さっきから
自分の生き物としてのパワーのなさを
パワフルに書こうとしているこの状況はなんだろう

あの
『婚約時代とその幕切れ』のあれこれのあと…

以前よりたくさん人と話すようになりましたよ。

聞きたいことがたくさんあったからです。聞くとおもしろい。

知りたいテーマが変わったのでしょうね。

まあ、こてんぱん。
『今までのやり方』が
ずたぼろというか、もう使えないよということだけが明白でしたので。

ですからテーマは
もう『彼女ほしいな』とか『どうしたらモテますか』とかではなくなりました(さしあたってはそうです)。

そうよ。


『強さ』がねえぞ。

(強さを積むための)
『土台』がねえぞ。

あなたはどうなの?
ってことが
テーマだったり。

いやもちろん知り合ったばかりのひととはもうちょっと別の楽しそうな話とかひととなりがうかがえるようなそういった言葉の温度を交わしたのでしたね、きっとね、はい、そうです。


意外なキーワードから
トマトの湯剥き(したことないけど)のように
なぞがつるりとはがれ落ちることもあります。
(その下にもまた異なる角度のなぞがあるかもしれませんがそれはまた別のお話しですね)


聞かれるじゃないですか?

こう、

『猫山田さんは好きな絵とかありますか?』

これは美術、絵画についての問いですな。

なんてことない質問です。

好きな画家の好きな作品を挙げてみたら良いだけのことです。

えーと、

真っ白です。

答えが…ないです。

(個人的には答える資格がないような感覚があります)

こういう感覚は実は
いろんな場面に
立ちはだかるわけでして

(当たり前に存在していたのでとくに気にしていなかったのですが)


情報を処理できない感じですかね。

たとえば美術館で油絵を見たときに

頭に入ってこない、というかね

「わからなさ」というか
「わかりきってない」(わかりきってなくて当然なんだろうけども)というか、
その「わからなさ」ばかりが沁みてしまって、「うお、わかんね」みたいな、
おそらく、うっすらダメージを受けてる気、すら、します。
疲れるというか。

劣等感が薫るというか。

それはなんでしょうね?

焦り?

「ただ感じる」ってことが、(それすら?それこそを?)できないことを感じてしまうような状態。
あるんですよ。


(いつもじゃないよ!全部じゃないよ!)

なんだろ

定規が短いのかな?
で、短いことに悲しくなりそうになって、麻痺に切り替わるみたいなかんじかしら?

(いよいよ混沌)

しかしですよ、

じゃあ

その油絵をね

ポストカードとかに印刷してしまったとしますよ
(ある意味劣化させた状態ですよ)
サイズもだいぶ小さくなってますよね。
それを見るぶんには猫山田は、猫山田の定規は、取り乱したりせず
「あー、いい絵だねぇ」とか
「この色好きだわ」とか
気楽に感じることができたりするわけです。

ううう。

(それでポストカードで事前に気に入って、「その絵の本物をみたい!」と思って見に行ったならたぶん猫山田も安心して感じられたりするとおもうのよ)


書いて文字にしてしまうとけっこう、
…たいへんだなあ。

そうね。

手に負えるサイズってのがあるんですな。

こう、レコードのジャケットとかね?

パッと見て

好きだの嫌いだの言えるんです。
手に負えるから
思考停止しないし、
妙な背伸びをするかんじもないです。

あとは
絵でも

こうペンで描いたような
落書きみたいな
絵だと

もうむしろ敏感というか

ものすごく明瞭に判断ができますし、
そういうペンで描かれた絵は好きなんです。判断ができるから、自分でも描いたりします。

要素が限定されてる(言い換えればシンプルってことかしら)と俄然、感情がひらきやすい気がしています。

(ちなみにムーミンの原作の挿し絵のようなシンプルさとか、とてもよくわかります、言い方おかしいかもしれませんが)

しかし
なんというか
フラジャイル。


あ!

これ、
いま思ったんですが、
美術館?

美術館で見るのが苦手なのもあるのかしらねぇ?

絵を見て感情が動いてる自分を見られたくない(だれも見てないですけど)のかも。

これ…人間不信かなー。ちがう?

なんというか
まわりに人がいない状態じゃないと
安心して感情を作動できないってこと
なのかも。

こりゃあ、その要素もありますよ。

ほら、
野生の動物が
食事や排泄や性交にも
危険を伴うみたいに

『感情をひらく』ってことを
安全な状態を保たないと(人がたくさんいない)できないっていう現象なのかもしれません。

フラジャイル、
っていうか
人間ぎらい…ですか?


そして問題はどうやら複合的です。

ああ

そうなのかな

そうかもなあ。

やだなあ。


小動物じゃないの。

しかも猫山田は小動物みたいにかわいくもないですよ。


どうするんだー。


こんなお父さん(仮)ってー。


という場所から猫山田です。



(つづく)


 


やれやれ

どうだろうなあ。

うまく書けるかしら。


ある意味では
もう暴かれてしまっています。

べろんと剥けています。

それをちゃんと書けるか、立ち上げられるのかということなんだと思います。


さてよ。

「そこから何が見えるか?」

様々な、
ひとたちの、
その立場から
なにが見えているのかを切れ切れに想像しますわたし。

できるなら想像の足場になる断片も聞きたいです。

(集中力はたいして長続きしないけれどもね)

どんな子ども時代で家庭は学校はどんなぐあいで休日は遊びは好き嫌いはどんなかんじだっただろう?

