※登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
Side A:吉河尚哉
この街に新居を構えて半年。連休明けの朝、やわらかな新緑の匂いの中で、私は妻に背中を押されるようにして「陽だまり公園」のラジオ体操に参加した。
「おはようございます、吉河さん。今日からですか」
振り向くと、積田さんが背筋を伸ばして立っていた。私より二回りほど年上だが、無駄のない動きと、日に焼けた顔。長く鍛錬を続けてきた人の体だ。
「ええ。この頃、ちょっと運動不足でして。積田さんは、いつもお元気ですね」
「この公園が整備された頃から、ずっとこの体操をしていますのでね」
この街で生まれ育った積田さんは、昔の様子を話してくれた。
かつては草が茂り、首の折れた馬の遊具が放置されているような、少々不気味な場所だったという。ホームレスがたむろしていた時期もあったそうだ。
「この周辺には古い住居が長屋のように連なっていたんですよ。防火対策なんかも不十分でね」
洒落たマンションが立ち並んでいる今の街並みからは想像もつかない。
「あの頃から比べると、随分変わりました。最近、ネットに“クリーンな街”と書かれているのを見かけましたよ」
積田さんは、昔を思い出したのか、周囲を感慨深そうに見回した。
――日陰が無くなった
この街に引っ越してきてから、古くからの住民がそう言うのを何度も聞いた。私はその言葉を「自然の木陰が減った」という意味だとばかり思っていたのだが、積田さんの話を聞き、ようやく腑に落ちた。
近寄りがたいような暗い空間が無くなり、住人たちが安心して暮らせるようになったということか。そう言えば先日、防犯カメラの増設予定の話も聞いた。何よりも大事なのは安全で健康に暮らせる環境だ。
「明るい街に住むことができて、本当に良かったです」
そのとき、ラジオ体操の音楽が流れ始めた。みんなが一斉に前を向き、同じ動作を始める。
「腕を前からあげて…」
陰りのないピアノの音が公園に響き渡る。私は雲ひとつない空に向かって、力いっぱい両手を広げた。
Side B:積田淳之介
新たに参加した吉河さんと話しているうちに、ふと遠い記憶が蘇った。小学生の頃のことだ。
この公園が整備されるずっと前、トイレの裏にはホームレスたちのねぐらがあった。親からは近寄るなと厳しく言い聞かせられていたが、それらはビニールに包んだ段ボールで造られていて、子供だった私の目には秘密基地のようにも見え、怖いながらも心惹かれるものがあった。
ある日、父に買ってもらった大切なグローブを野良犬に奪われてしまい、追いかけていくと、公園の中へ走り込んでいってしまった。やむを得ず、私は恐る恐る公園に足を踏み入れた。
すると、ホームレスの一人に呼び止められた。
「どうした、坊主」
薄汚れたシャツを着た男が怖くて、私は震えながら事情を話した。男は「もう暗いから諦めろ」とぶっきらぼうに言い、自分たちのねぐらへ消えていった。
グローブを無くしたことを親に言えないまま、学校からの帰りに公園の周囲をチラチラと気にしながら過ごした数日後、その男が公園の入り口で私を待っていた。手には、犬に奪われたグローブがあった。
「ほれ」
少し泥が付いたグローブをぶっきらぼうに差し出した男の左手の指は、不自然に曲がっていた。
「犬に噛まれたの?」
私が訊くと、男は苦笑して自分の左手に目をやり「これは昔の喧嘩でな…」と呟いた。
その後、公園に入ることはなかったが、時々、近くの道端からホームレスたちの“秘密基地”をのぞき込んだりしていた。時々、あの男がベンチに座って無言で目をつぶり、ギターを弾いているようなしぐさをしているのを見かけたが、私は遠くから眺めるだけだった。
やがて時が流れ、公園からホームレスたちは締め出された。そして、周辺の再開発が進められ、周辺の古い住居も消え去り、次々とマンションが建つようになった。
今でも時々、思うことがある。
あの頃、ここにいたホームレスたちは、どこへ行ったのだろう?
あのグローブを取り返してくれた男は、今もどこかで生きているだろうか?
かつての公園や、その周辺は確かに荒れていた。たむろするホームレスたちも、防火対策が不十分なまま密集した古い家屋も、好ましいものとは言えなかった。
しかし、そこにあったのは、必ずしも陰鬱な日陰ではなかった気がする。
もちろん、街が整備され、綺麗になっていくのはいいことに違いない。今、この公園は毎日、子供たちの明るく元気な声で溢れている。
――日陰が無くなった。
みんながそう言う。
しかし、本当に日陰はなくなったのだろうか。
最近、周辺のマンションの住人の一部からは、ここで遊ぶ子供たちの声が騒音だという苦情が出ている。ストーカーまがいのトラブルや、老人を狙った詐欺が増加し、町内会では、注意喚起の回覧板をマメに回すようにしている。
先日、陽だまり公園にも防犯カメラを設置することが決まった。しかし、カメラに映らない“見えない闇”が、じわじわと拡がりつつあるように感じることがある。
「明るい街に住むことができて、本当に良かったです」
吉河さんの言葉で我に返り、一瞬、返答に困ったが、直後に流れ始めたラジオ体操の音楽に救われた。
陰りのないピアノの音が公園に響き渡る。
もしかしたら、いずれは、このラジオ体操さえも騒音だと言われるのかも知れない――私は、どこか釈然としない気持ちで、澄み切った青空を仰ぎ、両手を広げた。
*毎週金曜21:00更新
