天然記録 -88ページ目

基本的人権がある改憲前なら、強制は拒否できるらしい

改憲の狙いは、国を自衛できるようにするためではなく

緊急事態で国が国民に強制できるためにする為だと思う

WHOがパンデミック条約を今回は見送ったのも

強制したのは日本国だと責任逃れできるからと見る

改憲すれば、ロシアに敵国認定されているので

戦争に巻き込まれる可能性が出てくる

しかもウクライナの保証人でどんどんお金は吸い上げられる不利な立場

そもそも、上層部はグルなので、わざと国民を貧乏にしている

 

選挙で誰が当選しても、国を壊す路線でNWOへ

国民一人一人が目覚めれば、枠強制は阻止できるのを願うけど

阻止できても、健康に良いからと余計なお世話で

非表示で食料に入れてくる姑息さ

それで、デジタル歓迎の国民が多数なら

完全管理社会、パンダの国、北モーニングフレッシュ化

5、6、7Ⓖは危険でIN降るの正体と

目立つ枠反対派は誰も取り上げない

都知事はメディアで映している4人の中の誰かになるだろうけど

小池さんは現職を退けば責任は追及されない負け逃げの仕組み

うつみんはメディアに出ないので当選したらミラクルだけど

関係ない神奈川県川崎市に行って

売国政府や枠の危険を演説しているのは

日本が危機という事を訴えるために立候補した

と思えば落選したとしても良い事だ

 

選挙は「国民が選んだ」と思わせ

政治家はいくら国をひどくしたとしても

辞めれば次の人に責任を押し付けて責任を追及されないし

国民のせいにできる詐欺システム

アメリカの選挙でこれなら、属国日本も同じ事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナポリタン

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここのすぐ横だったけどぐるぐるしてしまった

ブータン「世界一幸せな国」の幸福度ランキング急落

背景に何が?の記事より

 

南アジアにあるブータンは

発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり

“世界一幸せな国”として広く知られるようになった。

国民が皆一様に

「雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ」

と答える姿が報じられたのを覚えている人もいるだろう。
しかし、ブータンは2019年度版で156か国中95位にとどまって以来

このランキングには登場していない。
「かつてブータンの幸福度が高かったのは

情報鎖国によって他国の情報が入ってこなかったからでしょう。

情報が流入し、他国と比較できるようになったことで

隣の芝生が青く見えるようになり、順位が大きく下がったのです」

 

★★★★★

 

私が日本は平和だと実感したのは

平成の最初の頃まで

家に鍵を夜中でもかけた事がなかった事

それだけで日本人って昔から

善良な民族だったんだと思う

でも、子供の頃

勝手に家の中まで上がってくる近所の人は嫌だった

 

 

↑より抜粋

 

江戸社会というのは、一つの完結した文明社会だった。

江戸が「暗闇」だったというのは

それを潰した明治維新政府のデッチ上げである。

確かに、江戸時代には様々な問題点はあったことは事実だし

おそらく現代人が最も抵抗を覚えるのが

科学技術の進歩を原則的にストップしたことだろう。

「それじゃあ、医学も進歩せず、治る病気も治らないじゃないか」

というのは、確かに一理ある考え方だが

では科学技術が進歩すれば、すべてバラ色で弊害などないのか?

そうではないことは、今や常識だろう。

 

人間という生物は、自然の生態系を破壊して増え続けている。

そして、化石燃料を燃やし、限りある地球資源を浪費し続けている。

人間以外の動物なら、増えすぎても自然に淘汰される。

増え過ぎれば自然が供給する食糧が追いつかなくなり

鹿であれ狼であれマグロであれ

適度な数に減り地球全体のバランスは保たれる。

しかし、人間は道具を使って自然を自分の都合のいいように改造できる。

いや、改造といえば聞こえはいいが、実質的には破壊だ。

 

前にも述べたように、農業とは「自然との共存」などではない。

それは人間が後付けでつけた傲慢な理屈であって

たとえば田を作るということは

そこに生えていた自然の草花を一切「抹殺」し

人間にとって都合のいい稲だけを育てる、ということだ。

そして、その過程で、動物や昆虫がまさに「自然」に

稲を食べにくれば、これを「害獣」「害虫」などと呼び抹殺する。

だからこそ人間は、自然の淘汰システムに対抗して

人口を増やすことが出来るのだ。

だが、地球の容量には限りがある。

このまま無制限に人類が増え続けたらどうなるか?

 

もっとも、それは新しい科学技術で解決されるという考え方もある。

いや、長い目で見れば、考え方というより事実と言った方がいいかもしれない。

人類はそうやって進歩してきたのだから。

しかし、ここでお気付きのように、だからこういう「文明」は

科学技術の進歩を止めることは出来ないのである。

それとまったく対照的な文明が「江戸文明」であった。

なにしろ、馬車すら使わなかったのだから徹底している。

「便利な道具」を拒否するという点で、である。

では、具体的になぜ馬車がいけないのか?

それを江戸人が「判定」したことはあるのか?

実例がある。

あの老中松平定信がそれについて断を下しているのである。

 

大坂の儒者中井竹山という人が寛政の改革の時に

老中首座だった松平定信に馬車の採用を提言している。

だが、松平定信は、この案を採用しなかった。

旅客1人に駕籠舁(かごかき)2人

普通は、旅客1人に馬方1人、馬1頭の時代に

馬車のような飛躍的に能率の良い運送手段を利用すれば

まず、大勢の人足、馬方、駕籠舁などが失業する。

人間が歩くようにできている道路を馬車向けに作り直すためにも

莫大な資金が必要だったろう。

私は、松平定信のやった寛政の改革が好きなわけではない。

天明期以来せっかく面白くなっていた江戸文化に

冷水をかけたのだから大嫌いである。

だが、馬車に対する態度は正しかったと思う。

便利にするために道路を舗装して馬車を許可すれば

もう歯止めがきかなくなる。

そのうち、中井竹山なみに進歩的な老中が現れれば

もっと速く走る軽快な馬車や

馬2頭でひかせるもっと大型の馬車も許可するかもしれない。

(大江戸開府四百年事情 石川英輔著)

 

私も松平定信を政治家としては評価しない方で

その点ではまったく同感なのだが

それでも定信には一定の立場

すなわちポリシーがあることは認めざるを得ない。

江戸時代というのは、単純に「後ろ向き」なのではなく

こうした一種の哲学の下に

すべての政策が行われていたのだ。

その中身を現代風に要約すれば

「完全リサイクルのエコ社会」ということになるだろう。

 

われわれ現代人は、夏は「暑い、暑い」と言ってクーラーをつけ

冬は「寒い」と言って、ヒーターやストーブをつける。

一般的に言えばこれは一部「原子力」があるかもしれないが

その大部分は化石燃料(石油・石炭等)を燃やして作ったエネルギーだ。

それを一人一人が個別に消費するから、総消費量は極めて膨大なものになる。

しかし、江戸人は「夏は暑く、冬は寒い」という

当たり前のことをこなすために、生活習慣に対処法を取り入れていた。

今でも行なわれているのが衣替えだ。

気候に合わせて着物の長さや厚みを調整するのだが

暑いからといって閉め切った部屋を冷やそうなどとは思わない。

風通しのいい部屋にして、夏の真っ盛りは決して働かない。

江戸時代というと、日曜日がなく

今よりずっと休日は少なかったが

それでも真夏には多くの人が仕事を休んだ。

無理しても意味がないからだ。

 

風の通り道には風鈴を下げ、うちわという「人力」冷房機で涼を取る。

そして、井戸水で充分に冷やしたスイカやソーメンを食べる。

逆に、あつあつのウナギを食べることもあった。

とにかく夏は暑いのだから、自然に逆らっても仕方がない。

むしろ夏にしか楽しめないことを楽しめばいい。

浴衣がけで花火見物に行くのもいいし

縁台で将棋を指すのもいい。

「夕涼み、よくぞ男に生まれけり」である。

冬は冬で、自然から取った木炭を燃やして

コタツや火鉢で暖まればいい。

寒い時の方がうまい食べ物もいくらでもある。

自然に逆らわず、むしろ自然の「理」に乗る楽しみを

江戸人は実践していたのである。

 

江戸時代は、可能な限り自然に逆らわないで生きる

おそらく人類史上でも珍しい究極の省エネ・エコ社会であり

それを支える大きな柱が徹底的なリサイクルであった。

 

江戸の街は、物を徹底的に使い切るリサイクル社会。

その代表的なのが、紙くず屋です。

紙くず屋は集めた紙を、10種類から20種類くらいに分けます。

1ミリか2ミリくらいのパルプの繊維でできている現代の紙に比べて

伝統的な和紙は10ミリ以上の長い植物繊維でできています。

添加物がないことも、すき返しを容易にしていました。

リサイクルは最後の最後まで行なわれ

最後は表紙の裏打ちの厚紙、今でいうハードカバーの芯になります。

一枚一枚「のし板」という大きなまな板のようなところで押し広げるので

証文や大事そうな手紙が出てくることもあります。

その場合は保管しておいて、持ち主が現れた時に返すのです。

紙くず屋によって保管の期限は違いますが

3年間も保管しておいてくれたというエピソードがあります。

(お江戸でござる 杉浦日向子監修)

 

この本で紹介されているリサイクルをまとめたのが下の表である。

 

 

これはほんの一例である。

この他に、おおよそのものに修繕屋がいて

何でも直してくれた。

「コタツ」や「ゲタ」でも「ナベ」でも「キセル」でも。

ちなみに穴の空いたナベなどを熱であたためて補修するのは

鋳掛屋(いかけや)といい、両端が金属であるキセルの中間の

竹の部分を交換してくれるのは羅宇屋(らうや)といった。

高級なキセルは全部が金属でできているのだが

安いキセルは竹の部分が弱ってくる。

だから、それを時々交換すれば半永久的に使えるというわけだ。

ちなみに今電車の不正乗車の「キセル」というのがあるが

それはこういうキセルが「入口」と「出口」は

「金属」で出来ていることから来ている。

つまりそこだけ金を払って、後は払わないということだからだ。

 

衣・食・住という言葉がある。

これで江戸のリサイクル事情を見ていくと

たとえば「衣」は「捨てる」ということが有り得なかった。

新品は着古した後、古着はそでやすそが傷んできたら

その部分は切り離して雑巾などにし

傷のない部分で仕立て直して子供の衣類にするのである。

こうすれば、何度も繰り返して使える。

そして、本当にボロボロになれば雑巾にし

雑巾としても使えなければカマドの焚きつけにする。

灰になれば、その灰は「灰買い」が買ってくれるから、ゴミにはならない。

 

