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下関市史を遺したい

下関市史研究会の亀田真砂子です。
下関は、古くは神功皇后の三韓征伐、源平の壇ノ浦の合戦、武蔵・小次郎の巌流島の決闘、下関戦争、幕長戦争など歴史の宝庫です。
しかし、埋もれつつある歴史もたくさんあります。

 

1864年(元治元年)12月15日に、高杉晋作が功

山寺決起をしたのはよく知られているお話である。

しかしその1ヶ月前に、福岡に亡命していたこと

はあまり語られていない。

 

幕府からも長州藩政府からも「お尋ね者」として

追われた高杉晋作は白石正一郎の弟・大庭伝七の

博多商人のネットワークに護られて約1ヶ月、福

岡に潜伏していた。

 

その時に高杉晋作を匿ってくれた一人が、平尾村

の山荘に住む勤王の歌人・野村望東尼(のむら

ぼうとうに)という女性なのである。

 

 

高杉晋作だけでなく、平野国臣など幕末の尊皇の

志士たちを匿ったり和歌で励ましたり、彼女も志

士として生きた人であった。

現在も、福岡市中央区平尾にある、平尾山荘。

これは3代目の建物になるが、幕末当時から変わ

らぬ佇まいを今も見せている。志士たちのエネ

ルギーが静かに感じられる、福岡の第一級の幕

末史跡。

高杉がやってきた時も、このような季節だった

のではと思う。

 

 

絶体絶命の窮地に立たされ絶望の淵にいた高杉

晋作を、望東尼は話し相手になり、励まし、和

歌もたくさん交換した。

10日間の滞在で元気になった晋作が長州に戻る

際には、手縫いで変装用の町人スタイルの着物

と長羽織、それに和歌を添えて送り出す。

 

今、下関の日和山公園に立つ晋作が着ている着

物がそれだと言われている。

 

 

晋作は無事下関に戻り、そして功山寺決起をわず

か80名で成功させ俗論とした藩論に対抗して倒

幕に向けて走り出す。

しかし

 

彼を匿った望東尼は、福岡藩から「重罪人を匿っ

た」罪で玄界灘の孤島・姫島に島流しに遭ってし

まうのである。

 

 

福岡市沖に浮かぶ「姫島」と今に遺る「獄舎跡(再建)」

 

 

当時59歳であった望東尼は、福岡の流刑の島の海

岸近くの獄舎で約10ヶ月、囚われの身となった。

年齢から見ても、大変過酷な環境であった。

しかし、島流しに遭っていることを知った高杉晋

作が「救出部隊」を差し向けた。彼はその時、小

倉戦争の最前線で指揮をとっていたために、自身

が行くことが叶わず、脱藩の福岡藩士等を中心と

した若者たちが周到な脱獄作戦を持って姫島へ

向かう。

 

無事救出された望東尼は、船でそのまま白石正一

郎邸に運ばれやがて高杉晋作と喜びの再会を果

たした。

 

彼女は命がけで匿い、晋作はその恩を忘れず決

死の救出作戦を実行する。

その二人の感動的な物語は後世にも伝えられる

べく、下関の日和山にそのあとを留めている。

晋作像の足元には、姫島ゆかりの石が設置され、

碑がその顛末を語る。

 

 

 

馬関(下関)に帰っての此の作(晋作の詩)

  

  国を売り君(藩主)を囚(とら)ふる如き

  忠臣義に死すは是れ斯の辰

  宋の天祥の高節と明の鄭成功の謀略

  二人に学び一人と為さんと欲す

 

これは、まさに国のため命をかける覚悟をした晋

作の思いである。

そして、その下には野村望東尼の詩がある。

  

  まごころをつくしのきぬは国のため

  たちかへるべき 衣手にせよ 

 

この日和山公園の高杉晋作の像は陶像である。

下関で最初にできた市の公園なので、この地に

ふさわしい人物の像を建てようという話で、

晋作が選ばれたそうである。

もともとは銅像として昭和11年4月に建てられ

たが、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)、

金属供出のために接収された。二度とこのよう

なことが起こらないようにと、昭和31年

(1956年)に備前焼の陶製で、もとの銅像に

模して再建されたのである。

「死んでも赤間関の鬼となって」という遺書

に書いた通り、何があっても自分はこの場所で

下関と海峡を守る、そんな強い意志が伝わる

晋作の表情である。

 

野村望東尼は、すでに病に冒された晋作のそば

を離れず、死ぬまで看取った。

 

 

晋作が存命の時、「おもしろきこともなき世に

おもしろく」と詠み「あなたなら何と継ぐか」と

望東尼に問うた。

「すみなすものは心なりけり」と返した望東尼。

面白いか面白くないかは、自分の心次第ですよ、

と晋作を優しく励まし称えた望東尼。これほど

崇高な歌のやり取りがあるだろうか。

 

さて、晋作が亡くなった時の望東尼の嘆きよう

は、他の人以上だった。

彼女は、晋作の正妻・マサに和歌を短冊に書いて

渡した。

「奥津城(おくつき:墓)のもとに

 我が身はとどまれど 

 別れしいぬる君をしぞ思ふ」

高杉の棺に入れて欲しいと願って書いたものの

ようだが、後年マサは「お歌も筆跡もとても素

晴らしいので、棺には納めませんでした」

と語っていたという。

 

晋作と望東尼は親子以上の年の差があったが、

妻や恋人とは違う二人の強い絆があり、それに

マサも気づいていたのであろう。

少しやきもちを焼くマサを感じる、かわいい

エピソードである。

 

余談であるが、2018年に高杉晋作筑前潜伏を

テーマにした飾り山が博多祇園山笠の千代流れ

で披露された。

 

 

この飾り山の真ん中にいるのが、少女をおぶ

って関所破りをした高杉晋作。

 

 

そして、金色屋根の平尾山荘とその上におわしま

すのが、美しく艶かしい望東尼である。

 

  

下関と福岡のこのような交流がずっと続くことを願いたいものである。