掌編シリーズ「Another Side ある日の出来事―その表と裏」 | Another Side ある日の出来事―その表と裏

Another Side ある日の出来事―その表と裏

職場、家庭、近所づきあい、趣味の集まり、酒の席
――様々な場面で交わされる言葉に隠れている
嫉妬、後悔、劣等感、敵意、あるいは善意…
こんな物語、あなたの周囲にもありませんか?

※本作品はフィクションです。登場する人物・団体・企業・名称等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。

 

■SideA:栗原和夫

 

東京の片隅、夕暮れの商店街は薄紫の空に沈んでいた。シャッターを下ろしたままの店が並び、足音だけがやけに響く。
 

昨年、還暦を迎えた私は、父の代から続いてきた酒屋ののれんをたたみ、その跡にコンビニを開いた。息子たちは店を継ぐ気などさらさらないようだったし、それでいいと思っていたから、自分としては妥当な判断をしたつもりだ。

 

ただ――煌々と光る看板のネオンは、便利さの象徴ではあるが、昔のように顔見知りが立ち寄って世間話に花を咲かせる、あの温かな賑わいはもうどこにもない。それが寂しい。

 

それでも、近ごろは少し違ってきた。若い人たちが、徐々に買い物に来てくれるようになったのだ。特に、先月あたりからよく見かける女子大生らしい娘がいた。細身の背筋をぴんと伸ばして、軽やかな足取りで入ってくる。棚からノートや洗剤を手に取り、そっと微笑む仕草に、どこか初々しい上京の匂いが漂う。ひとりで暮らしているのだろうか。

 

先日、レジを通しながら、声をかけてみた。


「いつもありがとうございます」

 

彼女は小さく目を瞬かせ、少し驚いたようだったが、控えめに会釈を返してくれた。その一瞬の笑みが、私の胸を温めた。若さというものは、ただ存在しているだけで、人を励ます力を持っているのだと、久しぶりに思い知らされた。

 

――だが、ここ数日、彼女の姿がない。風邪でもひいたのだろうか、それとも引っ越してしまったのだろうか。

 

昔の商店街なら、誰かが「あの娘さんはね」と知らせてくれたかもしれない。しかし、今は違う。ただ、レジの前に彼女が立たなくなった空白を、ぼんやりと眺めて心配するしかない。夜の街灯に照らされた空っぽの通りを、私は静かに歩きながら、あの控えめな笑顔を思い出していた。

 

かつてのような活気を失った商店街の灯りも、人の声も、すべて遠い記憶の中の光のように揺れている。それでも、あの娘の小さな会釈は、まだこの街に残る温もりのように、心の奥で柔らかく光っている。

 


 

■SideB:桑田朋美

 

大学入学のために上京して三か月。一人暮らしの不安はいつの間にか薄れ、都会の生活に少しずつ馴染んできた。田舎の町とは違い、角を曲がればコンビニがあり、通りの灯りが夜でも明るい。便利さに感心しながら暮らしている。なにより心地よいのは、ここでは誰も他人に関心を持たないことだ。

 

故郷のスーパーでは、顔見知りばかりで落ち着かなかった。買い物かごを覗かれているような視線を感じ、何を選ぶにも余計な気配を意識していた。でも都会は違う。深夜でも早朝でも、無言で会計を済ませれば、誰にも邪魔されずに帰れる。干渉されない自由。その距離感が、私には心地いい。

 

――なのに、あの日のことは忘れられない。よく通うコンビニで、店主らしい年配の男性に声をかけられたのだ。


「いつもありがとうございます」

 

その言葉に、一瞬息が詰まった。いつも? 確かに私は頻繁に来ている。けれど、そう口にされると、これまでの買い物ひとつひとつを覚えられていたようで、胸の奥がざわついた。

 

温厚そうで、決して嫌な印象はない。むしろ優しさのある声だ。けれど、私が望んでいたのは、他人に無関心なままでいられる都会の距離感だった。特にコンビニという場所は、そんな空気が自然に感じられて、とても居心地のいい空間だ。だから、あの店主の挨拶は、不意に夢から覚まされるような、けたたましい鐘のように響いた。


それ以来、私は少し離れた別のコンビニへ行くようにしている。もう、あのコンビニへ行くことはない。

 

 

*毎週金曜21:00更新