「食」では、野菜などの切れ端を漬物にするのは今でもやっていることだが

米のヌカから化粧品を作ったりもする(いわゆるヌカ袋)

だいたい食物は人間が食べてしまうから

基本的にゴミにはならないが、最終的には排せつ物という形になる。

しかも、これも「おわい買い」が買ってくれて

畑の肥料として使うから一切ゴミにならない。

肥料といえばこういう話がある。

 

現在は日本だけでなく世界で賞味されているマグロのトロは

江戸時代の中頃までは下魚:げざかな(江戸っ子はそう言った)

として誰も食べなかった。

日本人の感覚では脂が強すぎたのだ。

そこで、たまたまマグロが大量に取れてしまうと

それをバラして畑にまいて肥料として使っていたという。

今から考えると夢のような話だが、天保年間になって

あまりにもマグロが大漁なので、醤油につけこんで

「ヅケ」として握り寿司のネタに使われるようになったのだ。

つまり、遠山の金さんはトロの握りを食べたかもしれないが

大岡越前は食べられなかったということなのである。

 

「住」に関しては、すべて木造建設である。

「衣」と同じで何度も再利用できるし

最後は燃料にしてしまえばゴミにもならない。

つまり、江戸はまさに「ゴミゼロの社会」なのだ。

前節でも触れたが、江戸時代の燃料は、化石燃料の石炭・石油ではなく

自然の木を材料とした木炭である。

だから乱伐(らんばつ) を避けて植林さえ計画的に行なっておけば

「堀り尽くす」などということもないし

少々人口が増えても対応が出来る。

環境もそれほど汚さない。

 

ただし、木炭で得られる熱では

鉄をドロドロに溶かすことは出来ないから

鋼鉄は作れず強力な大砲も黒船も作れない。

既に述べたように、だから「先覚者たち」江川太郎左衛門(英龍)や

島津斉彬(なりあきら)や鍋島直正(閑叟:かんそう)らは

まず反射炉(溶鉱炉)を建造した。

しかし、石炭を使って今までにはない高熱で鉄を溶かすレンガの炉や

それで作られた鋼鉄のボイラーで石炭を燃やし

波に逆らって進む黒船(汽船)を見た人々は

必ずしも坂本龍馬のように感動し

「日本もこれでなければいかんぜよ」

と思ったわけではないことは、もうおわかりだろう。

 

 

それに対して、日本は完成された一つの形である

「江戸文明」をなかなか変えようとはしなかった。

いや、変えたくなかったというのが本音だろう。

だからそれを脅かすような情報は極力排除した。

老中松平定信が「日本はこのままでは危ない」

という正しい警告をした林子平(はやししへい)を罰し

「海国兵談」を絶版にしてしまったのも

その背景にはこういう心情もあったのだろう。

日本は「言霊の国」でもある。

嫌な情報、見たくない情報は、消してしまえばいいのだ。

もちろん、そんなことをしたって

ほんの気安めにしかならず実態は変わりはしない。

幕府が滅んだのも、結局はこういう「言霊的対応」しか出来ず

実態的な変革が出来なかったことも大きい。

 

だが、多くの人々が

「列強の侵略の魔の手を払いのけるためには

開国し近代化するしかない」

という方向になかなか進めなかったのも

結局「ユートピアとしての江戸」が完成していたからなのである。

現代人の視点から見れば「近代化」以前の日本は

「遅れた」社会に見えるかもしれない。

しかし、それは「進んだ」「遅れた」を何を基準にして判断するかの問題だ。

開国して西洋化しても、病死が一切なくなるわけではなく

逆に交通事故などは増える。

ノーベル物理学賞で有名なキュリー夫人の夫ピエール・キュリーは

馬車にひかれて、すなわち交通事故で死んだのである。

「便利な道具」を輸入したからといって

人間幸福になるとは限らない。

 

それより心の満足を求めるというのが

江戸社会いや、江戸文明のコンセプトであった。

それに加えて、当時の日本は

「日本こそ神州」「日本こそ最も清らかな地」

という、別次元の「ユートピア思想」も普及していた。

こうした神道の感覚から見れば

「ケガレ」に満ちた異国人に大手を振って国内を歩かせる

つまり開国などとんでもないという発想になる。

武士階級の基本的教養であった朱子学も

「商売を盛んにすることは悪」という教えであったから

この意味でも通商を目的とした開国は「悪の選択」になる。

そうした「しがらみ」が開国していこうという新しい流れを妨害していた。

 

現代人は「外国人はケガレている」などということを

単なる迷信として捉えるが

日本という国の地政学的条件を考えると

これは必ずしも笑い飛ばしていい話ではない。

日本は島国である。離れ小島と言ってもいい。

ということは鎖国をして外国との交わりを断てば

伝染病も入って来ない。

ところが、開国すればどうなるか?

日本という国は内に籠っているのが好きな国だが

それでもインターナショナルな時代というのはある。

たとえば遣隋使を派遣した聖徳太子の時代から奈良時代にかけて

天然痘が大流行したことがある。

 

 

科学的視点で見れば海外と交流を密にしたため

日本に伝染したということだろう。

そして「離島」には当然のように免疫がないから

一度伝染すると大流行する。

戦国時代も、コロンブスがアメリカからヨーロッパへ持ち込んだ

伝染病の梅毒がやって来て、大流行した。

また、幕末にもコレラが大流行し、天然痘も再び流行した。

これを一般の目から見ると

「国を開いて外国人を大勢国内に入れたから

こんな流行病が増えたのだ」ということになる。

 

そして、このこと自体は「ケガレ忌避信仰」

つまり神道とは無関係で、歴とした事実だ。

だから厄介なのだ。こういう世界で

「ケガレは迷信で、そんなものの作用で人間が不幸になることはない」

といくら叫んでも、説得力はまるでない。

 

 

エコ、リサイクルとくれば、次は環境保全という流れになるが

江戸時代はこの点でも世界で群を抜いていた。

「公害のない、クリーンな環境」が当たり前だったのだ。

 

ペリーが黒船でやって来た時、外交官としては

アメリカ初代総領事ハリスが伊豆国下田に居を構えた。

そのハリスが回想録で次のように述べている。

 

彼ら日本人は、皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。

一見したところ、富者も貧者もいない。

これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。

私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが

果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する

所以(ゆえん)であるかどうか疑わしくなる。

 

ここで肝心なのは、ハリス自身が日本を開国させるために

アメリカが派遣してきた当事者であるということだ。

当初ハリスは頑な日本を開国させることが

アメリカの国益にかない、ひいては日本も近代化できるのだから

日本のためにもなると、確信して日本にやって来た。

そして、辣腕(らつわん)をふるって開国をしぶる日本を

強引に開国させた功労者でもある。

その間、日本側の「先送り」「ごまかし」「破約」

といった官僚的対応に散々悩まされた。

 

だからペリーと同じく幕府高官に対する評価は著しく低い。

しかし、軍人であるペリーは政治関係者としか接触する機会はなかったが

外交官であるハリスは「メイド」として

唐人お吉(とうじんおきち)とも付き合い

下田の玉泉寺を領事館として庶民の生活にも触れることが出来た。

特筆すべきは、ハリスは熱心なクリスチャンで

来日以前は「野蛮な(キリスト教を弾圧している)日本に

キリスト教を広めることこそ、日本人の幸福につながる」

と確信していた人間だったということだ。

そのハリスの確信が揺らいでいる。

 

「日本人は正直で勤勉、身分の上下、富裕の差に関わり無く

質素で華美に走らない」とも言っているし

「私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも

優秀であることを繰り返して言う」とも述べている。

「正直」ということは、日本人にとっては

あまりに当たり前すぎるので、かえって分からないかもしれない。

こういうことは先に述べた「道路の舗装率」と同じことで

外国と比較してみて初めて分かるからだ。

 

ところで、アメリカ人でも中国人でもブラジル人でも

現代の日本に来て一様に驚くことが一つある。

それは、人気のない国道に自動販売機が置かれていることだ。

最近でこそ、しばしば監視カメラが置かれるようになったが

それでも地方へ行けば行くほど「平然」と置かれている。

「平然」というのは

外国ではそんな「金」や「商品」の詰まった箱を

監視カメラのないところに置いておいたら

壊されて中味を抜き取られるか

丸ごと持っていかれてしまうか

そのどちらかなのだからだ。

 

こう言うと、謙虚で自虐的な日本人の中には

「それは外国に失礼だ」と思う人もいるようだが

そういう考え方こそまさに日本人的ナイーブさの産物で

このことはまったくの事実なのである。

そして、実は彼ら外国人がもっと驚くものがある。

それは、今でも地方へ行けば珍しくない「無人スタンド」だ。

野菜や果物が丸のまま置いてあって

欲しい人は表示された代価を

下の料金箱に入れていくシステムだ。

これも外国では有り得ない存在だ。

 

つまり、外国人から見れば今の日本人ですら

とび抜けて正直なのである。

レベルが違うということだ。

開国とは、そういうレベルが違う人々

つまり外国人を国内に入れるということだ。

これも念のために言うが、これから言うことは差別とは違う。

しかし、開国(外国人を国内に入れる)とは

日本人にとっては往々にして

「伝統文化の破壊」であったということだ。

 

だから、これも日本人の多くは

鎖国に固執しようとした理由の一つなのである。

ただし、日本人にも問題はある。

「無人スタンド」という「伝統文化」が破壊されるのが嫌なら

その価値観を日本に入って来る外国人に教えるべきなのだ。

ところが日本人はそういう自己主張が苦手だから

「日本に住むなら、無人スタンドを守れ」という主張をするよりは

「外国人よ出ていけ」と言う方が精神的に楽なのである。

これではいけない。

これは一種の極論として言うが、外国出身で日本の文化を愛し

永住したという人々には、こういった「伝統文化を守る」

ことを「帰化の条件」にすればいい。

少なくとも、そういう姿勢を日本側は取るべきなのである。

 

幕末に日本を訪れた外国人が驚愕したのは

日本人の正直さばかりではない。

その清潔さも一様に驚愕している。

江戸という都市(江戸に限らず地方都市も)が

いかに清潔であったか、これを実感するには

ハイヒールという靴がいかにして生まれたか

そして洋傘がいかにして普及したかを知ればいい。

ハイヒールと洋傘がなぜ関係あるのか?

