帰国がために四人が乗った軍船(ふね)は、世界の国々や島々を調査探検して来るようにと王様の使命を受けてもいた。それ故四人は親日大使レザノフと共に、奇しくも世界を一周してから日本に来た、凡そ一万四千里の海路を経てから長崎に帰って来たと認めた。御屋形様はそれらを読んで、事の次第の大概は理解出来ただろう。

 だがその後で、改めて漂流民に引見したい。己自身で聞きたいとお(そば)()った者に語ったとお聞きした。領民(漂流民)を連れ来た事に感謝しながらも、オロシヤが攻めて来ないかともお尋ねになったともお聞きした。流石(さすが)に藩主、(おさな)かれども御屋形様と感心した。

 第二巻は、「此度(こたびの)使節(しせつ)(ならびに)漂人(ひょうにん)護送の来由」と小題を付け、遭難した民がオロシヤのオホーツクに渡り、王様の居るペテルブルグに至るまでの間、特に誰のお世話になったか、どの様な生活をしていたかを記した。

 何と言ってもキセロフが事を書かねばなるまいと思った。キセロフは、イルクーツクに居を構え、自前の船を持ち、商いと諸国との交易で巨万の富を築いていた。

 津太夫等がイルクーツクで凡八年を過ごさざるを得なかったにはエカテリーナ女王の不慮の死(脳溢血)と、キセロフの目論見の失敗が関係している。

 津太夫等は住まいの事、仕事のこと等で大変にキセロフの世話を受けている。津太夫や儀兵衛は、日雇いの手間賃を稼がんがためにキセロフが手広く営む店の一つや、新しい土蔵の普請(ふしん)を手伝ったと言う。また、左平は、イルクーツクから千里(露里で約千キロ)も離れた「サー・モーリョ」と呼びもする所(バイカル湖)での漁に参加したとも語った。捕った魚は数百樽もの塩漬けにしたと聞いた。

 キセロフは、カンパニーと言う言葉を使ったと言う。詳しく聞けば、和蘭(おらん)()で言う所の「コムバクギー」(北辺探事にこの表記。オランダ語のcopertieか)が事で、同業者が利益追求のために仲間同士で作る組合だった。

 吾の事にして考えれば、書籍の出版に版元の組合が有るのと同じであろう。同じ利益を追求するにもそれぞれの出版が部門、種類を超えたりすれば同業者間で事前の周知、話し合いも必要になる。

 キセロフはその「カンパニー」と言う物に所属しておらず、津太夫等が事の送還を機に国王のお墨付きを得て一人日本等東方の国との交易を目論んだ。当然の如く他の交易商人が反発し、送還の願いを取り上げないようにと国王に直訴したらしい。

 その騒動の渦中に、大黒屋光太夫等の帰国を助けたあのキリロ・ラクスマンが居た。キリロは、キセロフが津太夫ら仙台漂民の面倒を良くも見ていたことを知ってもいる。津太夫等が帰国を実現させようと、キセロフのエカテリーナ女王への交易許可申請に加担したらしい。

 だが騒動の最中にキリロ・ラクスマンもエカテリーナ女王も急死していた。津太夫等が八年ものイルクーツク生活になった原因の一つに間違いなかろう。

(キリロ・ラクスマンの死は寛政七年十二月七日、一七九六年一月五日。エカテリーナ女王の死は寛政八年十月七日、一七九六年十一月六日)、

 それから、着いたペテルブルグではオロシヤを良くに知る国老リュウマンゾフ・ガラフに大変御世話になった。そこで親日使節派遣を知り、大使レザノフの紹介を受けた。アレクサンドル一世(国王)はレザノフを送り立出すに当たって信牌を持たせた。また、漂流民四人は国王から一人一人が金銭二十枚、(たもと)時計を頂いたと記した。

 そして、カナスダの港(フィンランドにある軍港)を出帆してデンマーク、イギリス、アフリカのカナリア諸島、赤道を下り南アメリカのブラジル、その南端を回って再び赤道を通過してマルケサス島に碇を下ろし、いよいよに亜斎(あじ)亜洲(あしゅう)(じん)(とう)カムチャッカの湊バラウツケガワに到着。

 そこから南下して長崎に向かい甲子(きのえねの)(とし)(文化元年)九月六日、(一八〇四年十月九日)に長崎に入港した、通計一万四千里の海上行程。実に一年三カ月の海路と書き記した。漂流民四人は十三年目にして日本に帰朝したと認めた。

 また、漂流民はオロシヤで購入したと語る世界地図を四枚持参していた。彼等の言う航路、日月に曖昧なところが有り、長崎がお取り調べで、御奉行所はその地図に朱線でもって航路を明らかにしている。

 その朱線は至って精密にして吾は感ずるところ多かれば、別途、調べてその報告に当たらんと思う。地図が事は(仙台)藩にとっても隠し置くべ物にも御座りましょうがこれを見ながらに、行ったその地方、方位、路程等を改めて調べたいと記した。