長崎から小倉へ続く「シュガーロード」。
その名前、ご存知でしょうか。
長崎出島に入ってきた砂糖が、長崎街道を通って
各地に様々な菓子文化を生んだ。
そのルートのことを言います。
長崎にカステラ、佐賀は丸ぼうろ、飯塚は千鳥
饅頭など、各地に昔ながらの銘菓があります。
下関にも文久2年創業という老舗菓子屋がありました。
残念ながら、2022年に惜しまれつつ廃業した
「江戸金」の代表的なお菓子、亀の甲煎餅。
大好きな人、多かったです。
創業者の金次郎は江戸・麹町生まれで、同じく菓
子職人を目指した鈴木岩次郎と長崎へ菓子修業に
出ています。長崎から戻った後、下関の増田初蔵
のもとで菓子作りをし、増田家の養子となって
「江戸金」を創業しました。
このお菓子は1862年(文久2)に生まれています。
江戸の金さんが作ったから、店名が江戸金!
今回のお話はそれより100年以上も前の1751年
から、下関で砂糖が生産されていたという驚き
のお話です。
現在の安岡駅から海に向かっての一帯、そして綾
羅木の中山神社あたりは一面のサトウキビ畑だっ
たらしい。
山口県文書館に、『長府御領砂糖製作一件』とい
う史料が残っています。
安岡の大庄屋の内田屋孫右衛門・吉大夫兄弟、
その弟の永冨独嘯庵が、サトウキビを栽培し、
砂糖を製造していました。
宝暦6年(1756)、長府藩は幕府に、「和砂糖
1万斤を大坂で販売したい」と願い出ました。
1斤は約600グラムで、計算すると1万斤=
約6トンもの大量です。
これについて幕府は、長府藩が「抜荷」として、
密貿易をしているのではと疑いました。
そこで幕府は、江戸から砂糖製造の技術者たち
を長府藩へ派遣します。宝暦6年(1756)9月
3日から、翌年の4月10日までの約7ヶ月でした。
役人たちは、
・サトウキビ畑の実地調査
・砂糖製造の調査
・製糖方法の調査
などを行うのですが、怪しい砂糖を調べに来た
幕府の役人が結果的には、安岡の製糖技術を
学んで帰ることになりました。
*画像は生成AIによるイメージ
尾張・知多郡大野村(今の愛知県常滑市付近)で
製糖が始まったのは、安岡より少し早かったとい
う記録もあります。
しかし、1750年代、日本各地で製糖が始まって
おり、安岡はその確かな技術があり、幕府を中心
に全国に広まっていったのは間違いないようです。
そしてもう一つ忘れていけないのは、下関は古く
から交易の重要地であったこと。下関は砂糖を
作るだけではなく、流通の基点としても機能して
いました。
なんと、1682年の朝鮮通信使関係の記録に、
「赤間関で白砂糖15斤を調達した」という記録
があります。
つまり、下関で砂糖が突然1756年に現れたわけ
ではなく、長崎からのシュガーロードで運ばれ
た砂糖そのものが下関で売買されていたという
ことです。
この地図を見てください。
下関は北前船の中継地点でもありました。
当然、長崎や下関の砂糖は日本海を北上してい
き、その各地は銘菓を生んでいると思われます。
大阪から1万斤の砂糖の注文が入った、と私が
知った時にすぐに思ったのは、「茶の湯」には
お菓子が必要よね、ということです。今に残る
京都や大阪の有名菓子店が誕生したのは、いつ
頃だったのだろうか。
調べてみると、こんなことがわかりました。
京都・伏見の「駿河屋」は1461年創業で、1589
年に生まれた羊羹は豊臣秀吉の北野大茶会にも
用いられました。
京都・一条の「虎屋」は1628年から創業してい
ました。虎屋の歴史資料には、江戸時代の京都
には御所御用の菓子屋が複数存在していたこと
がわかります。
その中で、安岡の砂糖が使われたかもしれない、
そんな期待をさせてくれる菓子屋がありました。
「俵屋吉冨」です。ここは1755年創業、安岡の
砂糖が大阪へ販売計画されたのが1756年ですか
ら、ほぼ同時代です!
もちろん、大阪にも18世紀後半になると菓子屋
がたくさんありました。茶の湯用だけでなく、
金平糖や砂糖漬けなど菓子の消費者層が増えて
いったようです。大阪から6トンもの砂糖のオー
ダーがあったのは、このような背景です。
そしてもう一つ、発見がありました。
その砂糖製造を奨励した長府藩主は?と思って
調べてみると1756年に長府藩主だったのは毛利
匡満(まさみつ)でした。その方はなんと、分
家の長府から萩本藩の藩主となり、毛利重就
(しげなり)と改名しています。
防府天満宮にある重就像です。
長州の幕末好きな方ならピンとくるかもしれませ
ん。この方は、「撫育方」を創設した藩主ですね。
防長四白と言われる、白い製品(塩、紙、米、
蝋)といった産業を興し保護して「長州藩中興の
祖」となった方です。
元々長府藩主だったということで、砂糖製造も
理解していたし、下関の港湾についても熟知され
ていたでしょう。その証拠に、重就の改革では
「港」と「商業流通」がとても大事だったこと。
後の撫育方は下関の港湾整備や回線業者への資金
貸付、倉庫なども関わっていきます。
(撫育方資金は、幕末に、大量の武器を外国から
買って幕府との戦争に備えた資金となりました。)
安岡の砂糖が大阪や東北まで行ったこと、それが
撫育方として流通政策に重要なことだったと関連
付くのは面白すぎます。
さて、その後の下関の製糖がどこで廃れたのかは
よくわかっていません。
おそらく全国に砂糖の製造が広まっていき、価格
競争や流通事情で次第になくなっていったようです。
でも、現在素晴らしいお菓子が全国にある一因が
この下関発の砂糖に由来するかも、と勝手に想像
して楽しくなりました。
今日の安岡湊です。
この地一帯にサトウキビ畑があったと言われる
海岸です。
ここから砂糖を積んで、下関の細江か南部あたり
で積み替えて大阪に運ばれたのでしょうね。
今は穏やかな海水浴場の佇まいです。