 

かかとの高い靴というなら古代ギリシアにもあったが

ハイヒールは17世紀つまり日本の江戸時代にパリで作られたものだ。

初めは女だけでなく男もはいていた。

それはその時代のパリには、ベルサイユ宮殿にすらトイレはなく

すべて「おまる」で用を足していたからなのだ。

そして「用」が済むと人々はそれを目の前の道路に捨てていた。

つまり、道路は汚物だらけであった。

そういう汚物まみれの道路を少しでも踏まないように歩ける

接地面積の少ない靴、それがハイヒールだったのである。

 

ちなみに洋傘の方は、当初は雨よけではなく

主に女性が二階から道路に捨てられる汚物で

ドレスを汚さないためのものだった。

傘をさして歩けば「爆弾」の被害から身を守れるというわけだ。

そのため、ヨーロッパでは傘とは「女が使うもの」で

大の男が使うには「女々しい」とされていた。

 

ところが、イギリス人の紀行家ジョナス・ハンウェイが

外国では雨の日に傘をさして歩く習慣があることに気がつき

ロンドンで雨の日一人傘をさして歩き回ることを始めた。

初め男どもはハンウェイを嘲笑した。

しかし、やはり便利なので、一人また一人と

ハンウェイの真似をするようになり

とうとうそれが「当たり前」になった。

そして、コウモリ傘がイギリス紳士の必携の品

と言われるようにすらなったのである。

ちなみに、ベルサイユ宮殿に出入りする王族や貴族の女性が

「釣り鐘型スカート」をはいているのも

あのまましゃがんで用を足せるからなのである。

 

 

一方、江戸は下水道こそないものの、水のおいしい上水道

(神田上水など)があり、ゴミは一切出ない。

糞尿すら全部回収して肥料にしてしまうのだから

川が汚れようがないわけだ。

だから、隅田川には清流にしか生息しないシラウオがいたし

川の水をすくって飲むことも出来た。

 

 

また、今でこそ日本は、市民の森の面積が少ないと言われている。

しかし、幕末の日本を訪問した外国人は

日本の都市(特に江戸)ほど森が多く

市民の憩いの場所になっている国はないという評価なのである。

この謎を解く鍵は「鎮守(ちんじゅ)の森」にある。

そう、神社の森である。

江戸には、神田明神・亀戸天神など多数の神社があって

それぞれ自然林を保護していた。

これらは大名屋敷などと違って出入りが自由だったから

まさに江戸の町民の憩いの場所であった。

これは江戸に限らないが

そもそも庶民の大きな楽しみである

春の花見や秋の紅葉狩りも

こうした神社、それに寺院の庭であることが多かった。

 

また、外国人の立ち入りは難しかったが

大名屋敷や江戸城も当たり前のように庭園があった。

ヨーロッパの庭園というと

噴水や石造の建設物を花で囲むというスタンスが多いが

日本庭園はむしろ自然の森をいかに維持

再現するかというところに重点が置かれている。

また、普段は狭い長屋に住んでいる庶民も

朝顔やホオズキを育てるのに熱心だった。

盆栽もある。

そんな高度な「ガーデニング」を一般人がやっていることも

外国人にとっては驚き以外のなにものでもなかったはずだ。

そういう「ユートピア」であればこそ

日本の「鎖国」の扉をこじあけるために

特に選ばれてやって来たハリスすら

「本当にそうすべきなのか」とためらわせたわけである。

 

しかし、それでも「身分制度」があるじゃないか

やはり江戸は「遅れた」社会ではないかと

主張する人もいるかもしれない。

それは文字通り、見解の相違である。

 

 

ここで注意すべきは

身分社会と違って平等社会(市民社会)は

必然的に激烈な競争社会になるということだ。

これは意外に聞こえるかもしれないが

少し考えてみれば分かる。

 

坂本龍馬は

「アメリカでは誰でも選挙で当選すればプレジデント(大統領)になれる」

ことに感動したという。

龍馬だけでなく多くの日本人、たとえば福沢諭吉などもそうだったに違いない。

しかし、そのプレジデントになるためには

まず立候補者となって激しい選挙戦を勝ち抜かねばならない。

日本国将軍ならば、あらかじめ身分によって候補者が限定される。

大体は候補者は一人ですんなり決まるし

複数の候補者がいたとしてもせいぜい2、3人で

大統領選のように不特定多数の人間と

激烈な競争をする必要はまったくない。

 

身分がある社会では激烈な競争というのは

ほとんど有り得ないのだ。

 

 

馬車を使わなかったことも

宿老(しゅくろう)制(十分に経験を積んだ老人)

に戻したことも、江戸時代の前の戦国時代に原因がある。

だからこそ江戸時代は「競争もダメ」という固定社会になった。

忘れてはいけないのは、人々がその時点ではそれを熱望したということだ。

かくして江戸時代は、すべての人が「分を守る」社会となった。

大名ですら大名の分を守り、将軍になろうとは考えない。

そして、これも忘れてはならないことだが

それでこそ長い泰平(たいへい)つまり平和の時代が完成したのだ。

確かに、江戸時代は、立身出世を望む人間にとっては

重苦しく不快な世界だったろう。

だが、そんな人間はやはり少数派だ。

圧倒的多数の人間は、町人に生まれれば町人の

下級武士に生まれれば下級武士の分を守って一生を終えたのである。

 

 

世界のどこに、百万人の大都市に警察官が14人しかおらず

それで治安が保たれていたなどという例があるだろうか?

その秘密は「分」を守る社会だったからだ。

犯罪の動機のほとんどは「欲望」すなわち「分を越える」ことである。

もちろん、同心は配下に岡っ引きを抱えており

岡っ引きは下っ引を抱えていた。

銭形平次や半七を思い浮かべて頂ければいい。

町ごとに自身番があり夜には木戸が閉ざされ

犯罪の起こりにくい環境は整えられていた。

 

また、江戸時代後期には凶悪犯罪に対応するため

火つけ盗賊改め(鬼平こと長谷川平蔵が有名)も増設された。

それにしても、江戸の犯罪率は

ヨーロッパの各国と比べてもケタ違いに低かったはずである。

「はず」というのは史料がないからだが

一般に江戸時代が「暗黒」であったというイメージがあるのは

明治維新政府を立ち上げた人々が

自分たちの功績を際立たせるためにことさら

そのように宣伝したことともう一つ理由がある。

それは、私がかねがね指摘している

日本歴史学の三大欠陥にかかわることだ。

 

 

歴史の本では、統計的なことはほとんど無視して

特定の現象だけを抜き出し

全体とは関係なく説明してあるのが普通だ。

つまり

「史料は特殊なことを記録する」傾向が強いのに

そういう史料を絶対視するから

非科学的になるということだ。

江戸時代は「江戸文明」の完成された社会だった。

便利な道具は敢えて用いず

自然のリズムに従って生き、ゴミは出さない。

 

人々はそれぞれ「分」という運命に従う代わりに

競争という「苦しみ」に惑わされることなく平和に暮らせた。

大工の子は大工で、家老の子でなければ家老になれない

という制度は一見不合理なようだが

それを本当に不合理と感じる人は実は少数派である。

逆に市民社会は政治に「参加できる」が

その権利を主張するためには

納税や兵役という厳しい義務も求められる。

多くの庶民にとっては「政治はお上に任せておけばいい」ものだった。

長屋の住民は税金など一銭も納めていない。

もちろん、問題は何もないわけではない。

しかし、日本人にとっては開国近代化という路線は

「ユートピアとしての江戸」とは

180度異なる価値観の世界へつながるものだった。

だから、多くの人々が、そこへ行くことをためらったのである。

 

この巻おわり

 

 

なぜならキリスト教、他一神教が戦争になっているから

明治維新は日本人だけでやりとげたわけではないけど

この著者はそう思っているので

天皇教があったおかげで近代化できたと

認識のずれが生じる

 

 

 

↑より抜粋

 

日本はずっと多神教の国であった。

「八百万(やおよろず)の神」という言い方も

「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」も

複数の神の併存状態を認める考え方だ。

これに対して

ユダヤ・キリスト・イスラム教の世界は一神教

つまり「神を一つしか認めない宗教」であり

その神を「絶対神」とする。

日本人には極めてなじみにくい考え方だ。

だから日本人は昔から「絶対」という事が分からない。

逆にもし「絶対神」とはどういうものか理解している人なら

本居宣長(もとおりのりなが)がなぜ「正直の頭に神宿る」

という思想を許せなかったのか分かるはずだ。

 

明治以降、日本にキリスト教の布教が認められてから

日本のキリスト教信者の中に、ある特有の型が認められたという。

型といってもいろいろあるが、これは悪い例のことだ。

それは日本人信徒は

“神を万能の召し使い”と勘違いするということだ。

たとえば、ある信徒が必死に祈る。

祈りの内容は「目の前の悪人を倒して欲しい」

というような「正義の祈り」である。

しかし、現実世界では悪人の方が勝つなどということもよくある。

ここで日本人信徒は何と言うか。

「なぜ神は悪をやっつけてくれないのか!」

 

この信徒は「神の存在」は信じている。

だからこそ「何もしてくれない」ことに腹を立てているわけだが

こうした態度を

キリスト教(ユダヤ・イスラム教も)は厳しく戒める。

なぜなら「腹を立てる」理由は

「神が自分の思い通りに動かないことへの不満」だからだ。

この底には

「神は自分の思い通りに動くべきだ」という考えが潜んでいる。

それは神を「主」ではなく

「下僕:げぼく(召し使い)」であると考えていることになる。

もっとも、そういう態度の信徒に

「おまえは神を、アラビアンナイトに出てくるランプの精のように

何でも自分の望みを叶えてくれるものと考えているのか?」

と尋ねれば

「そんなことなない。神は主であって召し使いではない」

と断固否定するだろう。

では、否定するにもかかわらず、実質的には、なぜ

「神はそうすべきだ」と考えるのか?

