「仙台街中散歩 蛸薬師と浪分大明神ほか」
  2025年7月30日にカムチャツカ半島付近で発生したM8・8の巨大地震により国内各地に津波が到達しました。最大波は岩手の久慈港で1m30cm、他は仙台港で90cmなど1m未満でした。ところで、海とは縁遠いような所にも津波に関する伝承が遺されていることがあります。仙台市内では、太白区長町4丁目の蛸薬師堂には、「蛸に吸い付かれた薬師様がこの地に流れ着いた」という伝説があります。昔洪水があったときに、この附近の池に蛸に吸い付かれた薬師如来が流れ着き、この薬師如来をお堂を建てて祀ったことから、蛸薬師堂と呼ばれるようになったそうです。詳細は不明ですが、慶長16年(1611年)の慶長大津波に関連して語られているようで、この時の津波がこの附近まで侵入してきたものと考えられています。
  海から5kmほど離れた若林区霞目2丁目の浪分神社にも、津波の伝承が残されています。この神社は、元は現在地より500m東側に位置した八瀬川・稲荷堂地区の共同墓地が建つ場所付近に元禄16年(1703年)に稲荷神社として建立されました。天保6年(1835年)6月25日、仙台地震・天保大津波と呼ばれる宮城県沖地震が発生。同年閏7月にも再度の大洪水が襲い、その後も天保10年まで荒天・冷害に見舞われ天保の大飢饉が発生しました。この惨状を憂い卜(ぼく)占(せん)をした結果、人々から祀られていた山神や庚申・疱瘡神の石碑が立つ現在地を選定し遷座、社殿を建てて祀ったそうです。現在の鎮座地は、慶長16年(1611年)の慶長三陸地震に伴い発生した大津波のときにこの地を襲った津波が二つに分かれ、その後水が引いた場所だとのことです。また、「あるとき東北地方で大津波があり、何度も大波が押し寄せ、当地でも多くの溺死者が発生しました。そのとき、海の神が白馬に乗って降臨し、襲い来る大津波を南北二つに分断して鎮めた」という白馬伝説もあります。これらの津波に関する伝承から、稲荷神社を「津波除け」の神社として「浪分大明神」という名で呼ぶようになったそうです。慶長津波は井土浦川・七郷堀を駆け上がりこの辺一帯に押し寄せこの場所で浪が二つに分かれたと伝えられているのです。東日本大震災の津波は、ここまでは到達しませんでしたが、2km海側にある仙台東高速道路まで達し一部は道路下のくぐり穴を抜けてきたそうです。ごみが付近の田んぼに流れ着いたことから、地区の人は言い伝えが本当だったことを改めて思ったそうです。
 また、宮城野区榴ヶ岡にある波切不動堂にも同様の伝承があります。榴ヶ岡天神下にあるこの不動堂は、正式には柳澤波切不動尊といいます。名称の「波切」は、津波が梅田川を駆け上がってきた最終地点即ち「津波の波切」に由来し、慶長津波はこの場所まで梅田川を上ってきたと思われます。その時代の梅田川は七北田川と合流し多賀城を流れ蒲生から現在の仙台港が河口でした。ほかにも、宮城野区蒲生の念仏田地蔵尊には、次のような伝承があります。慶長津波で蒲生のこの附近一帯が浸水しました。住民が海水が引くのを願い念仏を唱えたところ、願いが通じたのか水が引いたそうです。この地蔵尊は、このことを記念し建立されたと伝えられています。
 ところで、名取川河口の左岸の北側に位置する若林区藤塚地区の五柱(ごちゆう)神社には、「五柱の神が藤の筏(いかだ)に載って流れ着いた」という伝承があります。この筏を埋めて塚を築いたところ、藤が芽を出して根付いたため、この一帯を「藤塚」と呼ぶようになったそうです。東日本大震災では、鳥居や社殿も流されました。震災による大きな被害とその後の集団移転により、神社は平成27年に元の場所に再建されましたが、70軒ほどの家があった藤塚地区には、住宅はほぼ無くなってしまいました。神社の近くには震災の記憶を後世に伝える被災の石碑が建てられています