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下関市史を遺したい

下関市史研究会の亀田真砂子です。
下関は、古くは神功皇后の三韓征伐、源平の壇ノ浦の合戦、武蔵・小次郎の巌流島の決闘、下関戦争、幕長戦争など歴史の宝庫です。
しかし、埋もれつつある歴史もたくさんあります。

 

2025年9月29日、驚くべきニュースが流れました。

 

子供の減少に伴う山口県立高校の再編計画に

ついて、県教育委員会は下関や周南などの

14校を対象に再編統合を進める方針を固め

たことが、分かった。

下関西と下関南。(新高校の場所:下関西、2033年度)

長府と豊浦。(新高校の場所:豊浦、2030年度)

 

え、西高に統合されるということは、校舎も廃墟

になるし、校歌も歌わなくなるの!?

少子化がここまでというのは想定外でしたし、

社会や経済にもかなり影響が出ますよね。

卒業生としては、すごく寂しい思いがします。

 

南高のことも、この下関市史に書き残しておこうと思います。

 

まず沿革

明治38年 下関市立下関高等女学校 開校

明治45年 校歌「硯の海」制定

  (作詞:芳賀矢一 作曲:島崎赤太郎

大正4年    創立10周年記念式典

昭和10年  創立30周年記念式典

昭和16年  新校歌「花すみれ」

 (作詞:岡村憲三校長 作曲:信時潔) 

  新校章(デザイン:香月泰男)

昭和23年 制改革により「山口県立下関女子高等学校」となる

昭和25年 山口県立下関西高等学校と統合され、南校舎となる

昭和29年 南校舎が分離し、山口県立下関南高学校として独立

 

 

戦後の一時期、西高と統合されたこともありましたが、下関には関女、南高という二つの時代がありました。

 

 

通称「ハトまん(鳩まんじゅう)」と言っていた校章です。

これは卒業式の時にいただいた文鎮。

南高卒業生は大体持っているのではないでしょうか。

この鳩のデザインは、下関の名井玲画伯によるものです。

 

さて、タイトルの本題に入ります。

在校生は皆3番まで歌っていると思いますが、実は6番まで歌詞があるんです

 

硯の海を前にして 呼べばこたふる文字が関

ところの名さへふさはしき 学びの庭の楽しさよ

 

寿永の遠きそのかみを おもへばあはれ壇之浦

磯うつ浪は今もなほ 昔語りをささやけり

 

君の御為と一すぢに 心筑紫路ほど近く

屍をここに埋むれと 名はかぐはしき櫻山

 

霞む海原見はるかし 帆影敷ふる高殿は

明治の御代の名所を 語り継がなん千代かけて

 

内外の富を積みもちて 東に西に行き通ふ

舩の出入しげきにも 國の榮ぞ知られける

 

我等女子も大御代に 生まれしかひはありそ海の

深きめぐみを身にあみて 日々にみがかん智と徳と

 

壇之浦の戦い、幕末の桜山招魂社、そして

明治天皇の行幸などの歴史を散りばめ、昔

繁栄していた下関の風景を織り込んだ

なんとも情緒のある美しい校歌です。

 

これを作った先生たちの紹介も書いておきます。

 

 

芳賀矢一(はが やいち、慶応3年-昭和2年) 日本の国文学者。

 

東京帝国大学国語国文学教授で、近代国文学の父と称された。

国語教育に携わり、国定教科書を編纂した。

「尋常小学読本」編集・校閲の関係で、文部省

著作の「尋常小学唱歌」を湯原元一らと編纂、

歌詞校閲には深く関わっており、一部の韻文

歌詞を作詞した可能性も高い。

代表曲/山口県立下関南高等学校校歌

 

 

島崎赤太郎(しまざき あかたろう、明治7年-昭和8年) 

        作曲家・音楽教育者・オルガン奏者

 

東京音楽学校(芸大)を明治26年卒業、同年同校助教授。

1901年に昭憲皇太后御前演奏を行なっている。1902年にドイツに留学

1902年に文部省給費留学生としてドイツのライプツィヒ王立音楽院へ留学。

帰国後、オルガン普及に尽力。

文部省著作「尋常小学唱歌」(全120曲)の作曲委員会主任となり、

中学唱歌などの選曲編集にも尽力した。

代表曲/山口県立下関南高等学校校歌・西南大学歌・立教大学歌・一高寮歌・山形県民歌・最上川

 

 

南高とご縁のあった方で、もう一人、香月泰男画伯がいます。

 

第3回文部省美術展覧会の特選となった「兎」

 

「青の太陽」シベリアシリーズ

 

山口県大津郡三隅村(現三隅町)に生まれた香月

泰男は、昭和4年、18歳の年に山口県立大津中学

校を卒業後、画家の道を目指して上京、20歳の

年に東京美術学校油絵科に入学し、卒業後、

北海道の中学校に美術教師として就職します。

 

そして、昭和13年、27歳の時に山口県に帰り

県立下関南高等女学校(関女)の教諭となりました。

昭和14年、あの代表作の兎は、関女で教鞭をとる

傍らで制作したものでした。

そんな香月先生は、昭和18年、召集を受け陸軍に入隊します。

その時、関女に在校していたうちの毋(昭和4年生まれ)の思い出話があります。

出征の挨拶をされるということで、全校生徒がグラウンドに集められました。

それまで長い髪だった美術教師の香月先生が、帽子を取ると丸坊主に!

それを見た多くの女学生たちは涙したそうです。

 

27歳当時の香月泰男先生の画像、下関市史(昭和58年発行)にありました。

 

 

いかがでしたでしょうか。

下関南高にも知られざる歴史がありました。

将来学校がなくなったとしても、南高の思い出を語り継ぎ、校歌を歌い続けていきたいものです。