1. 梅之木遺跡訪問

 

『列島発掘展2023@山梨県立考古博物館』で再訪(2023/10/28)。で、中央ホールの展示ポスターでこの遺跡のことを知った。

 

 

 

時間がありそうなので寄ってゆくことにする(実際は時間が押していて主目的の講演会場へは高速道を使って駆け込む羽目になったけど)。

 

 

 

北杜市明野町、茅ケ岳の西麓斜面の高地にあり。眼下に北杜市を見下ろし、西に南アルプスの山並みを仰ぐ。北には八ケ岳が一望できる好ロケーション。 のんびりとピクニック気分で訪問しても楽しそうだ。

 

 

 

縄文中期の竪穴住居が再現してあった。土屋根の根拠は覆土から? or Common understanding?

 

 

 

かなり広め。あまり掘り下げていない(5・60cm?)

 

 

 

国史跡なのでガイダンス館が併設されている。

 

 

 

コンパクトながら非常に興味深い遺跡の説明が秀逸。 「来たかいがあった。これは国史跡指定だな」と納得。

 

 

 

2. 梅之木遺跡の集落景観

 

  • 約5,000年前の縄文中期の遺跡。
  • 150軒以上の竪穴住居址が広場を囲んだ環状集落を形成。
  • 遺跡北脇に湯沢川がある。現在は涸川となっているが、梅之木縄文人たちに貴重な生活用水を提供していた。集落から川までの「縄文の生活道跡」が奇跡的にも残されていた。 

 

 

  • 住居等の埋土の全量を水洗したとのこと(Σ(゚Д゚)スゲェ!!)。炭化材や炭化種子、炭化物を回収し、環境復元等を試みた。
  • 出土した炭化材、炭化堅果類の分析からクリ、クルミが建材、食料として多用されていたことが判明。クリはデンプン質に、クルミは油脂分に富み、カロリーの高い優良な食料。両者ともアク抜きの必要なし

 

 

  • 30人集落と仮定し、ムラの周囲に展開した半栽培のクリ林、クルミ林を想定する; クリ収量 150kg/10アール、廃棄率30%として、172kcal/m2、 成人 1800kcal/人日 x 365日 x 0.8 = 525,600kcalだから、525,600/172.2 ≒ 3,000m2 (半径31m)のクリ林が必要。 ⇒ 30人集落ならば90,000m2、半径170mのクリ林が必要。

 

豊作年に果実を大量に採集し、不作年に備えて貯蔵しておけば、梅之木縄文ムラで継続的で安定的な生活を送ることが出来たと推定。

  

 

 

3. 梅之木遺跡の成立と変遷

※ 誤;縄文中期=五領ヶ台式~堀之内式, 正;縄文中期=五領ヶ台式~曽利V式(称名寺式から縄文後期)

 
 
 
 
 
3-1. 住居址の時代同定の根拠=曽利式土器編年
前々からまとめたいと思っていた曽利式土器編年、これはいい機会とまとめメモを作成した(still in progress)
 
 

PJ102住居址(井戸尻式期) 炉体土器として井戸尻3式深鉢が出土。

 

 

 

PJ111住居址(曽利 I式) 直線的に開く無文口縁を曽利 I式の長胴甕と見做したか。

 

 

 

PJ55住居址(曽利 II式期) 埋甕、特徴的な胴部の波状粘土紐文から曽利 II式。

 

 

 

PJ18住居址(曽利 IV式期) 埋甕。左;口縁つなぎ文(胴部区画文)、地文に綾杉文。右;口縁つなぎ文(口縁および胴部に渦巻文)

 

 

 

出土した土器(主に曽利 IV式)がガイダンス館に展示されている。

 

 

 

3-2. 梅之木ムラの発達史

土器編年を用いて住居の使用時期を以下のように特定。

  1. 縄文中期中葉(井戸尻期 / 約4,900年前)に3軒の住居から出発。
  2. 縄文中期後葉(曽利II式 / 約4,800年前)に住居数急増。
  3. 縄文中期後葉(曽利IV式 / 約4,600年前)に最大
  4. 縄文中期末(曽利V式 /4,500年前)ムラ消滅

 

 

 

4. 梅之木ムラの消滅と気候変動

4-1. 4.2kaイベント

  • 中国ドンゲ洞窟の石筍を対象に酸素18同位体(δ18O)分析を実施し、9,000年前から現在までの気温変動(アジアモンスーンの活動状況)をグラフ化した。0~5の黄色縦バンドは、それぞれボンド・イベント(気温の低下時期)を示しており、本分析で求められた気温低下の時期とよく一致している。
  • ボンドイベント3が所謂『4.2ka イベント(4200年前前後の数百年に亘る地球規模の寒冷化)』に相当。

 

 

  • インド北東部のMegahalaya地方のMawmluh洞窟のデータからみた『4.2kaイベント』を↓に示す。  

※ Mawmluh洞窟は前・中・後期に3細分された完新世の中期(メーガラヤン)と後期(ノースグリッピアン)境界の国際標準模式地となっている。

  • 縄文中期(曽利V式)と後期(称名寺式)の境から後期前葉末(堀之内II式)にかけての時期が『4.2kaイベント』に相当する。(※ 土器編年の暦年代は小林(2006)による)

 

4.2kaイベントの数百年に亘る気候の寒冷化のはじまるタイミングと曽利V式期の終焉、すなわち梅之木遺跡の消滅時期とはほぼ一致する

 
 
 
 
4-2. 食糧確保の難しさ、そして移動
  • 梅之木縄文人の主食であったクリは、1年おきに豊作と不作を繰り返す。この結実変動の周期性が天候不順によって不規則になり、食糧確保の予測が難しくなったと推定される。

※ ↑豊作-不作サイクルはミズナラの実の例。左上写真の要領でネットに落下したミズナラの実の数を集計。クリに関する同様のグラフは見つからず。

 

 

  • クリ、クルミの安定的確保が難しくなると、それらの不足分を補うためにトチノミを利用するようになった。トチノミは1週間ほど水に晒しての灰汁抜き作業が必須。しかし、灰汁抜き作業をするには湯沢川は狭く、また水量も少なかったと推測される。
湯沢川現況(2006年当時は涸れ川となっていた)
 
 
 
  • 梅之木縄文人は、このムラを放棄し、北へ1キロ移住し、より水量が豊富で支流が枝分かれした鰻沢川のほとりに新しい集落『上原遺跡(↓図ピンク;後期の住居)』を営むようになったと考えられる。
 
 
 
 
北杜縄文人の営んだムラの誕生と消滅を具体的な物証で明らかにし、その主要因として気候変動を考察している(三内丸山遺跡の消滅もこの時期)。 
ダイナミックな縄文人の生活の息吹と気候変動に果敢に立ち向かった彼らの生への執着を感じた梅之木遺跡訪問だった。
 
 
本遺跡の発掘調査・研究に携わったすべての皆様に感謝の意を表します。