 

「正直の頭に神宿る」からである。

しかし、絶対神というのは

「人間が正直であれば必ず動く」というものではない。

それでは人間の方に「絶対」があることになる。

人間が「正直」であるという条件さえ満たせば神は必ず動くというのは

人間の方が「スイッチ」を握っていることになるからだ。

そうではなくて神の方に「スイッチ」があるのが絶対神なのである。

「スイッチ」がある方が、ない方を「コントロール」できる。

ところが「正直の頭に神宿る(至誠:しせい=天に通す)」

という思想は、正直(誠あるいは至誠)という「スイッチ」を

人間側が入れれば、神をコントロールできる、と考えているわけだから

これは神を絶対とする人々にとっては

とんでもない冒瀆になるわけだ。

 

これでも、分かりにくいかもしれない。

そこで、日本人キリスト教徒が一番抵抗を覚えるという

「旧約聖書」の「ヨブ記」をご紹介しよう。

 

ヨブは神への信仰心が強く高潔な人柄で

まさに「正直」を絵に描いたような人物である。

しかし、神の敵であるサタン(悪魔)がヨブの信仰心を疑うと

神はサタンが信仰心の強さを試すことを認めてしまうのだ。

サタンは、ヨブの最愛の息子と娘をすべて死に至らしめる。

そればかりか財産もすべて奪い

ヨブ自身も人々の忌み嫌う重い皮膚病にかからせる。

ヨブは神を信じ、悪い事は一切していない。

だが神は、サタンがヨブにそのような仕打ちをすることを認めた。

サタンが間違っていることを証明するためだ。

ただそれだけのために、善人の中の善人ヨブを

不幸のどん底に陥れることを認めたのである。

一人生き残ったヨブの妻は、神を呪うべきだと主張する。

それも当然だろう。

自分の腹を痛めた子をすべて殺されたのだから。

だが、それに対してヨブは何と言ったか。

「お前まで愚かなことを言うのか。

私たちは、神から幸福をいただいたのだから

不幸もいただこうではないか」

このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すこと

(神を罵ること)をしなかった。

(ヨブ記 第2章第10節)

 

日本人なら「神も仏も無いものか」とか

「こんな神のやり方は間違っている」と叫ぶことだろう。

しかし、それは絶対神に対する態度ではない。

「しもべ」なのは人間であって、神ではない。

だから神が何をしようと、それが人間から見て

「悪」であったり「過ち」に見えても

それは決してそうではなく、すべて「正しい」のだ。

それが「神が絶対」ということなのである。

この日本人には極めて理解し難く

また受け入れ難い思想を、本居宣長は声高に提唱した。

なぜなら、天皇は絶対神であるべきだからだ。

「神に誠を尽くせば受け入れられるなどと考えることも

漢文:からぶみ(中国思想)であって、大きな間違いである。

この世界で起こることは、凡人の浅はかな心で

いろいろ解釈してはならない」ということになろうか。

もちろんその理由は

「この世で起こること」は「神だけが決める」ことだからだ。

 

宣長の研究者である相良亨(さがらとおる)は

この部分を紹介して

「はじめて、世の中のすべての「事」は神のしわざであり

よくもあしくもこれにしたがわなければならない

という神観念が登場した」と指摘しているが

これがまさに絶対神の概念であることは、もうお分りだろう。

もちろん、仏教において阿弥陀如来は絶対神に近いし

儒教における「天」はさらに人間を支配する絶対神に見えるかもしれない。

しかし、儒教はもともと天人(てんじん)相関説

(人間、特に帝王が良い政治をすれば天はそれを祝福する)

から出発しており、これは結局「至誠通天」と同じような考え方である。

だからこそ、宣長はそれを

「漢心(からごころ)」として否定したのだ。

 

仏教も、そもそもはインド思想の因果応報説

(前世の善悪の行ないによって後世が変わる)を基本としており

これも人間が善を行なうというスイッチを入れれば

救われるという考え方だから

主体は人間にあり、絶対神をも認める立場ではない。

だから、宣長はこれも「漢心=外国思想」として否定した。

その「引き算」のあげくに残ったのは天皇であった。

だからこそ、天皇は絶対神なのだ。

では、その祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)と

その子孫である個々の天皇の、どれが絶対神なのか?

 

 

ここで一つ問題なのは、日本がこのように

「神」によって守られているならば

なぜ天災や飢饉や戦争のような

不幸なことが起こるのだろうかという点である。

この「逆説」の愛読者はよくご存知のように

日本ではそれを怨霊という「悪」のしわざだとしてきた。

だからこそ、怨霊鎮魂は仏教・神道を問わず

宗教における最大の課題であったのだが

天皇を絶対神とする宣長はそういう考えを採らない。

なぜ、採らないかは前出の

「ヨブ記」の内容をもう一度思い返して頂ければ分かるだろう。

 

ヨブを不幸のどん底に陥れたのは

直接にはサタンであったが

それはそもそも神が認めたことでもあった。

すなわち「神のはからひ」なのである。

もう一度言うが、この世で起きる(起きた)すべての事は

神のしわざと考えること、それが絶対神ということだ。

だから、国中に疫病が流行するようなことも

それは怨霊などのしわざではなく「神のはからひ」なのである。

では、神はなぜそんな事をするのか?

宣長はここでマガツヒの神という神に注目する。

マガツヒの神は黄泉の国(死者の世界)のケガレから生まれた神で

災厄(さいやく)をもたらす神として知られていた。

ところが、宣長はこの神は特別な性格を持つものとした。

それは次のようなことだ。

 

宣長は「古事記伝」において

禍津日神(マガツヒの神)の別名を瀬織津姫(セオリツヒメ)とする。

瀬織津姫は、ハヤアキツヒメ、イブキドヌシ、ハヤサスラヒメと共に

この世の罪を海の彼方に流して、祓い清める霊力を持っている神である。

宣長の考えによれば、神道五部書のひとつである

「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」にあるように

この瀬織津姫はまた、天照大神の「荒魂」でもある。

つまり、宣長によれば、マガツヒの神は天照大神の分身なのである。

 

神は元々

「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」の

二つの霊魂を持つと考えられていた。

これは昔からある考え方だ。

言うまでもなく和魂は、あらゆる恵をもたらす善なる魂で

荒魂は天災、疫病などをもたらす悪の魂である。

そこに注目した宣長は、アマテラスが神なら当然

「(人間から見て)悪」を為す部分があるはずだと考え

アマテラスの荒魂をマガツヒの神だとしたのである。

これは国学というより、キリスト教における三位一体説のような

天皇教神学と言っていいだろう。

こんなことを言い出したのは、もちろん宣長が初めてである。

では、われわれ日本人は、この絶対神であるアマテラスや

それと同体であると考えられる天皇

すなわち現人神(アラヒトガミ)に

どのように仕えていくべきと、宣長は考えたのだろうか?

 

唯一絶対神(アラー)を信じるイスラム教には

ムスリム(イスラム教徒)が絶対に信じなければいけない

六つの信仰がある。六信という。

その第一はもちろんアラーの存在自体を信じることだが

その第六に挙げられているのが「カダル」である。

カダルとは「この世におけるすべての出来事は

すべてアラーの思し召しであると信じること」だ。

これも日本人にはなじみにくい考え方である。

というのは、まさに前節に述べたヨブのように

「まったく正しく善良な人が極め付きの不幸になる」のも

「神の御意志」ということになるからだ。

 

それまでの「多神教」では、正しい人が不幸になるのは

「悪神」のしわざであった。

そして「善神」がそれを阻止する。

したがって人々は「正義の神」を信じ「悪神」を信じてはならない

というのが「一神教」が出現するまでの世界の常識だったのである。

 

しかし、一神教の世界では、たとえば

「サタン(悪魔)という人間を不幸に陥れる

(能力を持った)存在は登場するが、これも神ではない。

なぜなら、絶対神(唯一の神)がすべてを創造したからだ。

したがって、サタンといえども人間と同じ被造物

(創造神によって造られたもの)の一つになってしまうからだ。

 

宣長の「天照大神=天皇=絶対神」という神学では

他の神は認める。それはおそらく

「一つの神がすべてを創造した」という概念が

日本の神話には無いためだろう。

アマテラスも

イザナギ・イザナミという「両親の神」から生まれた。

しかし、「この世のすべての出来事は神の思し召しである」という

まさにイスラムのカダルとまったく同じ考え方には

「絶対神信仰」であるがゆえに、宣長は独自で到達した。

 

宣長によれば、人事の吉凶禍福は人間の心のあり方や

行為の善悪によってもたらされるものではなく

また死後の行き先も、それによって決まるわけでもない。

どこまでも吉凶禍福は一方的な神々のはからいであって

人間の意思とはまったく関係ないのである。

 

 

キリスト教には、原罪という考え方がある。

もともと絶対神(創造神)によって造られた存在(被造物)

に過ぎないアダムとイブが、同じ被造物である蛇の誘惑に負けて

神が食べることを禁じた知恵の木の実(禁断の果実)を食べてしまった。

この神に対する最初の罪を原罪という。

神道には再三述べたように

「創造神(あるいは被造物)」という考え方は薄いので

「キリスト教的原罪」はない。

しかし、「罪の根源」を「原罪」と呼ぶとするならそれは存在する。

言うまでもなく「ケガレ」がそれだ。

 

ケガレはあらゆる罪の根源なのだから

そして、だからこそ天皇は

ケガレと対極の最も清浄なるものであり尊い

という考え方が生まれてくる。

それゆえに、庶民も日常生活において

ケガレを忌避し続けることが必要ともなってくる。

 

「宣長に従えば、マガツヒの神

黄泉の汚穢:おわい(死の世界のケガレ)

から生まれた神であったが、日常生活において

これを避ける具体的な行動を取ることが

マガツヒの神の荒びから逃れることになる」

 

ということだ。

実は、「宣長神学」の問題点はここにある。

この神学では、庶民は天皇が「現人神」であることを信じ

その「荒魂」の働きを弱めるために

「ケガレ排除」の「具体的行動」を取らねばならない。

それは家の中では「不浄「とされる場所を

「お札」を貼ることで清めるという

ある意味で他愛ない行動で済むが、家を一歩出るとどうなるか?

