※登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
■SideA:志村薫子
窓の外では、初夏の陽射しを受けた若葉が、やわらかな風に揺れている。私は机の隅のカレンダーに目をやり、今日が音楽評論家・和田祐介の命日であることを思い出した。もう三十年以上も経ったのか…。
編集者になりたてだった頃、先生には本当にお世話になった。
音楽だけでなく、文学や映画、歴史など、広範囲に渡って博識な人だったが、それをひけらかすことは一度もなかった。右も左もわからない新人の私に対しても優しく指導してくれた。
ただ、締切前だけは別人みたいになることがあった。
「駄目だ、全然書けん」
そう言って灰皿に煙草を押しつけ、机に突っ伏したかと思えば、数分後には突然饒舌になって、お気に入りだったアメリカ西海岸の音楽について話し始めたりする。こちらが必死にメモを取っていると、「いや、今の話は原稿と関係ないから忘れてくれ」と笑う――仕事だけでなく人生の大先輩に対して失礼かもしれないが、どこか憎めない可笑しみのある人でもあった。
書斎の壁を埋め尽くしていたレコード棚には、希少な海外盤や廃盤になったレコードも数多く並んでいた。文化財産とも言えそうなコレクションだったが、先生は、目をかけていた同郷のミュージシャンにこう言い残していたという。
「俺が死んだら、中古レコード屋でもやって、なるべく安く売ってくれ。音楽は棚にしまっておいても仕方ない。たくさんの人に聴いてもらわないとな」
雪深い故郷、津軽の話をするときの先生は、いつも少年のような顔になった。ぶっきらぼうで生真面目な人たちのことを、懐かしそうに話していた。
ただ、今でも忘れられないのは、先輩編集者の成島さんに連れられ、和田先生の通夜に参列した夜のことだ。
人気評論家の名から想像するような華やかな式ではなかった。生前からの先生の意向だったらしく、小さな斎場に集まっているのは親族と、ごく近しい関係者だけだった。
あまりに突然の別れだった。つい数日前まで原稿を抱えていた先生は、急な病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
淡い照明に照らされた花の香りが漂う斎場で焼香を終えると、成島さんが奥様の真奈美さんに挨拶をした。私は少し離れた場所で頭を下げ、二人の会話が終わるのを待っていた。
すると、不意に周囲のざわめきが途切れ、真奈美さんの声だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
「…早く死んでくれてよかった」
一瞬、周囲の空気がきしんだように思えた。決して聞き間違いではなかった。私は奥様の表情を見るのが怖くて目をそむけた。成島さんは微動だにせず、遺影を見つめて黙っていた。
外に出ると、夜風が線香の匂いをほどいていった。駅までの道のり、私は何も言えずに成島さんの少し後を追うようにして歩いた。彼女も、一言も言葉を発しなかった。
別れたあと、一人でホームに立ちながら、私は先生が好きだったイーグルスの「魔女のささやき (Witchy Woman)」を思い出していた。
――「夜の闇の中で、彼女は俺に魔法をかける」
魔性の女に取り憑かれた男の歌だよ、と先生は笑っていた。
今でも、先生の命日が巡ってくると、あの日の真奈美さんの言葉を思い出す。そして、そのたびに私は、あの夜、決して覗いてはいけない何かに触れてしまったのではないかと、繰り返し考える。
■SideB:成島美恵
祐介先生の命日が来るたびに、通夜の晩に真奈美さんと交わした会話を思い出す。
編集者として長く祐介先生を担当してきた私は、真奈美さんを、先生にとってかけがえのない伴走者だと思っていた。決して表に出ることはないが、公私ともに先生の人生を支えていたのは、間違いなく彼女だったと思う。
通夜の席で、焼香を終えた私が「祐介先生、本当に奥様を愛していましたよ」と語りかけると、真奈美さんは涙をこらえて小さく頷いた。
先生は酒が入ると、よく同じ話をした。深夜まで原稿を書き、寝室に入ると、先に眠っている妻を見て涙が出てくることがあるんだ、と。
――この女が俺よりも先に死んじまったら、辛すぎて生きていけないだろう、なんて思ってさ。
私の話を聞いて、真奈美さんは困ったような笑みをもらした。
「あの人、いろんな人に言ってたみたいなのよ。まったく…恥ずかしいったらありゃしない」
一見すると穏やかで美しい奥様なのだが、親しい者との会話では飾らない物言いで、さばさばした人柄が垣間見える――彼女のそんなところが私は好きだった。
遺影の中で微笑んでいる先生も、気丈にふるまっている彼女の姿を、愛おしく見つめているように思えた。
真奈美さんは、いたずらを白状する子供のように語りだした。
「その話を聞いてから、私、一度だけ寝たふりをしてみたことがあるのよ。そしたら……」
彼女は、そのときの様子を思い出したのか、可笑しそうに続けた。
「あの人、仕事を終えてベッドの横にきたと思ったら、そこで立ったまま、なかなか横にならなくて。きっと、私の寝顔を見ていたんだと思う。私、笑いそうになるのをこらえて、寝たふりを続けていたんだけど…」
線香の香りが漂い、煙が淡く揺れる中、真奈美さんは呟くように言った。
「しばらくしたら、すすり泣く声が聞こえてきたのよ」
「先生、泣いていたんですか?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「驚いちゃうわよね。まさか、本当に泣いてるなんてねぇ。なんだか私まで悲しくなってきて、今度は泣きそうになるのをこらえるのに必死だったわ」
線香の香りが、一段と深く柔らかく私たちを包んだような気がした。
「そのとき思ったの。この人は私が先に死んだら本当に駄目になってしまう…って。だから、どんなに苦しくても、この人より一日でも長く生きなきゃって」
真奈美さんは、微笑んだまま時が止まっている祐介先生の遺影を見つめた。
「…私より、早く死んでくれてよかった」
そうつぶやくと、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
今では、真奈美さんもこの世にいない。きっと天国で、先生と一緒に音楽を聴いていることだろう――そんな情景を思い描きながら、私は、棚から一枚のレコードを取り出す。
今ではCDやサブスクで音楽を聴いている私だが、レコードを愛していた先生の命日だけは、古いプレーヤーを持ち出してきて、レコードで先生の好きだった曲を聴くことにしている。
イーグルスの「我が愛の至上 (Best of My Love)」。レコードのかすかなノイズに続いて、乾いたギターの音色と、やわらかなコーラスが部屋に流れ出す。
――「あの頃の僕たちは、精いっぱい愛しあっていた」
初夏の風が、レースのカーテンをゆっくり揺らしている。夕暮れの空には、薄い雲がゆっくりと流れていた。
