友達から

行ってきたよというメールが来た。

小沢健二の
『我ら、時』
展覧会 と ポップ・アップ・ショップ。

そういえば
渋谷で
キセル(とオオルタイチ+ウタモ)のライブに入場するまえに

見上げたパルコの看板が
小沢くんの展覧会のものでありましたっけ。

友達はそこで
『うさぎ』の単行本を買ったという。

『うさぎ』、
ほしいな。読みたい。


(わたしゃあ
パソコンないので)
何年か前に携帯から
『うさぎ』の文章の一部を読んだりもしましたっけ。

(誤解があるかもだけど)
非資本主義や
反グローバリゼーションを感じる
寓話

ずっしりと
しかし
良さそうな
寓話だった印象があり

読みたいのだが

それは
吉祥寺の図書館でも扱いがないくらいの冊子に
連載されているらしく
気長に単行本を
待つか
などと思っていたのでした。


ぜひ
読みたい。

小沢くんにも
いまでも概ね
好意をもっているのだけれど。

たぶん
すごく困難なことをやろうとしているように思えるので

こちらも生半可な覚悟ではアクセスできないんじゃないの?という気持ちが
いまだにありますよなんだか。


ここまで
書きながら
ふいに思うけど

やっぱり
わたしゃあパソコンがあって当たり前みたいな感覚に
(というかまさかインターネットそのものに?)
拒否反応が
あるんだろうな、
あるんだな。

まあ
それはいい。

それはいいさ。


ちょっとばかし

(スマホでない)
携帯から調べてみる。

なんと
物販に 作品集というセットがあって
『うさぎ』の本と
3枚のライブ音源と
『ドゥワッチャライク』の本まである!
〈しかしまあ『ドゥワッチャライク』はわたし(仙台に居た)、連載当時のものを全部スクラップブックに保存してあるのでいつでも読めるのですがね〉
あと いろいろ小物も入って
15000円…。

高いな。

ちょうどお金ないしなあ。

渋谷の展覧会についての
記載も読んだ。


面白そうな展示である。(しゃらくさいような印象もなくはない…)


しかしまあ
そこで
むしろはっきりと
理解したのは

なんと自分の不調でしたね。

ちょっとな

人がたくさん居る場所へ
ひとりで行き
感覚を澄まして
聴き入るとか見入るとか思い馳せるとか

今 全然できないわ。

たとえば(巡り合わせが悪くて)しんどくなるシーンが
先回りで浮かんでしまい
すこし身を固くする始末。

あらー。

やはり

なかなか深刻。

わたしゃあ
やはり
(仕事は行ってるけど)
いま
ハートは引きこもりですな、これは。

うむ。

やー。

かなりきわきわまで
壊れかけだったのかもねぇ

きっとそうねぇ。


やー

基本は
さみしいとか切ないとかじゃなくて
(むしろさみしいとか切ない、のは、かまわない)

がっかりとうんざり
(それは紛れもなくわたしが最も接近したくないもののひとつです)が
貼りついてしまっていて、
まあ、世界もそれに染まっているんだろうねぇ。

やあ

本当にあのリアルひきこもりのハイティーン(!)のあたりの時期に
わりと肉迫してるのかしら。

でも
音楽は
ずいぶん親身に親密に(おかしな言い回しだけども)
聴けるので

それは助かっているったらないですよ。

はい。

渋谷パルコ
『我ら、時』展覧会 と ポップ・アップ・ショップ は

物販だけとかはできないようです。

15000円のセットは通販あり。

『うさぎ』読みたいなあ。


行けなさそうだなあ。

まあ
不調は身にしみてはいたのですがね
思いがけず暴かれたというわけでしたね。

じゃあ
どこに行くんだろうか。


まあ
部屋にはギターがあるので

行けないときには
行けないひとの
行かない歌を
作れば
いい

かもしれない。

(とかいいつつ
きのう左手の指先、ちょっと切ったのでギター自粛してるんですがね)


む。

働くひきこもり。


まあ

ひきこもるのが必要だからひきこもるんだとおもうしなあ。


はい。


そんなかんじです。



元気です。











ふぅ。

わたしは いちおう

『胸んなかでなら
なにを思っていても良い』とは
思っていませんよ。



ときに
ダークなことも
えぐいことも
思うことは
あります。

断然あります。

やあ

もちろん
自由よ。


想像力は、そりゃ素敵さ。

とても大事。

(それはわかってる)

(それで)

バレなきゃ
口に出さなきゃあ
大丈夫
とは
思ってません。


まあ
ばれないですよ。

逮捕されないし

自由ですよ。

たぶん罰せられもしないのかもしれません。


でも
なんだか
原則として

そう思っています。

いやあ

何を偉そうに言っているんだか。

良く見せたい
良く見られたいと
もはや自動的に
思っているのにねぇ。

うーん

それでもだ

それでも


『夢の中から責任は始まる』

あの本で読んだことがあるでしょう?