 

それは

たとえば「ケガレに満ちた人々」を徹底的に差別するという

「具体的」な行動にもつながってしまうことになるのだ。

日本では、皮革(ひかく)製造業など生物の死

(という穢:けがれ)に連続して触れなければならない

職業につく人々を、穢れが除去できないほど

つまり、ミソギ不可能な人間たち、という意味で

「穢多(えた)」と呼び厳しく差別していた。

彼等は、居住地も制限され、「一般民衆」の居住区との間には

「ケガレを流す」川があり、その間には橋を架けなかった。

すなわち「橋のない川」の向こうに彼等の居住区がある。

西日本ではこれを部落と呼んだ。

(ちなみに特に関西人で誤解している人がいるが

東北地方等に行けば「部落」は決して差別語ではなく

日常生活で「集落」の意味として通用している)

 

これは「神道という宗教」に端を発する差別だから極めて根深い。

それは「愛と寛容」を説いているはずのキリスト教が

根深いユダヤ人差別という問題を抱えているのと似ているが

この厳しい差別が一時的に緩和された時代もあった。

それは鎌倉時代以降、仏教が日本向けにリニューアルされ

こうした問題点を解決したからだ。

たとえば親鸞(しんらん)は、こうした人々も救済の対象と認めた。

それは当然で、仏教には「ケガレは罪」という感覚はなく

仏の下では万人平等だからである。

 

問題は

その「万人(すべての人々)」の中に、天皇が入るかどうかだ。

本来の教義を貫くならば、本願寺教団はその方向へ行ったかもしれない。

しかし、既に述べたように、実際に親鸞の後継者たちが選んだのは

「天皇は別枠」という考え方だった。

特に本願寺教団は、准門跡(じゅんもんぜき)

という形で、天皇ファミリーの一員となった。

だが、それでも、神道側は満足しなかった。

そして、江戸時代以降、神仏習合論が否定され

仏教の神道からの分離が進むと

こうした差別はむしろ助長され、強化されることになった。

 

 

ところで、前節、この「宣長神学」こそ

かつて江戸初期に熊沢蕃山(くまざわばんざん)が期待した

「天皇を中心とする国民統合の原理」だと言った。

確かにそれは事実で、その影響は前に述べたように

昭和前期の国定教科書にまで及んでいるのだが

実は宣長によって、すべて完成したわけではない。

「宣長神学」は「国民統合の原理」としては

一つの大きな欠陥があった。

その欠陥は、もはやお分りかもしれない。

「宣長神学」における「死後の救い」を述べれば次のようなものになる。

 

「そんなものは無い。

それが善人であれ悪人であれ、死んだら黄泉の国へ行くのだ。

それはケガレに満ちた悪所である。

しかし、そのことも含めて、それは絶対神の「思し召し」なのだから

われわれ人間はどうしようもなく

ただ「悲しいことだ」とあきらめるしかない。

しかし、我が日本には万世一系の天皇家が永遠に続き

この国を守るという、異国には無い素晴らしい奇蹟があるのだから

それを誇りに思い、我慢せよ」

 

おわかりだろうか?

これは、エリートである公家や武士はともかく

一般庶民は極めて受け入れにくい考えである。

庶民はやはり「来世の救い」が欲しいのだ。

その問題を解決したのが、宣長の「後継者」ともいうべき

平田篤胤(ひらたあつたね)なのである。

 

あなたは、人間死んだらどうなると思っていますか?

あなたがキリスト教信者なら「天国に行きます」とか

「天国に行けたらいいなと思っています」あるいは

「残念ながら地獄行きですね」と答えるかもしれない。

しかし、キリスト教徒は日本人全体で1%しかいない。

つまり、こう答える人は100人に1人だということだ。

門徒(もんと)いわゆる本願寺の信者なら

「阿弥陀様のお導きで極楽浄土へ参ります」と答えるだろう。

こう答える人は、キリスト教徒に比べればはるかに多いには違いないが

それでも日本人全体から見れば少数派である。

「死ねば何もかも無くなる」と答える人もいるだろう。

しかし、これもやはり少数派だ。

 

このことでアンケートを取ったら

おそらく一番多い答えが「わからない」であろう。

しかし、日本人に対するアンケートには、私に言わせればコツがある。

それは基本的には「和」の民族で

自己主張が苦手な日本人に答えやすい形を作ることだ。

まさに「設問」である。

たとえば子供のいる若い親には、こう聞けば本音を引き出せる。

 

Q1 あなたは自分が死んだら子供と関係なくなると思いますか?

 

こう聞けば、ほぼ100%の人が「いいえ」と答えるだろう。

続いて、こう聞けばいい。

 

Q2 「いいえ」と答えた人に聞きます。

では、あなたは「死後も子どもを見守っていきたいと思いますか?」

 

これも、Q1ほど多くはないかもしれないが

ほとんどの人が「はい」と答えるだろう。

しかし、そう答えるということは

「人間死んでも(肉体が滅んでも)霊魂はそのまま

(子の親という形)で「生きている」と認めている。

あるいは「そうありたい」と考えているということだ。

ということは、心の底では「霊魂不滅」を信じているということでもある。

 

多くの日本人は誤解しているが

本来の仏教は「霊」の存在を認めていない。

初めて釈迦が仏教を開いた頃は、人間は死ねば輪廻転生する

つまり生まれ変わるというのが前提だった。

だからこそ、その輪廻のサイクルの中から解脱:げだつ(脱出)が

釈迦の仏教のテーマだったのである。

世界の民族の「死んだらどうなる」についての考え方は

大きく分けて三つある。

 

① 霊魂は永久に不滅で別の世界(天国、地獄、霊界等)へ行く

② 輪廻転生

③ 死ですべては消える

 

さらに大きく分けるならば

②も、少なくともヒンズー教では輪廻転生する主体

つまり個人(=我)の本体と考えられるアートマン

というものを認めていたから、このアートマン(我)が

霊魂と同じものと考えれば

それが永遠に転生することになり、①に入る。

 

ちなみに仏教では

このアートマンなどというものは存在しない(無我)とした。

しかしそれでも輪廻転生を認めるならば

転生する主体は何なのだ、という疑問に

大乗(だいじょう)仏教の理論家たちは

「それは識(しき)である」と答えた。

これが唯識論(ゆいしきろん)だ。

しかし霊魂(自我)が消滅してしまうのは「寂しい」

あるいは「物足りない」と考えた人々が

「死んでも阿弥陀如来を頼れば極楽浄土に生まれ変わり

(往生:おうじょう)、仏に成れる(成仏)」

といった信仰を生み出したのであろう。

これが大乗仏教である。

これは「肉体は滅んでも霊魂は不滅だ」

という考え方に相通じる。

したがって、特に本願寺の門徒(信者)でなくても

日本人は一般的に死ぬことを「往生」といい

人が死んだ際に「成仏」してくれというようになったのだ。

しかし、そこまで言及すると本題からはずれるので、ここでやめておく。

つまり、大きく分ければ

 

① 死後も霊魂は不滅

② 死は完全は消滅

 

の二つになるのだが、日本人が圧倒的に共感してきたのは

やはり「霊魂不滅」の方である。

そもそも、外来宗教に触れる以前、日本の古代信仰がそうだった。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は死後

輪廻転生したのではない、そう考えるからこそ

その神霊を神社に祀ろうという発想になる。

「輪廻転生」や「死は消失」と考えるなら

神社は「からっぽ」ということになってしまうからだ。

では、死者の霊魂はどこにいるのか?

それについても、明確な定義は実は無かった。

 

しかし、ここで考えてもらいたい。

若い父親が子に先立って死ぬような破目に陥った時、何と言うか?

「パパの魂は必ず近くにいて守ってあげるよ」

これであろう。

日本の原始信仰がまとめられた形の神道では

死者は地下の黄泉国に行くという見方をしたが

それ以前の感覚では、むしろ雲の上(天)でもなく地下でもなく

身近にとどまるという考えがあった。

たとえば、ヒット曲というよりも

スタンダード曲として定着した感のある

「千の風になって」も

もともとアメリカで親しまれていた詩を日本の作家

シンガーソングライター新井満(あらいまん)が

訳して曲をつけたものだが、実はキリスト教以前にあった

人類の霊への感覚をよく表現しているのである。

 

 

もちろん忘れていけないのは怨霊信仰である。

怨霊というにはまさに霊魂不滅の思想から出て来るものであって

鎮魂(ちんこん)されたとしても消滅するわけではない。

むしろ御霊:ごりょう(良い霊)となって生き続けるのである。

したがって、日本人の「死後」あるいは「霊魂」に対する考え方をまとめれば

日本人は

「人間は死んでも、つまり肉体が滅んでも、霊魂は不滅である。

ただし、その霊魂がどこにいるかについては様々な見解がある。

しかし共通しているのは、霊魂は意志を持ち子孫を守る」

ということになる。

 

これは別の言葉で言えば「祖霊(それい)信仰」ということであり

儒教以前の古代中国にもあったし

(むしろ孔子の儒教はこれを体系化したもので

朱子以降の宇宙の原理を追求する「新儒教」とはまったく異なる)

キリスト教やイスラム教など

一神教が発生する以前のユーラシア世界にもあった。

だからこそ「千の風になって」も出て来たのである。

しかし、孔子自身も「先祖のまつり」は大切にはしたが

「死後」については語らず、逆にキリスト教やイスラム教は

「別の死後」を提示することによって、「祖霊信仰」は否定した。

 

つまり、この信仰は日本だけに「しぶとく」生き残ったとも言えるわけだ。

当然、それには、その「生き残り」に貢献した宗教家がいるはずである。

平たく言えば、現在でも日本人の霊魂に対する最大公約数的な考え方である

「死んでも霊となって側にいる」は誰が定着させたのか?

生み出されたのは、はるか古代のことであったが

他の国々や民族の間では消滅するか衰亡していた信仰を

日本の場合は一体誰が強化固定したのか?

それこそ、本居宣長の後継者と自ら称した

国学者にして神道家の平田篤胤の「仕事」なのである。

 

今、まさに述べたように、平田は

宣長の「天皇教神学」に欠けていた「死後の救い」を

明確化し、天皇教を完成に導いた人物なのである。

これは日本宗教史においても、少なくとも十指には入る大きな功績だろう。

そして、そんな大きな功績を挙げた平田篤胤のことを

多くの若い人が知らないということは

まさに日本の歴史教育、ひいては歴史学の大きな欠陥であると言えるだろう。

これは、ドイツ、いや欧米世界で言えば

「マルチン・ルターって誰か知らない」と同じようなことになるからだ。

 

 

それは、平田派の国学、篤胤に創始した「宗教」が

「宣長神学」に不満を抱く多くの人々の心を捉えたからである。

 

 

最初、平田は、「宣長神学」の説通りに

「善人も悪人も死ねば黄泉国に行く。

それは汚くて悪い所だが、これも絶対神である

アマテラスの思し召しの一環であるから仕方がない」

という死生観に従っていた。

しかし、宣長の

「それで我慢せよ、この国は「アマテラス=天皇」という

現人神のいます、世界唯一の国なのだから

それを誇りに思えばよい」

という考えに、平田は次第に反発の度合いを強めていく。

口では、「私は宣長先生の後継者だ」と言いながら

この部分に関しては、師の説を大きく「改変」していったのである。

おそらく平田は、この部分に強い不満も持っていた。

善人であろうと悪人であろうと

死んだら同じ運命だというのは、あまりにも「救い」がない。

そのことを「改善」するための「神学理論」は

37歳の年に既に、平田の頭の中に出来上がっていた。

そして、それを著作の形にして世に問うきっかけとなる

平田個人の歴史では最大の不幸がこの年に起こった。

愛妻の死である。

 

 

