「仙台埋木細工と生きた化石メタセコイア」
2年前の2024年10月30日、仙台市の広瀬川で赤い水が流れるという事件がありました。周辺に多数ある亜炭坑跡から鉄成分が含まれた地下水が雨水管に流れ込み鉄さびが堆積したことが原因と考えられるそうです。仙台は亜炭の産地として有名でした。亜炭は、400~500万年前、地上に繁茂していたメタセコイヤやセコイヤ類を中心とする樹木が土中に堆積し、圧力と熱で炭化したものです。亜炭のうち、彫塑可能な木質亜炭は埋木(うもれぎ)細工に、炭化した炭質亜炭は香炉灰や燃料に、珪化木(樹幹が珪化した植物化石)は観賞用などになります。戦中戦後の仙台では、ダルマストーブや鉄砲風呂などの燃料として亜炭がよく使われました。亜炭の採掘は、主に広瀬川沿いの青葉山・越路山(八木山)・向山などで行われていました。昭和30年代までの仙台では、家庭や学校で亜炭が広く使われ、夕方になると煙突から立ち上る煤煙と亜炭特有の甘酸っぱい匂いで街中が覆われました。亜炭は石炭と違い工業用途には向かず、家庭用燃料の需要が主でした。しかし、仙台での亜炭の採掘は、都市ガスや石油の普及・住宅の電化などで急激に減少し、1965年(昭和40年)頃にはほとんど終了しました。1980年代頃からは、住宅地の真下に掘られた坑道跡の落盤により、市内の至る所で地盤沈下が発生したこともありました。
ところで、仙台は古くから埋れ木の名産地として知られ、仙台の埋れ木の香炉の灰が都で流行し、和歌にも詠まれ最高級の灰として珍重されたそうです。江戸時代には、仙台藩祖伊達政宗が、名取郡四郎丸村(現・仙台市太白区四郎丸)に年貢諸役を免除する代わりに、埋れ木の採掘や埋木灰の生産を命じたとのことです。ところで、仙台の埋木細工は、1822年(文政5年)、仙台藩の足軽山下周吉が竜ノ口渓谷で埋れ木を見つけて持ち帰り食器類を作ったのが始まりだそうです。竜ノ口渓谷は、広瀬川の中流にある広瀬川の支流がつくった渓谷で、仙台層群という約533万年前から約258万年前までの鮮新世の地層が広く露出している場所です。足軽身分で扶持の少なかった周吉は、埋木細工を内職にしようと採掘許可を願い出ました。仙台城の南面の防御にもなる同渓谷は軍事的に重要な場所のため正式には許可されなかったのですが、藩が黙認したことで採掘が始まり、足軽の間で内職として埋木細工が作られるようになりました。当初はあまり売れるものにはなりませんでしたが、その後、同じ足軽の石垣勇吉によって製品として高められて名産品となりました。幕末から明治・大正にかけて仙台土産として人気となり、特に観光地の松島などでよく売れたといいます。1970年(昭和45年)頃には原木となる木質亜炭は採掘されなくなりましたが、現在埋木細工は、1982年(昭和57年)に宮城県知事指定伝統的工芸品に指定され、採掘済みの原木を用いて伝統工芸として続けられています。なお、霊屋橋周辺の広瀬川では、約300万年前の珪化木が点在していて見ることが出来ます。1973年(昭和48年)には、「霊屋下セコイヤ類化石林」として仙台市の天然記念物に指定されています。メタセコイア(日本名:曙杉)はヒノキ科の落葉針葉樹で、中国で生きてる姿が発見されたため「生きた化石」とも呼ばれています。日本にやって来たのは1949年で、種子から育苗していたアメリカの博士から天皇陛下に献呈されたのが、日本のメタセコイア第一号です。翌年には、100本の苗木がアメリカから贈られるなどして日本各地に広がっていきました。仙台でも戦後東北大学片平キャンパスに2本のメタセコイヤの苗木が植えられ、この株の挿し木が市内に数多く植栽されるようになったそうです。東北大学川内キャンパスのメタセコイア並木や泉区紫山のメタセコイア並木は、仙台市の「緑の名所100選」にも選ばれています。
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