「東京の中の仙台(政宗終焉の地ほか)散歩」
江戸時代には、全国の諸大名は江戸城下やその周辺に藩邸を設けていました。仙台藩は江戸城に近い外桜田や愛宕下などに江戸屋敷を構えていたことが、文献や絵図で知られています。1601年に伊達政宗が徳川家康より外桜田上屋敷を与えられたことが最初とされています。外桜田上屋敷は、政宗から三代綱宗の時代、1601年から1661年までの間、上屋敷として使用されました。その敷地は、東西は現在の日比谷公園の心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷掘沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたと考えられています。1636年、伊達政宗はここで70年の生涯を閉じました。心字池の側に「伊達政宗終焉の地」という看板が立てられています。なお、日比谷公園の心字池沿いの石垣の近くに、日比谷見附跡という標識が建てられていますが、ここの石垣は、1628年に政宗によって構築されたそうです。この外桜田上屋敷は1657年の明暦の大火(振袖火事)のあと幕府に返上されました。
浜屋敷(港区東新橋)は、1641年に幕府から与えられ、1676年以降は幕末まで上屋敷として使われていました。この場所では、御殿や庭園、舟入堀など仙台藩上屋敷跡の遺構群が発見されています。なお、浜屋敷の表門では、吉良邸への討ち入りから高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士たちを仙台藩士が呼び止め粥を振舞ったといわれています。また、港区新橋にある塩釜公園は、仙台藩の中屋敷内にあった鹽竈神社の境内になっていた場所です。この鹽竈神社は、1695年に四代藩主綱村が、東新橋の芝口上屋敷(浜屋敷)へ分霊を迎え祀ったのがはじまりで、1856年にこの地に移転されました。
京浜急行の青物横丁駅から第一京浜を南に下った南品川3丁目の交差点を右に曲がると、大井町駅方面に向かう仙台坂トンネルがあり、その側道の登り坂がくらやみ坂と呼ばれる旧仙台坂です。江戸時代、この坂の南側に仙台藩の品川下屋敷があったことから、仙台坂と呼ばれていました。現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。この旧仙台坂を上りきると、下屋敷の裏玄関に植えられていたといわれる樹齢300余年の品川区指定天然記念物の「仙台坂のタブノキ」があります。そこから大井町駅方向に歩くと、仙台味噌醸造所という建物があります。ここは、下屋敷があった時代、郷土の味を欲する仙台藩士のため、仙台から輸送された大豆を使って仙台味噌を醸造するため下屋敷内に作られたもので、現在も仙台味噌の醸造・販売が行われています。旧仙台坂の南側に位置する大井公園には、かつて仙台藩下屋敷があったことを示す石碑と説明板が設置されています。
南麻布にある韓国大使館の周辺、仙台坂の南側一帯は、江戸時代、仙台藩の麻布下屋敷が設けられていた場所です。現在では、当時を偲ぶものは見当たりませんが、品川下屋敷と同様、屋敷に隣接していた坂道が今でも「仙台坂」としてその名を留め、「仙台坂」の名の由縁を記した標識が立てられています。
江東区深川には、「仙台堀川」という河川があります。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつです。江戸時代、この堀の北岸、現在の清澄公園の西隣に仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から送られた米等を運び入れたことから「仙台堀」と呼ばれ、その後、砂町運河と合わせて「仙台堀川」となりました。仙台藩の芝口上屋敷(港区東新橋)の跡地からは船着場の遺構が発見されており、仙台から深川の蔵屋敷へ、さらに上屋敷という当時の物資の海運輸送が推測されます。なお、JR御茶ノ水駅周辺の神田川も、その開削工事を仙台藩が請け負ったことから、「仙台堀」と呼ばれていたとのことです。