平田は「霊の真柱(たまのみはしら) 」で

これまでの「古事記」「日本書紀」解釈に対して

幽冥界という魂の行く世界があり、それをオオクニヌシ

(大国主命)が主宰しているという

新しい「解釈」を打ち出したということだ。

もちろん「大国主命」は「古事記」に登場するが

「幽冥界」などという言葉は無いし

人間の魂がそこへ行くという記述はもちろん無い。

そんなものがあれば、とうの昔にそれが定説になっていただろう。

そして、それが無いからこそ、宣長は

「死ねば黄泉国へ行くしかない」という他は無かったのだ。

しかし、平田は、特に宣長の直弟子たちから見れば

「強引」で「コジツケ」とも考えられる解釈で

「神学」を構築し、宣長説を否定した。

だから、彼等は「平田はニセモノだ」と怒りの声を上げたのだ。

しかし、庶民はこれを歓迎した。

当然だろう。これまで神道が認めていなかった

「死後の救い」を初めて認めたのだから。

 

平田によれば、われわれは死後に

肉体と切り離された魂(霊)となって幽冥界に行く。

幽冥界とは、まさに幽霊がそのまま存在している世界であって

霊体となった人々は

生前の行ないについて「審判」を受けるというのだ。

しかし、平田は、その「審判」がどういうものか

具体的にはほとんど述べていない。

ただ、審判を下すのはオオクニヌシで

生前の「功」には褒賞を「罪」には懲罰を科すと言っているから

生前この世では報われなかった「善人」は救われ

悪人が一方的にいい思いをすることは有り得ない。

すなわち庶民は「安心」を得られるわけで

「死は誰にでも等しく訪れ、死ねばキタナイ黄泉国に誰もが行くのだ。

神の国に生まれて生きることが出来たのだから

この事実を正面から受け止め耐え忍ぶしかない」

と主張する「師」の宣長とはエライ違いである。

宣長は「学者」だが平田は「神道家」

つまり「宗教者」だと言われるのも理由はここにある。

 

そして、神の世界に関する平田の解釈を受け入れることは

「平田教」の信者になるということでもある。

 

 

現世のことを顕事(あらわごと)

それ以外のことを幽事(かくりごと)として

分担しようということだ。

アマテラスと子孫である代々の天皇が現世の実際の政治を受け持ち

オオクニヌシがそれ以外(いわゆる来世とは言っていないことに注意)

の「神」の世界、目に見えない運命を受け持つと言っているわけだ。

実は、宣長以前の神道(国学)では、吉田神道でも垂加神道でも

人間の死と「顕幽(けんゆう)分離」は関連付けられていない。

確かに人間の死は「神の領域」で扱うことのはずだが

「死をケガレ(=悪)の極致」と捉える神道の常識では

それは扱いたくなかったか、扱うにしても

「キレイゴト」としたかったのだろう。

たとえば「日本書紀」の冒頭にある

「混沌」の中に帰っていく、などという解釈をしていた。

 

 

「平田教」つまり「平田派国学」はこの後に

その弟子たちの手によって「布教」され

熱狂的な信徒を生み出すことになる。

それは「天皇教」の完成ともいうべき出来事であり

これが幕末動乱期の欧米列強の侵略をはね返した強力な力となった。

 

つまり、第16巻に述べたように、明(みん)の滅亡を目の当たりにして

日本も「国民統合のための強力な原理」を持たなければならぬと考えた

熊沢蕃山の理想が、平田によって実現されたということだ。

しかし、こう書くと

万事めでたしのように見えてしまうかもしれないが

決してそうではない。

 

たとえば、既に紹介した1963年(昭和38)に書かれた

「平田篤胤」の冒頭に

著者の田原嗣郎(つぐお)は次のように書いている。

 

「平田篤胤という国学者の名を見ると、今でも私はいい気がしない。

なにやら気味がわるくなってしまう。

というのは、言うまでもなく戦時中の、あの途方もない

ジャーナリズムにのっていた、脅迫的な諸論文を思い出すからである」

と堀田善衛(ほったよしえ)は書いている。

(海鳴りの底から)

これが1945年の敗戦まで荒れ狂う天皇制ファシズムに

痛めつけられた日本人民の偽わらざる感想であろう。

天皇制国家の観念的支柱となった国学の中でも

篤胤はことさら太い支柱であったのだから。

 

堀田善衛(1918~98)は「広場の孤独」という

言葉の生みの親でもある「戦後」を代表する知識人だ。

その彼をして「気味がわるく」させてしまうもの

それは一体何なのか、ということである。

 

私は平田篤胤という人物を

宗教家にして「天皇教」の完成者と見る。

いや、これは私だけでなく、客観的に見れば

少なくとも宗教家であることは誰もが認めるだろう。

もちろん、その宗教とは神道であり「天皇教」だ。

ところが、彼自身の主観では必ずしもそうではなかった。

「神の実在」を信じる点では宗教家だが

宇宙論など本来科学に属する分野では

自分のことを「科学者」あるいは「哲学者」と考えていたのである。

分かりにくいかもしれないが、キリスト教と進化論の関係を考えれば

分かりやすくなるかもしれない。

キリスト教原理主義者にとっては

ダーウィンの言説はインチキであり

アダムとイブの起源説の方が正しい「科学」だということになり

当然それを主張する人間は

その一点では「科学者」であるということになる。

「私が述べているのは化学的事実であって、信仰ではない」

ということになるからだ。

 

 

では、「実証主義者」のニュートンは宗教家ではないのか?

とんでもない。

既に述べたように極めて熱心なキリスト教徒であった。

では、実証主義と熱烈な信仰は矛盾しないのか?

皮肉なことに彼の場合は矛盾しないのである。

皮肉と言ったのは

そもそもニュートンが「実証主義」になったのも

それまでの科学のテーマであった

「重力はなぜあるのか?」といった、根本的な存在論を

「それは神の領域の話で、われわれ人間には解明できない」

と探求しなかったからなのだ。

そう割り切れば、残されたことは

「神の創造したシステムやルールをいかに解明していくか」

ということになる。

そこからは「実証主義」でも信仰とは決して矛盾しない。

つまり「神の存在」という

本来実証主義ではまったく解明不可能なことを

大前提とした「実証主義」なのである。

皮肉と言ったのは、そのことだ。

 

ニュートンはだから聖書研究家としても有名であった。

「旧約聖書」の記述に基づいて、ソロモン王の宮殿の復元に取り組んだり

「新約聖書」の「ヨハネの黙示録」の「真意」を追求したり

いわば聖書に込められた「神からのメッセージ」を

何とか「解明」しようとしていたのである。

なぜ、ニュートンのことを長々述べたかというと

実は平田は日本史

いや世界史のレベルで観た方がいいかもしれないが

「ネガ(陰画)のニュートン」

だからなのである。

 

 

江戸期まで日本に定着していた宇宙論は、たいていの場合

仏教経由の須弥山(しゅみせん)システムや仏教宇宙論

あるいは天文暦法の星図であって

現実の太陽系を人々に示すまでにいたっていなかった。

平田はここに眼をつけて

コペルニクス、ケプラーの天文学を講じながら

すでに日本の古代神話(とくに国生みの物語)が

この思想を先取りしていたことを実証する仕事にかかる。

仏教や儒教の世迷言(よまいごと)を西洋の合理精神が論破し

さらにこの西洋科学が古道の教えに含まれていたのだとすれば

それはすなわち古道の大勝利であり

すべて思想の上下関係は決定することになる。

(本朝幻想文学縁起 荒俣宏著)

 

この路線を受け継いだのが、佐藤信淵(のぶひろ)であった。

毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物だが

経世家(けいせいか)としては一流であり

彼を褒める人は、日本を封建制:ほうけん(地方分権)から

強力な中央集権国家にすべきだという

青写真を作った明治維新の先駆者だという。

その信淵は

国学こそ日本が世界唯一の優れた国家であることを証明するために

西洋の科学を取り入れるという、師平田の考え出した

奇想天外な路線をさらに拡大するものだった。

 

佐藤信淵が

「鎔造化育論(ようぞうかいくろん)」を表わして

古道国学宇宙論の完成をはかったとき

彼の心にあったのは、つまりそういうことであった。

西洋の科学により明らかにされた宇宙の姿は

日本神話の中ですべて語られており

西洋は最近になって、やっとそれに気がついた

という具合に論旨をもっていくことである。

ということになれば

古道の生みだした(日本的狂気の源流)も

実はこの一点から出てこざるをえない。

古道の教えが世界最高のものであるのなら

それを守ってきた日本人も必然的に

「もっとも幸福な民族」でなければならないからだ。

古今を通じて、日本人はえらい、という意識が

これほど明確にでてきた思想もないだろう。

(引用前掲書)

 

お気づきのように

荒俣の指摘する「日本的狂気の源流」こそ

前節で述べた堀田善衛をして

「気味がわるく」させたものなのだ。

 

実は、平田にはそういう「志向」があって

今で言えば「トンデモ本」にあたる本を出している。

しかし、ここが肝心だが平田もニュートンも主観的には

「オカルト」だとは思っていないのである。

彼等は大マジメであり

要するに自分の信じる「聖典」の解釈によって

「事実」を述べているに過ぎない、という立場である。

もっとも、平田は

「××年、世界は滅ぶ」といったような本は書いていない。

キリスト教には「最後の審判」に基づく終末思想があるから

とりあえずの「終わり」がいつ来るかということに

大きな関心があるし「終末が来る」というのは「事実」でもある。

しかし、神道の世界では

アマテラスが「天壌無窮(てんじょうむきゅう)

 天地は永遠に極まりなく続くこと」と言っているように

世界は永遠に続くのだから終末論はない。

「諸行無常(しょぎょうむじょう)

永遠に変わらないものはないということ」や

「盛者必衰(じょうしゃひっすい)

栄えている者も必ず衰える」というのは

仏教の思想であり、漢心(漢意)だから関係ない。

したがって、平田はそういう思想とは無縁である。

では、どういう「トンデモ」かといえば

いわゆる「霊界もの」であった。

 

 

また平田は、いわゆる「前世の記憶を持つ子供」にも会って

その内容を詳しくインタビューしてまとめている。

それは「勝五郎再生記聞」という著作である。

 

 

ここで重要なことは

勝五郎が自分で藤蔵として、いったん死んだ時

冥界(幽冥界)で産土(うぶすな)の神(氏神:うじがみ)の

熊野権現(くまのごんげん)に会って

再生させてもらったという「証言」をしていることだ。

では、平田が主張するところの幽冥界を主宰する

オオクニヌシとの関係は一体どうなるのか?

