○ ネット復活!
ずっとインターネット繋がりませんでしたが修理してもらい、本日ようやく復活
久しぶりに投稿再開です^^;
○ 内宮のつづき
え~と、内宮のつづきでしたね。正宮にお参りした後、からです。
正宮を過ぎると登場する御稲御倉。神宮の神明造を間近で見れます
こちらは外幣殿。じ~っと見て・・・・
天照大御神の荒御魂を祀る荒祭宮にお参りして・・・・・(だんだん投稿がいい加減になってきました^^; いや、早く書かないともう5月も終わりですから)
○ 神宮社殿の建築(興味のない人は、スルーして下さい)
さて、神宮社殿の建築ですが、唯一神明造と呼ばれます。
ヒノキの素木に茅葺の切妻、平入、高床、棟持柱、そして掘立とする。見上げれば千木に鰹木。
この形を見れば、やはり神宮を思い出すのではないでしょうか。
それでは、なぜこのような建築が、社殿に用いられたのか
それは・・・・・
「天武朝のころ、大陸から導入された仏教建築に刺激を受け、神宮では意図的に それ以前から存在した古い建築が用いられた」
「神聖視されていた穀倉から発展した形式」
・・・・・などと言われます。しかし、これらはあくまで推測に過ぎず、正確なことは分かりません。
まあ、起源はとりあえず置き、実際にこの建築を見てどう思ったのか。
それは、「単純だけど、洗練されている」でした。ありきたりな回答ですけど。
部材は徹底的に磨き上げられ、触れればこの上なくつややかで、気持ちがいい(いつも鳥居に触れてしまいます^^;)。
しかし、台カンナや縦引鋸などは主に近世以降に普及しましたから、それらが無かった時代の社殿は、もっと荒っぽい建築だったことは間違いないでしょう。
時代が下るにつれて、洗練されてきたんでしょうね(専門家の中には、洗練させ過ぎだと言って批判する者もいるようですが、自分はこれでいいのではないかと思います)。
また、社殿には棟持柱がありますが、構造的に決して必要ないようです。
おそらく、この元になった建築が、棟持柱を必要とするような建築で、それが形として残ったんでしょう。
○ 外宮御饌殿
外宮御饌殿 ・遠望☆
もう1つ、神宮の建築で忘れてはならないものは、外宮御饌殿ですね。
「かつて神宮の社殿は、大半がこの外宮御饌殿の形式だった」と言われます。特に1600年前後の改築においては、別宮の社殿は次々に、この御饌殿の形式から、現在の神明造に改められました。
なので、外宮御饌殿の形式を「古式神明造」と表記するものもあります。
春日大社宝庫(重文、14世紀後期、奈良市)☆
残念ながら御饌殿を間近で撮った写真はありませんので、類似の建築(春日大社宝庫)を挙げて、ちょっと見ておきたいと思います(御饌殿は、宝庫と違い屋根が茅葺きで、掘立、そして棟持柱を備えた建築ですけど)。
外宮御饌殿や春日大社宝庫(写真)は、板材を井桁に組んで壁面を構成しており、板校倉造の形式になります。
通常の校倉が不整形三角形の校木を使うのに対し、こちらは板で組むのが違う所ですね。一部の神社でしか見れない形式です。
そして、屋根はともに切妻屋根となってます。
板校倉の住吉大社高蔵2棟(重文、1607年、大阪市住吉区)。こちらの屋根は寄棟☆
一方、こちらは通常の校倉。写真は国宝・唐招提寺宝蔵、8世紀中期。屋根は寄棟☆
ただ、壁体で屋根荷重を受ける多くの校倉は、柱で受ける建築よりも構造的に弱いと言われます。
それも、屋根が寄棟であれば、まだ屋根の荷重を均等に壁体に伝えられますが、御饌殿のように大きな切妻屋根の場合は、構造的にさらに不利になるようですね。
なので、棟持柱を用いてこれに屋根荷重を負わせれば、構造的に安定するので、外宮御饌殿の棟持柱は非常に合理的なものと言えます。
そんなことも、外宮御饌殿が、古式の建築とされる点なのでしょうね。
○ 神宮建築の起源は?
最後に、これら神宮の建築は、いつ頃から日本に存在したのか?
☆しかし、遺跡から出土した建築部材や柱穴などを判断すれば、結局、神宮の建築は弥生時代に遡ることは難しく、5世紀頃とするのが妥当なようです。
5世紀頃、新しい柱配置形式が現れ、神宮を思わせるものも登場するようになるのだとか。校倉の起源も、4世紀後半~5世紀頃と推定されているようですし。
そしてそれは、大陸から導入されたもののようですね。
また、神明造自身、古代建築の身舎のような感じも受けますので、仏教建築の影響も受けているでしょう。