ネット復活! (伊勢神宮4「神宮の建築」) | 日中韓文化地めぐりのブログ

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ネット復活!

 

  ずっとインターネット繋がりませんでしたが修理してもらい、本日ようやく復活ビックリマーク 

 久しぶりに投稿再開です^^;

 

 

 

 

内宮のつづき

 

 

 

 え~と、内宮のつづきでしたね。正宮にお参りした後、からです。

 

 

 

 

 

 

  正宮を過ぎると登場する御稲御倉。神宮の神明造を間近で見れます音譜

 

 

 

 

 

こちらは外幣殿。じ~っと見て・・・・じ~っ

 

 

 

 

 

 

  天照大御神の荒御魂を祀る荒祭宮にお参りして・・・・・(だんだん投稿がいい加減になってきました^^; いや、早く書かないともう5月も終わりですからにひひ

 
 
 
 
 
 風日祈宮橋の前にやってきましたニコニコ これから風日祈宮橋を渡ります(この橋だけは、しっかり書こうw)。
 
 
 
 
 
 
   いやあ、やっぱり木造橋はいいですねえ照れ この緩やかに描くカーブがなんとも堪りません。
 宇治橋も、人のいないこういう写真が撮りたかったです。
 
 
 
 
  橋の上から島路川(五十鈴川の支流)を眺めるの図です。
 新緑の景色も素晴らしいですけど、橋を渡ってるとき、爽やかなそよ風が吹いてました^^ やっぱり風日祈宮だからかな。
 
 
 
 
 
  一番奥の右側の擬宝珠、これは1498年に作られたもの。現存日本最古の擬宝珠となります。
 
 
 
 
 
 
  橋を渡ると風日祈宮。元寇の時、神風を吹かせた功績で別宮に昇格。これは外宮の風宮も同じですね。
 
 
 
 
 
 
 そして四到神に手をかざし・・・・・(本当は二拝、二拍手、一拝すべきですが^^;)
 
 
 
 
 
       神馬の立派なお尻を拝見して・・・・(ずっと後ろを向いてました^^;)
 
 
 
 
 
 
・・・・・内宮は終了です。
 
 
 
 
結論
 
  内宮はやっぱり良かったです。賑やかな雰囲気も決して悪くないというか(写真的には人多すぎは困りますけどショボーン)。
 
 外宮と内宮では、自分は内宮の方が好きかな。その理由は、2つの立派な木造橋が架かっていること(結局は建築かいなって言われそうですが^^;)。
 あ、それと御手洗場があること、これも重要ですね。本当に心が洗われました^^
 
 ところで、外宮、内宮よりも気に入った場所がありました。
 それは「瀧原宮」ビックリマーク またあとで取り上げたいと思いますニコニコ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

神宮社殿の建築(興味のない人は、スルーして下さい)

 

 

 

 

 

  さて、神宮社殿の建築ですが、唯一神明造と呼ばれます。

 ヒノキの素木に茅葺の切妻、平入、高床、棟持柱、そして掘立とする。見上げれば千木に鰹木。

 この形を見れば、やはり神宮を思い出すのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 それでは、なぜこのような建築が、社殿に用いられたのかはてなマーク 

 

  それは・・・・・

「天武朝のころ、大陸から導入された仏教建築に刺激を受け、神宮では意図的に それ以前から存在した古い建築が用いられた」

「神聖視されていた穀倉から発展した形式」

 ・・・・・などと言われます。しかし、これらはあくまで推測に過ぎず、正確なことは分かりません。

 

 

 

 

 

 

  まあ、起源はとりあえず置き、実際にこの建築を見てどう思ったのか

 それは、「単純だけど、洗練されている」でした。ありきたりな回答ですけど。

 

 部材は徹底的に磨き上げられ、触れればこの上なくつややかで、気持ちがいい(いつも鳥居に触れてしまいます^^;)。

 

 

 

 

 

 

 しかし、台カンナや縦引鋸などは主に近世以降に普及しましたから、それらが無かった時代の社殿は、もっと荒っぽい建築だったことは間違いないでしょう。

 時代が下るにつれて、洗練されてきたんでしょうね(専門家の中には、洗練させ過ぎだと言って批判する者もいるようですが、自分はこれでいいのではないかと思います)。

 