ここにおいて平田は、勝五郎少年の証言に基づき

熊野権現に限らず産土神はその地域において

オオクニヌシの仕事を分担している、と位置づけたのである。

つまり、平田の主観では

これはケプラーやコペルニクスの天文学と同じもので

勝五郎の発言という「科学的事実」によって

その理論を打ち立てたということになる。

平田本来の立場から言えば、再生を真実とすることは

実は仏教の基本的前提である輪廻転生を認めることになってしまい

仏教そのものを妄説として排除してきた従来の姿勢と矛盾するはずだが

平田はその点については語っていない。

 

 

平田はこう考えた。

仏教において伝えられていることは

実は完全無欠な正しい教えである「日本教」の

訛伝:かでん(不充分な形で伝えられてきたこと)

だと言うのである。

 

お察しの通り

仏教についてこうなら当然儒教についてもそうなる。

もちろん、キリスト教でも、この「方法論」は応用できる。

つまり、有名なエホバが天地創造したという神話も

それは、それよりも古い、イザナギ・イザナミの神話が

不完全な形で西洋に伝わっていた、ということにすればよいからだ。

「神州」である日本以外の国

たとえば中国、インド、あるいは西欧では

日本人が認識している正確な神話を

まさに彼等が神州の民ではないがゆえに知ることが出来ず

結果的に訛伝となってしまった。

だからこそ、平田がこれらの分野のすべてを「研究」しても

「古道」を否定するものは一切出て来ない。

むしろ、ますます自説を「補強」する結果になるわけだ。

 

それどころか、宗教とは「正反対」の科学ですら取り込める。

たとえば、それは「西洋ではコペルニクスという男が

ようやく真理である地動説に気づいたようだが

それは既に日本の(古道)に述べられていることだ」

という言い方になる。

では、たとえば聖典である「古事記」「日本書紀」の

どこに地動説が述べられているのか?

もし述べられているなら何故これまで語られなかったのか?

実際はそんなことは語られていないではないか!

という問いには、彼一流の強引な「解釈」で結論を「立証」してしまう。

平田は論争においては、自分が絶対に正しいと信じたが故に

相手を徹底的に攻撃し、いささかも妥協を示さなかった。

こういう点ではなかなかの「政治家」なのである。

 

そして、この考え方を推し進めていけば、世界の中心

すべての民族の発祥の地は

天皇という神の子孫が統治する日本だということになる。

「世界に冠たる日本」こそ、世界を指導すべきだ

そのためには日本が世界のすべてを仕切るべきだ

という考え方につながることになるのだが、それはむしろ

平田の弟子たちが発展させていったことである。

 

 

優れた弟子たちが全国津々浦々にその教えを広めた。

その教えは、従来の神道に比べて明快であり

何より「死後の救い」を明確化させたことにより

かえって日本古来の神々への信仰心

ひいてはその「代表」である天皇への忠誠を高めることになった。

明治維新を成功させた要因に

この「平田教」の力が大きいことは間違いのない事実である。

しかし、その後成立した近代日本が

徐々に「神がかり」になっていったのも歴史的事実であって

多くの人々、特に戦中・戦後が少年期だった知識人の多くは

日本のそういう部分を

「平田篤胤という神道狂信者のせいだ」と捉えている。

 

 

ここで、再認識して頂きたいのは「平田教」つまり古道(神道)が

そのまま明治維新以後の国家神道に

ダイレクトにはつながらないということだ。

つまり、実は、終戦直後から比較的最近まで行われてきた

平田の評価は、この点の認識があいまいであり

そこが平田いや「平田教」の真の理解を妨げているという考え方が出て来た。

幕末から明治維新の「近代化」という流れの中で

平田とは西洋の科学や宗教を日本の思想と融合させて

新しい方向性を示した人物として、高く評価しているのだ。

 

 

そして、多くの人々が考えているのとはまったく逆に

その平田派国学、つまりそれは平田自身は「古道」と呼び

私は「平田教」と呼んでいるものだが、明治維新以後の日本の

国家神道とは、決して直結していない、ということである。

荒俣も言及しているように

島崎藤村が自分の父親をモデルにして書いた小説

「夜明け前」は、平田派国学の熱れつな支持者であった主人公が

その理想「新しき古(いにしえ)」を求め

そして近代化の中でそれが否定されていく過程をつづったものだ。

では、「新しい古」とは何か。

藤村によれば、古代に帰ることは自然に帰ることであり

「古」に帰ることによって「新」を見出すということだ。

これが幕末期に「革命」ではなく「王政復」を通じて

「明治維(すべてを新しくする)」を実現した

多くの人々の心情の底にあったものだ。

決して、単純な

「海の向こうへの憧憬(しょいけい)」ではないのである。

明治という時代への道は、平田篤胤という人物の

まさに「維新」によって開かれたと言っても過言ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イングランドの最高勲章って何をした?

大和魂とかで、戦争にまた誘導しそうで怖いな

グローバル化で、日本の資産が外国に流れている今

一体、日本人は何を守るため、武力で戦う気でいるのか?

自衛隊の人も、中国人の配偶者が多いというし

日本に住んで日本語話して

日本が好きなら日本人でいいけど

日本が嫌いな人達が日本に住んで実権を握り、売国をやっている

和人が大陸からの侵略者だったなら

その時代の歴史を学ばせないのも納得

この世はシナリオ(聖書など)があるゲームと見ると

本当に最後はこの世界、大逆転してほしい

 

 

↑こちらより抜粋

 

「エミシ」も「エゾ」も漢字では「蝦夷」と書く。

平安時代初期(9世紀前半)に征夷大将軍:せいいたいしょうぐん 

(征夷(=蝦夷を征討:せいとうする)大将軍を指す武人の最高栄誉職である)

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が

「征伐」したのは「エミシ」であった。

そして、それ以後、主に北海道にいた異民族を「エゾ」と和人は呼んだ。

もちろん、両方とも「野蛮人」という意味を込めた蔑称(差別語)ではあるが

このうち「エゾ」とアイヌは同一のものであるとされている。

 

では、平安時代初期の「エミシ」はアイヌなのか

それともそうではないのか?

もし、「エミシ」が「エゾ」つまりアイヌだったとすると

田村麻呂に敗れたアテルイはアイヌの王であったことになる。

しかし、ここでも話は簡単ではない。

仮に「エミシ=アイヌ」だったとしよう。

すると、大和朝廷とエミシの戦いというのは

大和民族とアイヌ民族の対決であって

最終的に北海道全域が日本の領土となったのは

明治以降のことであり、それまではアイヌが先住していたのだから

日本という国は東北以北(いほく)の領域について

常に異民族との抗争が平安初期から一千年以上続いていた国であり

それがようやく終了したのが明治以降であるということになる。

 

一方、「エミシ」が「アイヌ」でないならば

それは同じ大和民族同士の内部抗争ということになるから

平安期以前に既に本土の東北地方までは

大和民族の領域だったということになるわけだ。

特にアイヌが先住していた地域は

現在の日本領(国土)にあたるものより広い。

たとえばサハリン(樺太:からふと)南部にもアイヌは住んでいた。

これを先住民族の問題として考えるならば

ロシア共和国も話し合いのテーブルにつく必要がある。

 

この問題に関する学説は大きく二つに分かれる。

「特定説」と「非特定説」である。

「特定説」というのは読んで字の如し

「エミシが何者なのか(=エゾなのか?)

という点について「特定」できるという考え方である。

当然ながら、この「特定説」は「エミシはエゾ(アイヌ)である」

と両者を同一のものと認める説と

「エミシはエゾではない」と否定する説に分かれる。

 

「エミシはエゾである」という同一説の最も有力な論者は

たとえば言語学者の金田一京助であった。

つまり本州にいたアイヌが「エミシ」で

北海道にいたアイヌが「エゾ」と呼ばれたということだ。

ここでは「エミシ」も「エゾ」も同じ民族(アイヌ)で

名称が違うのは地域による差であることになる。

同じ「特定説」でも、逆にエミシは辺境に住んでいた

大和民族(日本人)であるという主張もある。

この場合は「中央に住んでいた日本人に対し

辺境に住んでいた日本人をエミシと呼んだ。

これは文化的、政治的(天皇に従わない)特徴による分類で

両者に人種民族の差はない」ということになる。

さて、どちらが正しいのだろうか?

 

 

実は、東北以北には、和人ともアイヌとも違う異民族が古代から存在した。

「日本書紀」に658年、つまり飛鳥時代に

水軍の将阿部比羅夫(あべのひらふ)が

「蝦夷」に続いて「粛慎(しゅくしん、みしはせ、とも読む)

を討ったという記事がある。

阿倍比羅夫は後に白村江(はくそんこう)の戦い(663年)で

唐・新羅(しらぎ)連合軍と戦った人物だが

「蝦夷」「粛慎」と違う字で書き分けられていることから

いわゆる一般的な「エミシ」とは違う民族であることは間違いないと見られている。

 

 

日本には、こういう民族問題もある。

とても「単一民族国家」などと言える状態ではない。

こうしたことも、「アイヌ史」及び

「北方民族史」を考える上で大切な視点である。

 

 

それにしても、歴とした神社の絵詞に北方の異民族に

「日の本」という名の種族がいたと記録されているのは興味深い。

我が国が「大和」から「日本」へと国号を改めたのは

日没する処(西)の大国である中国に対し、対等である

日出づる処(東)の国家であると主張した聖徳太子の頃であると

私は考えているが、まさにこの時代の歴史を記した

中国の「唐書:とうじょ」には

この国号「日本」に対する一説として

「倭(大和)が日本を征服しその国号を奪ったのだ」と書かれてある。

ということは、もともとこの「日の本」族こそ

「日本人」だったのかもしれない。

 

古来から日本には「つぼのいしぶみ(壺の碑)という石碑があったと伝えられている。

これは歌枕にもなっていて、平安時代以降の日本人には常識だった。

伝説では征夷大将軍坂上田村麻呂が東北地方を征服した時

大石の表面に矢尻で彫り込んだものだと言われているのだが

その碑文(ひぶん)が「日本中央」というのである。

「大和」が「日本」ならば

東北地方が「日本中央」であるはずがないのだが

なぜか昔からそう伝えられている。

 

ところが、明治になって、陸奥(むつ)国の坪(つぼ)という場所

(現青森県東北町)から「日本中央」と彫り込んだ石碑が発掘されたのである。

誰もが認めることは、坂上田村麻呂はここまでは来ていないということだ。

だからこの石碑の真実性を疑問視する傾向が強い。

しかし、私は逆に、田村麻呂が「碑文を彫り込んだ」という伝承の方が

「ニセ」であって「日本中央の碑」つまり「つぼのいしぶみ」は

田村麻呂以前から存在したのではないかと思っている。

つまり、まさに「唐書」の一説通りで

倭(大和)と日本は初めは別の国であって

当時の「日本」は東北地方を中心とする「日の本人」の国であったということだ。

つまり、東北町の「日本中央の碑」は本物か

少なくてもそれを再建したものであるというのが私の考えだ。

 

