はい。
猫山田の『せまさ』の外側には、たくさんの
わからん や
どちらでもよい に
満ちています。
(あるいは『ほっといてくれ』と『さみしいわ』が波打ち際よろしくせめぎ合っているのでしょう)
しかし『せまさ』の内側は
なかなかキリリとしています。
なんか眉毛も太いかんじです。下駄はいてますよ。
「この曲はいいね」「言葉とメロディーがこうなってさぁ?」「タイトルの付け方がたまらないね」「このへろへろ具合のサウンドなのに名曲だとわかるよねぇ」「このシャイとひねくれに隠されたやさしさったら!」
などなど。
その内側の
愛着のある
慣れ親しんだ
その場所では
自分で
その『せまさ』に見合うだけの歌を作れれば
「(俺にとって)これはいいぞ!」
という確信が持つことができます。
言っちゃあナンですが、
これは幸せなことだよと
最近思いましたよ。
それは小さいものですが、
なんというか
減らないのです。
たぶんどこにも行きません。
(『なんだよ!その、とくに根拠のないままの断言は!』
と激しく非難されるかもしれません。)
そうですね
するってぇと
この『減りませんよ』という断言こそがつまり
自信なのかもしれませんね。
その小さい小さいそれを
わたしは信じることができているのだと思います大げさな言い方ですみません。
ええ。
『せまさ』も
しっかり手入れをしてみたならば、
丁寧に触れて持ち歩いてみたならば、
それがわたしならば
それこそがわたし自身ならば
やはり『せまさ』もわるくないのかもしれません。
どうかしら?