「ちょっと落ちつこうか、みんな、座ろう」

 

「立ってください♪」

しっとりめの曲が続いたあとイントロでのヤイコ(矢井田瞳)の声掛け

 

「立っていいよーーーーひらめき

コンサート終盤、ピアノを軽やかに弾きながら裕美さんが合図

 

 

正確ではないかもしれません。

でも大体おおまか、こんな場面こんな言葉。

大きな間違いは無いだろうと記憶を蘇らせて

記述しました。

 

 

さて

まず

以下、

 

擁護していると読み取れると思いますが、書いている本人(僕)にその意図はありません。

出来事の解説をしているつもりです。

 

けれど結果擁護だ!Just擁護だ!! Only擁護だ!!!と以下思われそう・受け取られそうです。

が、そう振舞った本人(マドンナ)の気持ちを推し量ったら、そういう風になってしまいました。

 

 

こんな事があったようです。

 

抜粋

 

歌手のマドンナ(65)からコンサート中に立ち上がるよう煽られた車いすの観客が、マドンナを擁護している。

1999年の自動車事故で対まひ(手や足の両方にまひが残る状態)が残ったヴァネッサ・ゴーマンさんは、3月初めにロサンゼルスのキア・フォーラムで開催されたマドンナのコンサートに参加。

 

公演中にマドンナから「そこで座っている人、何しているの?何で座り続けているのよ?」と責められていた。 しかしマドンナはすぐに自身の過ちを認め、「わかった。不適切だったわね。ごめんなさい。あなたが来てくれて嬉しいわ」と反応。

 

その模様を捉えた動画がTikTokで拡散され話題となっていたところだ。  今回ゴーマンさんはTMZに「車いすの人の中には立ち上がれる人もいる。彼女は私にまひがあることを全く知らなかった」と話し、コンサート中のやり取りにマドンナからの意図した悪意はなかったと続けた。

 

 

公演中座っているお客さんがマドンナの目に入り傍まで近づき「そこに座って何をしているの?」と非難したようです。←〈非難〉と僕が今ここで表現したのは、そのお客さんが車椅子だと分かるとマドンナがその場ですぐ謝罪をしたからです。

ちなみに、この車椅子のお客さんは、コンサート後「車いすの利用者の中には立てる人もいます。彼女は私が半身不随だとは知らなかったのです」と、怒ることなくおおらかに広い心でインタビューに答えたようです。

 

 

さて

 

マドンナの最初の言葉の真意(着座しているのを快く思わなかった事)を、特に、僕は責める気持ちがありません。また同じく、車椅子だと判り直ぐその場で御免なさい出来たマドンナを殊更に賞賛するつもりもありません。 「自分の過ちを素直に認められない謝罪できない・しない人間が多い中、それはこれは偉い!」と讃える人が居ます。が、マイナスをゼロにしただけでそこまでそんなに偉くないでしょう、と、全く偉くない僕はいつも思ってます。

 

また

 

「わざわざお金を払って来ているのだから、立とうが座ろうが客の勝手だ」という意見も首肯できない。〈わざわざ〉が余分。会場に足を運んだのは本人の希望意志でしょうから、あたかも演者よりも観客が上であるとも読み取り可能な表現・あるいは思想そのものに異議があります。

〈わざわざ〉が観客に使えるのならば、演者も〈わざわざ〉〈その会場にまで来て唄ってやっている〉と、友好関係ではなく対立関係で興行が成り立っているとなってしまいます。

 

お金で結ばれていると捉えてしまうと、

どちらが上だ下だ、より偉い偉くないという

錯覚を覚える余地が生じるようです。

お金を払う側も受け取る側も対等です。

 

 

演者を神と崇めません。

客も神ではありません。

車椅子の方がコンサートに来ることに

注文をつけるなんてこともありません。

これが僕の立場です。

 

横道です。

同じくマドンナ

ゆえに だから

あるいは しかし

開演まで2時間待たせたのは普通にダメ、

大人としてダメだと思います。

僕が小学生の時に学んだ知識では

(地球外生命体の乗り物のエイリアン・クラフトとしての)UFOは

4秒で地球を1周できるとのことです。

待たせ過ぎです。※6秒だったかもしれません

演者が神様なら別の話。

けれども演者は神様ではない。

マドンナですら神様ではない、はず。

そして客が神様でなくとも

【これ】ダメでしょう。

駄目だと思う

 

 

 

 

さて

 

歌が聴きたいのだ!

僕は

 

 

これが僕の気持ちです。

でも歌い手側がスタンディングやノリノリの反応をお客さんに期待する希望する欲する要求するのまでをも、否定することは当然出来ないです。

 

つまりは「一緒に二度とない今この瞬間を心からからだ全部で楽しもうよ!」という歌い手側の気持ちを拒むことはこれも当然出来ません。

 

でも、そして、

余地も客側には残っていて欲しいのです。

これを他の客に否定されたくはない

姿や反応を規定されたくはない。

否定も規定もしたくない。

 

もちろん

 

自然に気持ちを猛らせたり

心を激しく震えさせたり

魂を揺さぶる力が

音楽にはあります。

会場でなら尚一層です。

意識せずとも身体が歌に呼応します。

 

でも座ったままで(手拍子もせず)

それを感じたい瞬間

そういう時もあります

 

わけもわからずトランス状態で

無我夢中で、一心不乱に、ではなく

バラードでなくとも身動きせず

しかと心にからだに二度とない今この瞬間を

噛みしめたいという気持ちだってあるのです。

 

傍から見るとノリが悪い、

つまらなそう、異質異端、

何しに来たの?と映るのでしょう。そこで・・・

 

 

歌を聴きたいのだ!

僕は

体育をしに来たわけじゃあないんです

ダンスパーティーや舞踏会に来たつもりはないんです

歌い手は神ではなく新興宗教の催事の場でも

僕は信者でもないのです

ただただその人の歌が好きなんです

 

 

参考

二次的な引用が多いので真偽は不明ですが、僕はこの山下達郎さんのスタンスに安堵します。

 

(演者側の達郎さんがそこまで)よくぞ言ってくれましてありがとうございます感が強いです。

 

 

 

 

 

このブログを除きに覗きに来てくれている

七賢人十聖人1荒くれ者の皆様

うち二冠保持

虹野かなたさんのブログのコメント欄

 

かつて・・・

確か・・・歌に合わせた手拍子に

「そういう歌じゃないから」と言って

途中で演奏を止めて唄い直した 長渕 

今これに拍手喝采です。

 

 

 

でも

 

剛に入っては剛に従え≒郷に入っては郷に従え

ここまで書いてよく分かった気になっています。

ちょっと気持ちが整いました。

 

 

この稿で言いたかったのは・・・

歌を聴きたいのだ、僕は。

押し付けられるのは勘弁して欲しい

押し付けるのもしたくない。

 

で、ありました。

座ってばかりいるわけじゃないですよ

念の為

 

ここまでありがとうございました。

 

 

 おまけ

メモこのブログを書いてる人はどんな人?

Q「あなたにとってアメブロとは?」

A「ブログです!」

補足:〈庭〉です。お手入れするもよし放っておくもよし。けれども、そばを通る人の目にとまる。そしてその家主の人柄を判断されてしまう。でもそういう事は気にせずただ自分の家の庭のお手入れに精を出せている時が一番たのしい。

 

 

 付録

当ブログ

「コンサートのルールとマナー」過去作

今日の主張と何処かに矛盾があったりするのでしょうか・・