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下関市史を遺したい

下関市史研究会の亀田真砂子です。
下関は、古くは神功皇后の三韓征伐、源平の壇ノ浦の合戦、武蔵・小次郎の巌流島の決闘、下関戦争、幕長戦争など歴史の宝庫です。
しかし、埋もれつつある歴史もたくさんあります。

 

近代日本画の幕開けを告げる代表作と言われて

いる狩野芳崖(かのうほうがい 1828‒1888)

が晩年に描いた「悲母観音像」です。

美術好きな人なら、いつかその本物を見てみた

い、と思われるのではないでしょうか。

 

芳崖は長府藩で代々絵師を勤めた家に生まれま

した。

 

 

 

絵師の父・狩野晴皐(せいこう)の指導の元、幼

い頃から絵の修行をします。彼には非凡な才能が

あり、御用絵師として必要な作画技術を元服

(15歳)までにほぼ習得していたようです。

その後19歳で江戸に出て狩野勝川院雅信の元に

入門して、さらに才能を開花させます。

1860年(万延元)33歳の時には、前年に火災で

消失した江戸城本丸の障壁画。それを修復する

チームの、若きリーダーでした。

 

しかし、1863年(文久3)と1864年(元治元)

長州藩と英米仏蘭の列強四カ国との下関戦争が

おきます。

江戸にいる場合ではないと故郷に戻り、「馬関

海峡測量図」を他の絵師たちと共に完成させます。

また大砲や鉄砲の弾作りにも従事したとも伝わります。

 

その中で、長府藩主の正室より依頼され攘夷戦争

必勝祈願として、武内宿禰の絵を奉納します。

神功皇后の三韓征伐の際に、潮満つる珠、潮干る

珠として武内宿禰が海峡に投げた珠が、沖合に

浮かぶ満珠・干珠の島になったという伝説です。

 

「神功皇后の軍が新羅を攻めた時に、満珠を

使って海を満たし、敵船を翻弄する。

こちらが攻める時には、干珠を使って海を

干上がらせ楽々海を渡っていく。

この自然の力に圧倒された新羅は降伏した。」

 

余談ですが、この二つの珠は古事記・日本

書紀に登場する宝物で、海神(わたつみ)

の宮=竜宮にある秘宝とされています。

 

この絵は、現在長府の忌宮神社にあります。

 

 

長府の沖に浮かぶ、その島。

壇之浦の合戦の時は、源義経軍がこの間に待機、

幕末の攘夷戦争の時は、フランス軍艦が待機した

と言われています。

 

 

 

さて、長府安養寺に、黄檗山萬福寺から勧請開山

した黄檗宗の寺院「覚苑寺かくおんじ」があります。

ここは歴代の長府毛利家菩提寺の一つとなりました。

 

久しぶりに訪れた覚苑寺は、紅葉が見頃でした。

 

 

 

開基は黄檗宗に帰依した長府藩三代藩主・毛利綱元。

この建物は、防府三田尻にあった黄檗宗寺院の醍

醐寺の本堂として1794年(寛政6)に建てられ

たものです。

つまり江戸時代の黄檗建築がそのまま残っているのです。

 

ここ覚苑寺は、父祖の墓所でもあったため、

芳崖は幕末期の名僧であった霖龍和尚の元に参禅

し、大きな精神的感化を受けました。

のちに「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致

は法に入りて法の外に出ること(法外)」という言

葉も霖龍和尚から与えられたものです。当初

「法外」と号していたのを「芳崖」と改めたのも

和尚の勧めだったと言われています。

 

ここに芳崖の銅像があります。

一度建てられた銅像ですが、戦時中の金属供出の

憂き目に遭い、現在の像(左画像)は1979年に

生誕150年を記念して建てられました。

絵筆を持って座るその像は、下関出身の彫刻家

中村辰治の制作によるものです。

 

 

 

 

 

また、境内には乃木希典の銅像もあります。

乃木さんも長府藩士で、この近くに生家(乃木

神社)があります。

希典も長府に帰郷の折に、覚苑寺を訪問していま

した。乃木大将死後、生前より親交を重ねていた

進藤端堂師が「一人一銭百万托鉢」の行願を起こ

し、全国から募金を集めて、昭和14年にこの像が

完成しました。

 

 

 

戦時中の金属供出は免れませんでしたが、昭和

33年、再び全国からの募金により、無事再建されました。

 

またこの地には、奈良時代、長府長門の国の国

府が置かれその時代の貨幣・和同開珎が鋳造され

た跡が遺ります。

このお話はまた改めて。

 

功山寺からちょっと離れていますが、歴史深い

お寺・覚苑寺も歴史がたくさん詰まった興味深い

史跡です。