※登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
■SideA:木内康介
一見平穏に見えるビジネスの現場でも、その裏側では想像もつかない出来事が起きている場合がある――あの日のことは、今でも忘れられない。
僕が勤めている「フレームワークス」は小さな映像制作会社だ。社員は5人。撮影も編集も外注だが、ここ数年、目覚ましい実績を積み上げている。信頼できるスタッフと組んで、案件ごとにチームを組むシステムが軌道に乗り、さらに大きなプロジェクトも動き出しつつある。
今、事務所は都心の高級マンションの一室にある。広くはないが、打ち合わせに来た相手が顔を曇らせることはない。だが創業当時は、古びたアパートの一室だったらしい。
――必要な金は惜しまない!
それが倉田社長の口癖だ。まだ実績もない頃から、打ち合わせは、いつも一流ホテルのラウンジ。服装や持ち物にも気を配り、少しでも“安く見える要素”は排除したという。持ち前の度胸で業績を伸ばし、僕が入社した頃には、高級外車やブランド品に囲まれる生活をしていた。
「見下されたら終わりだ。最初の印象で負けるな」
一時は借金取りから逃げ回る日々もあり、時には理不尽なことで頭を下げなければならないこともあったと聞く。
今のようにコンプライアンスが叫ばれる前の時代だ。映像や音楽の業界は大金が動く場でもあるだけに、華やかさの裏側には、社会的に後ろ暗い者たちが根を張っていることも珍しくなかった。
「クリエイティヴなんて、後回しにされることも多かった。俺が初めてMV制作に関わった頃、ひとり頑固なギタリストがいてな。バンドでデビューしたが、事務所の売り方に反発して脱退した男だった。それでも腕は確かで、スタジオ仕事では裏方として信頼されていた。
だが、ある収録現場で問題を起こした。大物スポンサーが連れてきたミュージシャンの演奏に噛みついたんだ。稚拙な演奏を見過ごせなかったんだろうが、結果的にスポンサーの面子を潰しちまった。
それ以来、そいつは音楽業界で仕事を失った。この世界、信念だけじゃ食っていけない。うまく立ち回れなきゃ、簡単に潰される」
資金の工面では、かなり危ない橋を渡ったこともあると聞いた。ただ、その頃の付き合いが今も尾を引いているらしく、ときおり、質の悪い連中が訪ねてくることがあり、それには社長も顔を曇らせている。
ある日、創設メンバーの田所先輩に連れられて取引先との会食に出席した帰り、終電を逃してしまった。翌日は二人とも朝早くから出張の予定が入っている。仕方なくタクシーでオフィスへ戻り、仮眠をとろうと思った。
すると珍しく、社長がまだオフィスに残っていた。鏡の前で髪を整えていた社長は、僕らを見ると驚いた顔で手を止めた。
「どうした?」
「終電を逃してしまって…ここに泊まろうかと」
「いや…それは、やめておいたほうがいい」
社長は重苦しい声で言った。
応接テーブルに目をやると、ワイングラスが置かれている。
「実は、古い付き合いの連中から連絡があってな。少し厄介なことになりそうだ」
それ以上、詳しいことは訊けそうになかった。
「もうすぐ来る。おまえらは帰れ」
促されるまま、僕は田所先輩と表通りへ出た。やっとタクシーを捕まえると、先輩は「俺は逆方向だから」と言い、僕だけを先に乗せた。
発車の瞬間、振り返ると、街灯の下で先輩は踵を返し、再び建物の方へ歩き出していた。闇に溶けていくその背中に、僕は妙な胸騒ぎを感じていた。
あの夜、何が起きたのか。社長も田所先輩も、その後一切語らなかった。だが、その直後、先輩は会社を辞めた。それが夜の出来事と関係していたのかどうかはわからない。
ただ、翌朝、出社すると、応接用のソファが廃棄されようとしていた。
運び出されるとき、シートの隙間から見えたものに僕は息を呑んだ。布地の奥まで重く沈み込んでいるような、どす黒い染み。しかも、それは一面に広がっていて、拭き取れるような状態ではなかった。
そして、そのとき――
「証拠隠滅か…」
先輩が小声でつぶやいたのを思い出すと、今でも背筋が寒くなる。
■SideB:田所昌弘
木内を送り出した後、俺はマンション前に戻り、煙草を吸っていた。やがて、以前のプロジェクトで一度顔を合わせたことのある、他社の若い事務員の女が、周囲を気にするように首をすくめて中に入っていった。
エレベーターが事務所の階で止まるのを確認し、裏手の窓を見上げる。 しばらくして、部屋の明かりが消えたとき、あっけなく予感が的中したことに、思わず苦笑いが漏れた。
会社を立ち上げた頃、五歳年上の倉田は熱く将来を語る男だった。そして、それは日々の行動にも表れていた。だからこそ、一緒に仕事をしてきた。
しかし、会社が発展するにつれ、倉田は変わっていった。外車やブランド品に金を注ぎ込むようになり、若い頃の口癖は、いつしか私欲を正当化する言い訳にすり替わってしまった。
――必要な金は惜しまない!
しかも、妻子に隠れ、手の届く範囲で、安易な快楽に耽るのが事務所とは…。ここで高級ホテルを使わないところが、なんとも、いじましい。
これまでの苦労への誇りや、今動き出そうとしている大規模なプロジェクトへの意欲が、一気に色褪せていく。
――クリエイティヴなんてものは二の次にされることも…
かつての倉田の言葉が、今の自分たちに向けられているように思え、全身の力が抜けていった。
翌日、出社すると応接用ソファが運び出されようとしていた。すぐ後に出社してきた木内が、シートの隙間を覗き込む。
「血…!?」
俺は心の中で苦笑した。
(ワインを盛大にこぼすほど乱れたのかよ)
思わず「証拠隠滅か…」とつぶやくと、横にいた木内が小さく叫んだ。
「ひぇ…!」
俺は倉田に心配そうなふりをして訊いた。
「話し合いは無事に済んだんですか?」
すると、倉田は晴れやかな表情で答えた。
「ああ、ちょっと厄介だったが…なんとか収めた」
そのとき、いつか聞いたギタリストの話が脳裏をよぎった。俺も同じ人種かも知れない――自虐的な笑いがこみあげてくる。そのとき俺は、この会社を去ろうと決意していた。
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