ロマンチックというよりはむしろ残酷なくらい

そうなんだろうと
考えています。

まあ

もしかしたら
そのせいで

わたしは
やけっぱちだったり
がっかりの破片を皮膚に刺したままでいるのかもしれませんが。

それでも

そう思ってるみたい。


良く見られるでも
良く見せるでも
なく
良くなりたい
わけだけど

それって
こんなに
むずかしいんだっけかなあ。


まあ
いいさ

見つけたことがないものは
見失うことだってできないはずだ。



(まだつよがってみせるつもりかしら)




やれやれ。












うむ。

たぶん

わたし
言ってることが
ずんずんいずれ
変わっていくと思いますがね?


ええと。

あのう

わたし基本的には
鼻歌のような
ぽろっと
出てきちゃった
みたいな
歌/音楽が
好きで、
それはシンプルなものなんだけども。

つまり
『シンプルなのに
すんごく良い』

『へたくそでへろへろなのにすんごくチャーミング』

みたいな
求めてる幻想(の傾向)が
たぶん
あったと思うのだけれど

それ
なにげに
『奇跡的な素晴らしいさじ加減』
みたいなものでもあるから

じつは
高嶺の花に
うっとりしているだけなのかも
しれないけども。


(『素敵な曲を書く』
って状態は今でもかなり
恍惚のイメージがあるなあ)


なんだろうねえ

そういう歌って

たとえば

『砂漠や荒野に
ひとりぶっ倒れてるんだけど
倒れてるそのひとの口元に
笑みとすごく美しいメロディーがある』
っていうような
ディストピアめいた
削ぎ落とされた風景と共にあるんです
わたしにとっては。

そして
そのくせ
最近
めっきりサイケデリア。


(サイケデリックといっても花柄でパンタロンでヒッピーみたいなイメージではないんです)

(あと、わたし、
薬物でトリップすることに明確な拒否反応がありますね。シラフでトビたいんです一貫して。)

ふむ。

いきなり温泉。

ええと

わたしがわたしに
あてがっている
サイケデリックな音楽は
温泉みたいなかんじ
だな

さっき思いました。

でも
日常生活のなかで

突然 その音楽の鳴る間 だけ
温泉に浸かるような。

うーん ちがうかなあ?

どうだろう?


でも
逃避と
安心が

あるなあ。

理解を超えてるかんじも
それと一緒にあるかんじ。

なんか
じょぼじょぼじょぼぼ

湧き出ている謎の
お湯があって
こぼれまくっていて
よく
仕組みはわからないのだけど
まあ
わからないからこそ
解釈もさまざまなままで
気持ちもいいし
わはは
笑うしかないような状態?

解決とか前進とかじゃなくて
その場に居ることで
完結してるから
シェルターのように安心できる。

(そうね、シェルターだから外側から見たら寂しく見えたりするのかもしれないけれど)


はい。


なんだか
話が
大袈裟になったか…。


しかしね
ここまで
サイケデリアを
切実に必要としている
わたし。

そのことに
気づけて良かったなあと思ってるですよ。

しかしそれって
現実のあれこれがのっぴきならないっていう実感と
表裏一体なのかも
しれないと
ひしひし。


いやいや

都市生活とか
生産的とか
利便性とか
実現とか

(わたしは)
その世界だけじゃ
やっていかれないってことなんだろうね。

ふうむ。


自然は今までもずっとでっかい営みのなかにあっただろうし
人間の寝てるときの夢は(覚えてなくっても)誰であれ
わりとところどころ溶けてとろんとろんなものだったりし続けたのだろうし。



ええと

サイケデリアは
楽しいな
ってことですたぶん。

現実と幻想を
対価にするようなかんじ?
(いやむしろ幻想が侵食していくのかしら?)

うむ

音楽って
見えないけど
そこにあるものだからねぇ?

ええと

美しさのいろいろ。

(あ、温泉から話がそれまくっていますが)


いやあ
しかし
相変わらず

話がまとまらないねえ。

あれ?


現実世界よりも

素敵な音楽で脳みそをひたひたにしてるときの方が
しあわせ
だってことかい?

(ちがうか)

比較することじゃないか。



ええと
ちいさな温泉を見つけて
その温泉に入ってる間は
すごくしあわせをかんじてます最近

というだけの話かしら?

そうだね。

きっとそうだね。