 

 

 

 

 

  また、社殿には棟持柱がありますが、構造的に決して必要ないようです。

 おそらく、この元になった建築が、棟持柱を必要とするような建築で、それが形として残ったんでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

外宮御饌殿

 

 

 

外宮御饌殿 ・遠望

 

  もう1つ、神宮の建築で忘れてはならないものは、外宮御饌殿ですね。

 

 「かつて神宮の社殿は、大半がこの外宮御饌殿の形式だった」と言われます。特に1600年前後の改築においては、別宮の社殿は次々に、この御饌殿の形式から、現在の神明造に改められました。

 なので、外宮御饌殿の形式を「古式神明造」と表記するものもあります。 

 

 

 

 

 

 

春日大社宝庫(重文、14世紀後期、奈良市)

 

 

 残念ながら御饌殿を間近で撮った写真はありませんので、類似の建築(春日大社宝庫)を挙げて、ちょっと見ておきたいと思います(御饌殿は、宝庫と違い屋根が茅葺きで、掘立、そして棟持柱を備えた建築ですけど)。

 

 

 

 

 

  外宮御饌殿や春日大社宝庫(写真)は、板材を井桁に組んで壁面を構成しており、板校倉造の形式になります。

 

 通常の校倉が不整形三角形の校木を使うのに対し、こちらは板で組むのが違う所ですね。一部の神社でしか見れない形式です。

 そして、屋根はともに切妻屋根となってます。

 

 

 

 

 

 板校倉の住吉大社高蔵2棟(重文、1607年、大阪市住吉区)。こちらの屋根は寄棟

 

 

 

 一方、こちらは通常の校倉。写真は国宝・唐招提寺宝蔵、8世紀中期。屋根は寄棟

 

 

  ただ、壁体で屋根荷重を受ける多くの校倉は、柱で受ける建築よりも構造的に弱いと言われます。

 それも、屋根が寄棟であれば、まだ屋根の荷重を均等に壁体に伝えられますが、御饌殿のように大きな切妻屋根の場合は、構造的にさらに不利になるようですね。

 

 なので、棟持柱を用いてこれに屋根荷重を負わせれば、構造的に安定するので、外宮御饌殿の棟持柱は非常に合理的なものと言えます。

 

 

 

 

 

 

 そんなことも、外宮御饌殿が、古式の建築とされる点なのでしょうね。

 

 

 

 

 

神宮建築の起源は?

 

 最後に、これら神宮の建築は、いつ頃から日本に存在したのか?

 
 
 
 弥生時代には様々な形式の高床建築があったと考えられますが、有名なのは登呂遺跡(写真)の形式でしょうか。
 柱の床上部分を細く削り出し、上から鼠返しや台輪などの部材を落とし込む形式としてます。
 ただ、この形式と神宮の建築は大きく離れているので、これが神宮建築の起源とは到底言えません。
 
 
 
 
 
  一方、こちらは同じく弥生時代の池上曽根遺跡
 神宮の社殿風に再現する案も出されましたが、結局どう頑張っても神宮の建築形式では復元不可能だと分かり、上のような神宮とは全く異なる外観に。
 
 他にも、大引貫を使った形式が弥生時代から存在したことも分かっています。
 
 

 

 

 

 しかし、遺跡から出土した建築部材や柱穴などを判断すれば、結局、神宮の建築は弥生時代に遡ることは難しく、5世紀頃とするのが妥当なようです。

 

 5世紀頃、新しい柱配置形式が現れ、神宮を思わせるものも登場するようになるのだとか。校倉の起源も、4世紀後半~5世紀頃と推定されているようですし。

 そしてそれは、大陸から導入されたもののようですね。

 

 また、神明造自身、古代建築の身舎のような感じも受けますので、仏教建築の影響も受けているでしょう。

 
 
 
 
 以上、神宮の建築を書きましたが、自分が書いたことが正しいとは限りません。
 あくまでオタクの独り言程度に思って頂ければ幸いです^^;
 
おしまい