つづき
「愛されたいモード」でいると、相手の愛にいつまでも満足できず、自信を失い、相手も自分も傷つけてしまうとお話ししてきました。
それに加えて、実際に愛されたときに愛を受け取りにくくなる、という問題もあります。
なぜかと言うとあなたが「愛されたい」と思うとき、
そこには自分が考える「愛される形」があるからです。
「愛しているなら、毎日電話してくるものでしょ?」
「このくらいの遅刻を許してくれないなんて、私のこと嫌いになったの?」
こんなふうに、「あなたが◯◯をしてくれなければ、私が愛されていることにはならない」 と考える人もいるでしょう。
「愛されたい」という思いが強いほど、「自分から見て愛されていると感じられる形」で愛してもらわなければ、「自分が愛されている」と受け取ることができません。
たとえば、「ちゃんと言葉で『愛している』と言われることが愛されていること」だと考える人は、たとえ彼が優しく接してくれていても、「この前は『愛している』と言ってくれたのに今日は言ってくれない。もう愛が冷めてしまったのではないか」などと思ってしまいます。
こうして、常に相手の「愛する形」を、自分が考える「愛される形」と比較して、足りないところを探す、というパターンが続いてしまうのです。
「愛されたい」と思えば思うほど、「愛されている」ことに気づかなくなってしまう。
「愛されたいモード」の最大の矛盾がここにあります。
RULE7
「愛されたい」ほど、「愛されている」ことに気づけない
水島広子
『「愛する人と幸せになる」55のルール』
大和出版
この直前に読んだ本
「私は足りない」という幻想
「身体の姿勢」の歪みは、見ればわかるので整えやすいのですが(肩こりがひどいのは猫背だからだ、など)、「心の姿勢」のほうはそうはいきませんね。でも大丈夫です。
「心の姿勢」が整っているとき、私たちは「やすらぎ」を感じるからです。
逆に言えば、ぽかぽかとしたやすらぎを感じられないとしたら、「心の姿勢」が整っていない(つまり「怖れ」に入ってしまっている)、ということになります。
ドキドキしたり、ピリピリしたり、イライラしたり……そんな私たちは、多くの時間、実は整っていない「心の姿勢」で過ごしているのです。
それでも大丈夫。そのような気持ちになったときに、「ああ、私は「怖れ」ているのだ」と思えれば、ほとんどクリアーです。なぜなら、「心の姿勢」は、関心さえ向けることができれば、案外簡単に転換できるからです。
相手が悪いなどと言い出すと問題が複雑化してきますが、相手はさておき、自分は「怖れ」ていると気づくことができれば、あとは自分を癒していくだけで済みます。
怖れは日常的に使われる言葉ですが、前述したように、本書で使うカッコつきの「怖れ」は、ぽかぽかしたやすらぎ以外のものを全部含みます。怒りや「べき」思考、完璧主義、罪悪感などなんでも含むのです。
考えてみれば、「怖れ」から出てくるすべてのメッセージが、「私は足りない」ということを伝えてきます。
だから、「心の姿勢」が「怖れ」にあるとき、人はリラックスしたり、自分を大切にしたりできなくなるのです。また、人に優しくできなくもなります。
これは、被害者意識によるのかもしれないし、「こんな自分に優しくされたって嬉しくないだろう」という低い自己肯定感によるのかもしれません。被害者意識も低い自己肯定感も、やはり「私は足りない」という「怖れ」から生まれるのです。
ポイント
自分の「怖れ」に気づくだけでいい
水島広子
『その不安、ニセモノではありませんか?』
大和出版
苦しい原因のひとつは
「足りない」と思うこと
幸せは
すでに自分を、
山ほど取り囲んでいるものです。
神様が準備してくれていたものです。
それに、気がつけるかどうか。
ただそれだけの違いのようです。
そうブッダは、
般若心経で教えてくださいました。
いっぷくからのありがとう
「神さまの教える諦めの心」
24/05/23
あたまのなかで整理するため改行色づけ
黒太字は原文どおり