三十一 「鯨史稿」、レザノフの死

 民治が来た、学頭(昌平黌学頭、林述齋)等からの宿題を終えたと語る。小太りの体型に在るも、よれよれの吾の顔と違って晴れ晴れとした顔だ。これで、いよいよ仙台に下れると語る。

「宿題は何時に終わった?」、

「学頭にお出ししたのが六月初めですから、もう半月ほど前になります。「鯨史稿(げいしこう)」と名付け(学頭に)上程して御座います。

 お借りした叔父上の「(げい)(りょう)叢話(そうわ)」が大いに参考になりました。

 遅れましたが、叔父上にも御目通し頂かねばなりません。近く上程させて頂きます。

 有難う御座いました。」

(かん)の構成、評判は如何じゃ」

「はい。全六巻に纏めました。一から三に鯨の種類、呼び名、その図体(ずうたい)の大小等を表し、頭から尻尾までの解体図で骨格や内臓等が分かるようにして御座います。

 鯨の男性器、雌のお乳や性器までもですよ。

 また、巻の四、五、六には、捕鯨地を現し、(長崎)平戸も月島で実際に目にした鯨漁の場面、出る船の数、その種類から、(りょう)に当たる人の姿格好、手にする(もり)(あみ)等の諸道具に、納屋に収められてある鯨解体用の諸道具などなど、説明を付けて紹介しております」

「絵図は誰が書いた?」

「私が書きました。

 実際に鯨を見た、解体を見た、使われる船、(もり)やその他の捕鯨道具等は他人(ひと)に語ってもなかなかに理解されません。

絵にするにも説明するにも時(時間)を要する。ならば、下手でも自分が描こうと決めたのです。

 いやはや、四苦八苦でした。けど、出来上がりには満足しております」

 吾の貸した鯨漁叢話に鯨の絵はない。絵図を挿入してあれば鯨(関係)を知るに大いに理解し易かろう。字面(じづら)よりも絵図の訴える効果を吾は漂流民聞き取りが事につくづく実感したことだ。

「学頭から、昌平黌(昌平坂学問所)に永久に保存するとお言葉を頂きました」

 民治の晴れやかな顔を見直した。吾にとっても嬉しい。

(参考―大槻(おおつき)平泉(へいせん)(民治、大槻(きよ)(のり))の「鯨史稿」は今日、国立公文書館に収録されている。インターネットでも同館のデジタルアーカイブでその全容を見ることが出来るー筆者)

「仙台行きを、何ぞ、計画しているか?」

「はい。特段の事が無ければ、まだ日にちは定かで御座いませんが、間もなくに出立しようと思っております。

 二年前の大火の影響がまだ少しばかり残っております。造作の続きの管理と、財務に係る業務がまだ残って御座います。

それよりも、昨年の暮(文化四年十二月)、あの蝦夷地襲撃の騒ぎの元に有るオロシヤのレザノフ。

死んだとの事です、御存知ですか?」

「えっ。

 何処で聞いた?」

 驚いたの、何の。民治が言うは御上(幕府)の事だ。堀田様もとうの昔に知っていよう。御上と繋がりの深い学問所なれば林学頭が知っていても不思議は無い。

「吾も玄幹も長崎に滞在していた折に、オロシヤ船が(長崎に)来たのですからね。

 一艘のオロシヤ船の大きさにも驚きもましたが、その船を囲む番船が日に日に増えて数百艘が取り囲んだのですからもっと仰天しました。

 どれがどの藩の番船なのか、旗印を勉強しておけばよかったと思いましたよ。

 野心に非ず、交易を求める、信牌を持ってきたとオロシヤ側の意向を漏れ聞くに、御上(幕府)の対応(要求に応じるな、追い返せ)もまた知るに、後に必ず外患になるとその時にも思いましたよ」

 思わず、首を縦に頷きもした。

「学頭(林述齋)等の鯨が事を纏めよの宿題は、何時にか北国の守りを如何にせんとの話にも及び、それもまた宿題が事になりました。

 鯨史稿とは別に、経世體(けいせいたい)(よう)と言う書にして纏めて御座います。多くは叔父上にお聞きしても居る内容で御座います。

実際に(長崎で)鯨組を見て来たは其方と玄幹だ。それを元にして説得力のある意見、提案を本に纏めよ、今の幕府にそれが大事だ、必要だと仰せで御座いましたが、それが現実となりました。

 全、六巻になります。その中の第五巻「兵制(へいせい)」及び「守禦(しゅぎょ)」の項では、海に囲まれた(わが)(くに)外寇(がいこう)を防ぐに海岸沿いに要害を築く一方で、鯨組を備えるべきである。(くじら)(りょう)がための船はいざという時に戦艦の役目を果たし、鯨を仕留めるための(もり)などは武器に成る、捕鯨をする者は海を良く知り鍛えられた兵士である。鯨組はもってこいの兵備であるとしました。

 また、第六巻の「海防」の項には、オロシヤを相手に備えを考えるとあれば、人手の少ない今の松前(藩)が有様では扞禦(かんぎょ)(防禦)し得るべき共思われずと指摘し、叔父上にお聞かせいただいて居たとおり松前藩の移封(いほう)(国替)と、誰ぞ東北の大名が一族郎党と共に蝦夷地に移住し、定着し、オロシヤに備えるべきと(したた)めました」

 民治の語るを聞きながらに、ガッカリもした。オロシヤの異変が事を民治より先に耳にしたかった。蝦夷地の国防が事の一端を吾が先に堀田様に申し上げても居たのだ。

(文化、三、四年の択捉(えとろふ)(とう)等襲撃、殺傷、略奪、放火等の一連の騒動を後に知ったオロシヤの皇帝アレクサンドル一世は己の知らないことと不快感を表し、襲撃の中止を命じたと函館市史等に記録されている。

 また、レザノフの部下で蝦夷地近海を荒らし回っていたニコライ・フブォストフは後に皇帝によって処罰されたと有る。

ここに露寇(ろこう)事件(じけん)は一応の終結を見たが、オロシヤの脅威に備えるために文化六年以降も東北各藩の出兵、撤退が繰り返される。

 レザノフの死の情報を得ていても、当時、オロシヤの皇帝アレクサンドル一世のカムチャッカ半島からの全軍撤収命令の処置を幕府が知る由も無いと推測するー筆写)