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下関市史を遺したい

下関市史研究会の亀田真砂子です。
下関は、古くは神功皇后の三韓征伐、源平の壇ノ浦の合戦、武蔵・小次郎の巌流島の決闘、下関戦争、幕長戦争など歴史の宝庫です。
しかし、埋もれつつある歴史もたくさんあります。

 

 

明治の終わり頃、下関が漸次貿易港として発展

する中で、貿易関係の内外商社がぽつぽつ設置

されるに及び、各国は次々に領事館を開設した。

その数は、八カ国である。このように多数の外

国の渉外機関を持つ都市は、東京・横浜・名古

屋・大阪・神戸などの大貿易都市を除いては、

長崎と下関くらいのものだった。

 

・イギリス領事館           明治34年開設

・オーストリア・ハンガリー領事事務  同年イギリス領事館で取り扱い開始

・ノルウエー領事館          明治40年開設

・ドイツ領事館            明治41年開設

・アメリカ領事館           大正8年開設

・スウェーデン副領事         大正9年駐在

・ポルトガル副領事          大正11年任命

・オランダ領事館           昭和5年開設

 

イギリス領事館は、イギリス国大使アーネスト・

サトウが首相ソールスベリー侯爵に「下関には

将来領事館設置が必要」と提言して実現した

もの。

最初は赤間町で事務を取扱い、まもなく西南

部町の瓜生商会店舗内に移転。その後、1905

(明治38)年、現在見られるレンガ造りで建築された。

現在は重要文化財「旧下関英国領事館」となり入

館無料で一般公開されている。

 

設計は英人建築家アレックス・ネルソン・ハンセ

ルによる。

こちらは内部の一部。執務室。

 

 

 

 

アーネスト・サトウはイギリスの駐日公使館の通

訳生として日本に来たのが初めである。

時は幕末。薩英戦争後の講和の際に通訳として

参加したり、長州ファイブのメンバーだった、

長州藩の伊藤博文や井上馨などとの交流があった。

下関戦争では四国艦隊総司令官となったキュー

パー提督付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊

による前田村砲台の破壊に同行し、長州藩との講

和交渉では宍戸刑馬と変名していた高杉晋作を相

手に通訳を務めている。

 

さて、この写真をご覧いただきたい。

手前右は英国領事館である。下の地図で見ていた

だくとわかりやすい。

 

 

ジャーディン・マセソン商会とは、ジャーディン

とJ.マセソンが設立したイギリスの貿易商

社で、茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易など

に従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。

1834年に東インド会社の中国貿易独占権廃止に

よって、民間の商社として急速に活動範囲を広

げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行

業にも進出した。

 

下関地図に残る英国領事館、ジャーディン・

マセソン商会。

海のそば、税関がすぐ近くにあるのがわかる。

 

 

ジャーディン・マセソン商会は、最初西南部町の

問屋街の中にあったが、日露戦争当時の明治38年

頃、松尾商店として発足した。その後、唐戸町

二番地に赤煉瓦二階建ての立派な洋館ができた。

この商会は香港に本店があり、輸出は主として

石炭で、門司の高商会から買っていた。

輸入品は、砂糖やメリケン粉が主で、砂糖は香

港製、メリケン粉は米国産であった。

この商会は明治43、4年くらいまでは盛大であ

ったが、日本の関税保護によって輸入品が下落

して、大変動があった。その後、外国製品を日

本製品が凌駕することもあり、機械なども漸次

駆逐され、ついに没落、神戸支店と合併される

ようになる。

 

その後この建物は、筑豊の炭鉱王・貝島炭鉱の

下関本社ビルとなるが、そのお話はまたの機会

にしたいと思う飛び出すハート