「どんぐりころころ の池と幻の3番の歌詞」
 『どんぐりころころ童謡 どんぐりころころ と幻の3番 どんぶりこ お池にはまって さあ大変 どじょうが出て来て 今日は 坊ちゃん一緒に 遊びましょう』
この歌詞を知らない人はいないでしょう。童謡『どんぐりころころ』は、古くから子どもたちに歌われてきた日本を代表する童謡で、青木存義の作詞、梁田貞の作曲によって、大正時代に作られました。しかし、この歌が広く歌われるようになったのは、作詞者の青木の没後でした。終戦直後の一九四七年(昭和二二年)に小学校用の教科書(音楽)で使用されたことを契機に広く歌われるようになり、その普及ぶりから金田一春彦によって「日本の三大童謡の一つ」とも評され、二〇〇七年(平成一九年)には「日本の歌百選」にも選ばれています。
 ところで、作詞者の青木存義は、宮城県松島町の出身です。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から東京帝国大学文科大学に進学し、卒業後は、東京音楽学校教授、文部省図書編集部長、旧制新潟高等学校校長などを歴任し、文部省在職中には『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作っています。童謡『どんぐりころころ』の歌詞の内容は、青木の幼少時の体験が元になっているそうです。青木は松島町の大地主のいわゆる「坊ちゃん」として生まれ育ちました。広大な屋敷の庭には「どんぐり」が実るナラの木があり、その横には大きな「池」がありました。青木は朝寝坊な子どもで、それを改善したいと母親が知恵を絞り、庭の池に「どじょう」を放しました。どじょうが気になって、青木が朝早く起きるようになるのではないかと考えてのことでした。『どんぐりころころ』の歌詞は、当時の思い出を元に制作されたと言われています。故郷である宮城県松島町では、地元の大地主であった「青木家」の名は記憶されていたものの、『どんぐりころころ』の作詞者が、その青木家の血すじであるということは、ほとんど知られていませんでした。彼の故郷での再評価は、没後約五〇年を経過した一九八三年(昭和五八年)の夏に、青木の遺族と松島町の元職員が、列車で偶然に隣り合わせたことをきっかけに始まったとのことです。この際の会話を発端にして翌一九八四年に松島町内の観瀾亭前庭に歌碑が建立され、その三年後の一九八七年には、青木の母校でもある松島町立松島第五小学校の正門横にも歌碑が立てられました。松島第五小学校は、青木が幼少時代を過ごし歌の舞台にもなった池があった広大な青木家の屋敷跡に移転して建てられ、敷地内には青木の両親の墓も残っているそうです。
 ところで、原曲は2番で終わっていますが、「幻の3番」として世の中に広まっていった歌詞があります。平成期になってから、『どんぐりころころ 泣いてたら 仲良しこりすが とんできて 落ち葉にくるんで おんぶして 急いでお山に 連れてった』という幻の3番が存在するとの噂が徐々に広まり出しました。坊ちゃんが泣いたまま終わってしまう2番の歌詞から一転して、温かみのある大団円を迎えるこの3番は、青木の母校である松島第五小学校で「いつからか歌い継がれていた」とのことで、「幻の3番」としてテレビや新聞等でしばしば取り上げられ知名度を上げていきました。この3番の歌詞は、作曲家の岩河三郎が一九八六年に三部合唱曲用に編曲した際に付け足したもので、岩河は「童謡はお母さんの愛情を感じさせる音楽だと思います。母の愛情を表現するために、3番を作りました」と付け足した理由を語っています。一説では「どんぐりころころ」の作詞者の青木存義は「あえて3番をつくらなかった」ともいわれています。その理由は「子どもたちに自分でつくってほしいという希望があったから」といわれ、子どもたちの豊かな発想力に「どんぐりころころ」の未来を託したともいえるのではないでしょうか。

 

 

松島第五小学校の歌碑