「裸の大将・山下清と仙台・松島」
「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれ、「長岡の花火」などの作品で知られる山下清は、104年前の1922年に東京浅草で生まれました。3歳のとき風邪をこじらせ命の危険に陥り、軽い言語障害・知的障害の後遺症が残りました。幼少期から吃音(きつおん)と発達障害に悩まされ、1934年12歳のとき千葉県の養護施設「八幡学園」に入園しました。そこで授業の一環として行われていた「ちぎり絵」に出会い、独自の「貼絵」の技術を磨いていきました。1938年(昭和13年)12月に東京銀座の画廊で初個展を開催し、1939年(昭和14年)1月には大阪でも展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びました。日本洋画界の重鎮の梅原龍三郎も清を高く評価した一人で、「作品だけからいうとその美の表現の烈(はげ)しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」と評価したそうです。
 清は、1940年から1954年まで放浪の旅を繰り返し日本全国を旅した「放浪画家」として知られています。特に花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げています。テレビドラマの「裸の大将放浪記」では、スケッチブックを持って放浪先で絵を描いていますが、実際の旅では現地で絵を描くことはほとんどありませんでした。ドラマとは違って旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから、記憶を基に描くというスタイルだったそうです。数ヶ月間、時には数年間の放浪生活から帰った清は、驚異的な記憶力により自分の脳裏に焼きついた旅先で見た風物を鮮明に再現し、自分の記憶によるイメージを描いていたのです。「ぼくは放浪している時、絵を描くために歩き回っているのではなく、きれいな景色やめずらしい物を見るのが好きで歩いている。貼絵は帰ってからゆっくり思い出して描くことができた。」と自著の『山下清の放浪日記』の中に書いています。清は驚異的な映像記憶力の持ち主で、海外の研究者などは、知的障害と結びつけサヴァン症候群だったのではないかと考える者もいます。サヴァン症候群とは、精神障害・知的障害を持つ人に見られる、ごく限られた特定の分野において突出した能力を発揮する人や、その症状のことです。清は、1940年(昭和15年)の18歳のとき、突如学園を脱走し最初の放浪の旅に出ました。その後も放浪の旅を繰り返した清ですが、1951年(昭和26年)5月には、またも学園を出奔して最後となる長い放浪の旅に出ました。松島を見物したいというのが旅の目的でした。まず、松戸から常磐線沿いに歩き始めます。通りがかりの民家でおにぎりをもらい、駅のベンチで寝て、線路を伝って歩く旅でした。仙台・松島を見物したあとは、山形、新潟、東京、熱海と、翌年も翌々年も放浪の旅を続け、各地で大好きな花火や温泉を楽しんだのでした。1954年1月、新聞の社会面トップに記事が出ました。「日本のゴッホ、いまいずこ/山下清君、消息絶って2年余」。その4日後に記事を読んだ高校生によって清は鹿児島で発見されました。この日を最後に、長い放浪の旅は終わりました。大正に生まれ、戦前・戦後・そして高度経済成長期という慌ただしい時代を一気に駆け抜け、1971年7月12日、清は「今年の花火見物はどこに行こうかな」の言葉を最後に脳出血で49歳の生涯を閉じました。一瞬のきらめきを放ち消えていく大好きな花火のような一生でした。「仙台の七夕」「松島風景」「岩手の鹿踊り」「秋田の竿灯」などの東北ゆかりの作品も残しています。なお、1956年にはかつて仙台の青葉通りにあったとんかつ大町本店に山下清が来訪した際、とんかつの大きさと味に「元帥級だ」と感激し、その場で豚の絵を描いた逸話が伝えられています。

 

山下 清 「仙台の七夕祭り」

1956年の「仙台の七夕」です。
「僕はどの七夕のかざりも面白かったが 僕の絵を描いたところはいい場所だと思った もっといい場所もあるかもしれないが 人間はあまりいい場所を狙いすぎるとかえって迷ってしまうんじゃないか 欲がでると落ち着かなくなる 僕はあまり欲がないから大抵のところでいいと思ってしまう」