日本の屋根あれこれ3「茅葺2」 | 日中韓文化地めぐりのブログ

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アジサイ

 

 
 我が家のアジサイが見頃を迎えました音譜 最近はどこも行けておらず、アジサイも見れてませんでしたので、ちょうど良かったですねニコニコ
 
 
 
 
 
 
それでは、茅葺のつづきです。
 
 
まずは耐久性の話のつづきから。
 
 
茅葺がどれくらい保つのか
 
 前回では、茅の生育条件、そして内部から燻されるか否かを書きました。
 もう1つ重要な点は外部環境で、日当たりが良くて風通しの良い場所が最適なようですね。雨にぬれても、できるだけ乾燥が早い方が好ましい。
 なので、鬱蒼とした木々に囲まれた伊勢神宮は、茅葺屋根にとって決して好ましい立地ではないようです。
 
 
 
 
 
 
茅葺の起源は何時か
 
 縄文時代の遺跡で、茅葺建物が復元されてますが、これは有り得ないという意見もありますね。
 自分は、弥生時代中期以降説を支持します(※注)
 
 
 
 
 
 
 
茅葺あれこれ
 
 さて、気になった茅葺建物をいくつか提示しておきたいと思いますニコ
 
 
 
法然院山門(京都市左京区) 写真上が2011年、下が2014年
 
 2011年、新緑の季節に訪問した時は、山門の屋根がかなり傷んでました。屋根には苔がびっしり。しかし、その苔の緑が周囲の雰囲気に調和して、見事だなあと思ったものでした。
 しかし、その後に行ったときはすっかり新しくなってしまい、なんかガックリ来たのを覚えてます。自分はあの、苔びっしり山門が好きだったんですね。
 
 
 
 
 
 
諸上寺本堂(江戸後期、村上市)
 
 この本堂の屋根を初めて見たとき、独特の造形に「なんじゃこりゃはてなマークと思いましたが、茅葺を銅板で覆った屋根です。
 茅葺屋根を長く保たせるため、別の屋根葺き材で覆った例が多いことは前回書きましたが、諸上寺本堂はその典型例でしょう。
 
 
 
 
 
 
 妻側(側面)を見ると、なんじゃこりゃ度がアップ!w なんか宇宙戦艦を思い出しましたね^^;
 一度見たら、二度と忘れられません・・・・・
 
 
 
 
 
旧河澄家住宅(江戸前期、東大阪市)
 
 以前に取り上げた旧河澄家住宅。この家も一見、茅葺屋根の上に別の屋根葺き材を被せてるように見えますが、実は内部に茅は入ってません。
 如何にも茅入りのように見せてるだけなんですね。確かにこうすれば、もう茅の心配をする必要は無いし、外見上は茅葺の雰囲気を留めてるので、古民家っぽく見えます。
 
 しかし、こんな なんちゃってな屋根ばかりになれば悲しいですけど・・・・しょぼん
 
 
 
 
 
 
観心寺建掛塔(重文、15世紀後期、河内長野市)
 
 日本唯一の、茅葺の木造塔。「どこが塔やねん?」と言われそうですが、建掛塔の名前の通り、当初は層塔を建てる予定だったものが、未完成に終わったんですね。
 若々しい茅葺の屋根も印象深かったです(写真は2012年)。
 
 
 
 軸部は木造層塔として実にオーソドックスですが、その上に茅葺屋根が乗っかってるのが面白いところ。
 これもやはり、一度見たら二度と忘れられないですねえ。ただし、諸上寺よりは良い意味でですけどにひひ
 
 
 
 
 
 
慈光院山門(別名 茨木門 大和郡山市)
 
 摂津茨木城の楼門を移築したもの。元は瓦葺だったと思いますが、移築で茅に葺き替えられました。
 それだけで城門の雰囲気がなくなり、いかにも田舎風の門に様変わりするから面白い^^
 
 
 
 
 
 新宮熊野神社長床(重文、平安末期、1614年旧材で再建、喜多方市。ウィキ写真)
 
 現存日本最古の茅葺建築。ただし、一度地震で倒壊し、旧材を用いて再建されてますので、それを考慮に入れれば、最古は鎌倉時代後期と推定される次の箱木家住宅とすべきかもしれません。
 因みに新宮熊野神社は未訪問です。
 
 
 
 
 
 
箱木家住宅(重文、鎌倉後期?、神戸市北区)
 
 日本最古の古民家「箱木家住宅」。2年前にも一部紹介しましたね。茅葺あれこれの最後を飾るのは、やはりこれしかないと思いましたおねがい
 
 
 
 
 
 この茅葺屋根の低さが素晴らしいw 頭を下げないと中に入れません。
 
 
 
 
縁側に座って外を眺めても、茅葺屋根が目に入ります。
 
 
 
 
 内部は非常に薄暗い。切り取られた戸口の景色にも茅葺屋根が・・・・・
 もう何もかも素晴らしくて、この家は100点ですw 今回は詳しく書きませんが、いつか再び箱木家住宅を取り上げたいと思いますね^^
 
 
以上、茅葺あれこれでした(@^▽^@)
 
 
 
 
 
 
 
※注 茅葺屋根は弥生時代中期以降に普及(興味のない人はスルーして下さい)
 
 
 縄文時代の遺跡で茅葺のような草葺屋根に推定復元されてる建物が多いですが、縄文時代には茅葺屋根は存在しなかったとする専門家の意見も多いですね。
 
 
その理由は・・・・・
 
、縄文時代の建物の遺構では垂木間隔が狭いものが多く、垂木どうしが接して茅などの草葺には向かない、
、米作普及以前は、草を垂木に結ぶ縄の生産量が少ない、
、石包丁での茅刈りは困難なので、茅の大量入手も困難。そんな面倒なことをするのだったら別の屋根にしていた可能性が高い、
 
 ・・・・・などでしょうか。それではどんな屋根だったかというと、最も可能性の高いのは、樹皮葺、あるいは樹皮の上に土を載せた「土葺」でしょう。
 
 
 
 
土葺建物の復元例(ウィキ写真)
 
 
 で書いた、住居遺構の垂木間隔が開いてくるのは弥生時代中期以降のことらしく、従って、茅葺屋根も弥生中期以降に広まった可能性が高いように思われます。
 
 しかし、茅の大量刈り取りには鉄鎌の普及が必要ですので、茅葺屋根が一般化するのはさらに後の時代かもしれません。
 なので、土葺きの建物も、樹皮葺きなどとともに その後もずっと存在し続けたのではないでしょうか。