だれもがおそらく自分の容れ物に閉じ込められている(けれど始めっから入ってるからいちいち意識しない)。
環境、家庭もそう。家で食べるご飯や家のルール。
けっこう様々なんだけれども、始めっからそうだから「そういうもんだろ?」と思っていたり、それを疑う機会があまりないのではないかしら?

それよりもいわゆる時間のエスカレーターだかベルトコンベアーだかのスライドに対応して
学校や勉強や遊びや部活やバイトや恋や自意識やら
いろんなものを
通過したりこじらせたり取り残されたりしていくわけなのでしょうよ。

そのあいだに
ずいぶんしっかりと違いが生じているんだけども

もしかしたら生涯、その自分と似たものグループの掟のなかに留まるひとも居て、
そうすると
自分とずいぶん違う環境のひとを
想像する手がかりがほとんどない(つるつるだかピカピカの)世界で過ごしていたりするのかもしれません。

どうだろう?

ちがうかな?


うむ。


ほら
『わたしが子どもを育てるとしたら』
というのをすこし想像したと書きましたけれども、

そのときにね?

かなりヒヤリとした感触を
瞬間、味わいました。

わたし、いろいろ苦手だったりする学生時代を経て、
実家出たり、なぜか東京に来て、一人暮らしなんかもしているわけですよかれこれ10年以上ね。
なんとかお仕事もしてさ。

これ、システムよ。
規則正しくなくったってそこにはほら(ふたたび)生活様式。
悲しいくらい特別仕様(悲しくない!)ですよ。

そこには(その生活には)
もう、子どもじゃないので、
『苦痛』を避けるような仕組みが
形作られてるとおもうわけです。

おそらく
苦手な場所や、つらい気持ちになりそうな場面、イライラしてしまう状況やなんかに、対面しなくて済むように
ある程度改良なり工夫なりをしてしまっているんではないかなあ?と。

(まあ、つまり、わたしはそうだったんです)

いいの!

いいのいいの!

生き延びるためですものあなた!


(口調が変だ)


はい。

でもさ?

赤ちゃんが登場したら
もろもろスタート地点に戻って
それを共有していくようなところが
あるとおもいます、育っていくことを丸ごと。世界にはい出すこと世間にぶち当たることを丸ごと。
きっと。

それを
想像するスイッチをいれた途端

テトリスで画面上から落ちてくるバーやブロックのように

棚上げ(思考停止)してたモノがたくさん落下してくるかんじがありましたよ。
自分の『お父さん観』(あるいは『お父さん感』)をどうしよう?
と。

ええ。

まずは
考えはじめていますよ。
始めなくては始まらないことはありますですから。
(また口調が変)

まあ

けっこうな荒れ地ですよ。
動揺します。

整理したいよ。
落ち着きたいよ。


…うむ。


車、運転できないなあとか思いますねえ。
自分が暮らすだけなら(電車や自転車で)いいんだけどね。
免許自体がないのに、車?維持費?とかまで想像しかけるともうクラクラがやって来ます。

たとえが悪かっただろうか?

(ちょっと資本主義的過ぎるよ)

そうか


なんだろう。

日曜日に人ごみに出かけたくない、とかでもいいのかな。


こう、『苦手なものが多い子ども』だったわたしは『苦手なものが多いお父さん』になるしかないのか!?
という、
もはや、
衝撃。

まあ、そりゃあ
そもそもイメージしたことがない、できたことがないんだよ、将来が。

(ああ)

おっと!

おもいのほか重い!
まずいぞ

読み物として成立しないのではないか?

いいか。


(それどころじゃないか…)


うん。


だいたい底で

いつものそれ

出くわします。

そうです
『せまさ』
です。


おなじみ
『自分自身のせまさ』
です。

(「そんなの誰だってそうだよ」と言いたい方もおられるかもしれないのだけどもね?)

(…ああ、ここを
わたしはうまく書かなくてはならないのだけども…)


うーん。

わたしなりの考察や観察で浮かび上がってきたのはね?

そうね
今までも繰り返し

『小さい』
『せまい』
 と
言ってきたわけなんだけどもね。

うむ、
最近はなんというか
こう、
「あれ、みんな普通にある程度広いのね?」
という感慨が強まってるのね。

できるだけしずかに暮らしてみてね?
へんな熱をさましてあげて、
ていねいさや落ち着きを(猫山田なりに)暮らしに施してみてね?
おそらく、
いわゆる客観的な視点が、ジャッジが、

『良いとか悪いじゃなく

せまい

ってことかな』

という具合に
やんわりと

しかし
ぐさりと
示してるのを
かんじるわけです。
でまあ

胸をおさえて

「どうってことないよ」
と言っておるわけです、

猫山田はここで。





(つづく)