籍を増やさんがために、その費用は学ぶ者に求めるもよし。武士や町人に四、五銭ずつ上納させるべし。
身分を問わず皆々に自発的な学習の機会を与える。これは今の昌平黌(昌平坂学問所)と同じで御座いましょう。
また、今に必要な自然科学教育の必要な事を天明の世にも説いていたのです」
民治は、姿勢を正して言う。
吾は、良沢先生(故人、前野良沢)や工藤様(故人、工藤平助)を介して林子平殿を知った。交誼と言うほどのことでもないが一緒に飲みながら、教育の有り様、経済政策をお聞かせいただいた。
凡そ日本橋から欧羅巴に至る間を、「一水路のみ」と喝破したお言葉を聞きもして世界の地理の詳しい事に仰天した。
また、工藤様が林子平殿の「開国兵団」の序文を認めたと覚えている。その印象が強い。林子平殿は気骨のある人だった。
民治は、宿題の終わり次第に仙台に向かうと語る。民治にとって仙台には多事多難な事が待って居ようか。
(林子平は天明元年(一七八一年)と八五年の二度にわたって仙台藩に学制改革の建議書を提出している。たが、大飢饉の世に有り、財政難等を理由に何れも却下されている。
また、著書「開国兵団」(全十六巻、一七九一年刊行)では、寛政の初めの頃(一七九〇年前後)にもオロシヤの南下政策に危機感を抱き、国防と外圧に対する備えを主張している。大黒屋光太夫等の帰国や、大槻玄沢等の石巻漂流民に掛かる聞き取り調査以前のことである)