 

1432年の安東氏脱出以降は

和人の豪族単位の集団移住が一挙に増加した。

彼等は本州に一番近い、夷島(えびすじま、えびすしま)

の南端のウショロケシ(函館)、マトマイアイヌ(松前)に居住し

その本拠は館(たて)と呼ばれた。

松前が「マトマイ」つまりアイヌ語を語源としているように

北海道の古い地名はほとんどが札幌(サッポロ、アイヌ語の乾いた大きい土地)や

月寒(ツキサム、アイヌ語の「チ・キサ・プ」(われわれがこするもの)

のようにアイヌ語が語源なのだが、函館(明治までは箱館と表記した)は

この時代に和人の作った

「館」が「箱」のような形をしていたことに由来すると言われ

日本語が語源なのである。

「ウショロ」なら「宇城」になってもおかしくないところだが

箱館になったのはここが完全に和人の領域にされたことを示すものと言える。

 

これまで、夷島には少人数の和人はいたものの

それはアイヌとも共生する存在であり

当然のことながら混血も進んだだろう。

つまり「渡党」内部では民族的対立がそれほど尖鋭化(せんえい)しなかった。

ところが、このような集団移住が起こると

和人がまさにこの地の「領主」としてふるまい

その結果、先住民であるアイヌとの争いが激化するようになった。

逆に言えばアイヌは、彼等が集団移住して来る前は

まさに縄文文化の伝統を受け継ぐ、狩猟・漁労を中心とし

その収穫物を和人も含めた各国の人々と自由に交易していた。

それが、にわかに「御領主様づら」した和人たちに

何かと干渉、収奪されるようになったのだ。

 

これは、このままでは済まない状態であることは、おわかり頂けると思う。

「よそ者の侵入」に対して、先住民のアイヌがその不満を爆発させる事件

いや戦争が起こった。

それがアイヌ民族の初めての大々的蜂起(ほうき)とされる

「コシャマインの乱(戦い)」である。

もっとも、これを「乱(反乱)」と呼ぶのは

中央の「東夷成敗権」に基づく見方であるから

正しくは「戦い」と言うべきかもしれないが

そのきっかけは一つの殺人事件であった。

それがいかにもこの時代を象徴する話なのである。

 

和人の館は12あった。

その一番東側にあったのが志濃里館(しのりのたて)である。

現在は「志苔:しのり」と表記。以下この表記に統一。

その周辺には村があり、和人が数百戸にわたって住んでいた。

中でも鍛冶屋村は繁栄を誇っていた。

それは、前にも述べたように

アイヌが優良な製鉄技術を持っていなかったからだ。

そこでアイヌたちは和人の村にやって来て

狩りのための刀や農具を買い求めていた。

 

1456年(康正2:こうしょう)、アイヌの少年が

和人の鍛冶屋にマキリ(小刀)を発注した。

 

 

ところが、それが出来上がってきた時、少年と鍛冶屋の間で口論が起こった。

理由ははっきりわからない。

鍛冶屋の側に非があるとすれば、よほど小刀の出来が悪かったか

法外な値段をふっかけたかだろう。

少年の方に非があるとすれば

言いがかりをつけて安く値切ろうとしたということも考えられる。

しかし、すべて推測であって、当初どちらかに非があったかは分からない。

そして、ここが肝心だが、口論の末に

鍛冶屋はそのマキリで少年を刺し殺してしまったのである。

 

仮に、悪口雑言を言われたとしても、相手は少年なのだから

これは殺した鍛冶屋の方に完全な非がある。

それに、これからは想像だが、少年を刺すなどという行為に出たのは鍛冶屋

つまり和人が、アイヌに対して

差別的な感覚を持っていたのではないかと考えられるのだ。

その証拠に、この一つの殺人事件が

結果的に大規模なアイヌの武装蜂起につながった。

両者の間が平和的友好関係であれば

こういうことは不幸な突発事故として処理されるはずだ。

また、この鍛冶屋が殺人犯であるにもかかわらず

厳しく罰せられたという話も聞かない。

 

1960年代のアメリカの黒人暴動なども

こうした事件がきっかけになったケースがよくある。

やはり差別に対する不満がアイヌの間にたまっていたのだと考えられる。

そして翌1457年(長禄元:ちょうろく)

本州では南朝方に奪われていた「三種の神器」のうちの一つの

「神璽:しんじ(俗に玉と呼ばれるもの)」を

赤松一党が取り返した年(長禄の変)に

オシャマンベ(長万部)のアイヌの首長コシャマインが武装蜂起した。

コシャマインは、最東端の志苔から始まって

箱館、中野、脇本、穏内、栗部と

次々に和人の館を陥落(かんらく)させた。

全部で12館のうち、茂別(もべつ)と花沢の2館を残して

あとは全部攻め落としたのである。

 

しかし、最後まで残った花沢館に、アイヌから見れば「悪人」

和人から見れば「英雄」とも言うべき男がいた。

その名を武田信広(のぶひろ)という。

あの信玄で有名な甲斐(かい)武田氏と同族である

若狭(わかさ)武田氏の出身と言われる。

国主の家に生まれながら早くから生家を出て

北へ北へと流れて行き、落ち着いた先が夷島の花沢館であった。

実は、この館の主が同じ若狭国(福井県西部)出身の

蠣崎季繁(かきざきすえしげ)だった。

この男も若狭武田氏の一族であったが

これも早くから夷島に渡って、安東氏の末裔と称する安東政季(まさすえ)

の女婿(むすめむこ)となった。

そして、その蠣崎季繁の養子となったのが、武田信広なのである。

 

信広は武将として極めて優秀な男であった。

それまでコシャマインに押されっぱなしであった

和人軍を立て直して反撃に転じたばかりか

自らの弓でコシャマイン父子を討ち取るという大殊勲(しゅくん)を立てた。

信広は蠣崎家の家督(かとく)を継いで勢力を伸ばしたが

アイヌ側の反抗も根強く、信広の子光広の代には12館の中でも

最大の拠点の一つ松前の大館(おおだて)が攻め落とされた。

しかし、これを奇貨とした光広は逆に全力で集中して大館を奪い返し

1513年(永正10:えいしょう)

ついに最も重要な拠点を蠣崎家のものとした。

しかし、アイヌの抵抗はまだ止まない。

 

その2年後の1515年には

東部のアイヌの首長兄弟シヨヤとコウジが武装蜂起した。

この頃から、和人はアイヌに対して極めて卑劣な手段で対抗するようになる。

「騙し討ち」である。

「和を結ぼう」「これからは仲良くしよう」と美辞麗句をもって

首長らを宴会に誘い、酒を散々飲ませた上で惨殺するのである。

私はアイヌの酒を飲んだことはないのだが

おそらく彼等の酒は、日本の清酒よりも

はるかにアルコール度が低いのではあるまいか。

とにかく、この手は極めて「有効」で

以後しばしば用いられることになる。

この武田信広改め蠣崎信広の子孫が江戸初期に

松前と姓を改め松前藩の大名になっていくわけだが

その公式記録である前出「新羅之記録」には

この時の「騙し討ち」を、むしろ誇らし気に書いてある。

 

問題は「ウタリ」を一人残さず殺して埋めた塚(夷塚)が

その後代々「野蛮人(アイヌ)と戦ってきた時は

鬨(とき)の声を上げ(て励ました)」とあることだ。

つまり、和人はアイヌを虐殺したことに

なんの後悔も疑念もなかった、ということなのである。

 

 

「城」というのは言うまでもなく漢字であり古代中国語だ。

そして日本で言う「しろ」とは違うものだった。

本来、「城」とは、城壁の意味だった。

つまり都市を囲む壁のことだった。

「トロイの木馬」の故事でもわかるように

昔は王、貴族、平民も住む、居住区も商店街も

大城壁で囲むのが常識だった。

これは中国も同じで、首都長安の異名は長安城であった。

理由は簡単で、異民族からの攻撃、略奪などから国民を守るためである。

ところが、この「世界の常識」が通用しない国が一つあった。

それが日本で、日本が中国の長安をモデルに建都した平城京(奈良)も

名前に「城」がついているのに城壁はない。

当時、日本にやって来た中国の使者も

「日本の都市には城壁がない」と驚きをもって報告しているくらいである。

日本は基本的に異民族の攻撃を心配する必要はなかったということだ。

 

ところが、天智天皇の時代に初めて日本は外国(唐)からの侵略を警戒した。

その時に造られたのが、壱岐(いき)の金田城(かねだのき)や

太宰府(だざいふ)の水城(みずき)である。

つまり、この時代は「城」を「平城京」のように

音読みで「ジョウ」と読むか、さもなくば訓読み

(やまとことば詠み)で「き」と読んだ。

そして日本における「城」とは

あくまで戦闘用に限定された要塞(ようさい)の意味だった。

しかし、この頃の日本人も「城」の本来の意味は知っており

また中国の大都市に比べて

日本にそれがないのに劣等感を抱いていたと考えられる。

 

というのは、平城京を捨てて平安京に遷都した

桓武(かんむ)天皇は、それまで「山背国(やましろのくに)」

と表記していたのを「山城国」に改めたからだ。

首都が「山向こう(飛鳥方面から見ればそうなる)」

では困るということも当然あっただろうが

その地が山に囲まれていたのを幸いに

「首都の周囲を取り囲む山々こそまさに城(城壁)にあたるのだ」

という意味も含めて「山背」を「山城」と改めたようだ。

ところが、問題は本来の訓読みでは

「城」は「き」と読んで「しろ」とは読まない。

しかし、無理矢理「やましろ」という言葉にあててしまったので

これ以降「城」を訓読みでは「き」ではなく

「しろ」と読むようになったというわけだ。

 

「山城国」の名付け親である桓武天皇は

征夷大将軍に坂上田村麻呂を起用し蝦夷(エミシ)と戦わせた。

そして勝った。これ以降いわゆる東北地方は

「日本」の領域になるわけだが、その「植民地」経営のために

大和朝廷がこの地に建てたのが

胆沢城(いさわじょう)であり秋田城だ。

これは平安京というよりは中国の長安のミニチュアであった。

というのは、本来異民族の土地であったところに造られた

周囲を掘や柵で囲んだ「町」であったからだ。

つまり規模は比較にならないほど小さいが

これらの「城」は本来の意味に近いのである。

ところが時代が下がって、武士の世の中になると

それまで平地の館(やかた)に住んでいた有力な武士が

山の上など守りの堅いところに拠点を設けるようになり

これを「城」と呼んだ。

 

 

だから、秋田城というのは中国式と日本式の2つが存在するのである。

古代の大和朝廷の東北侵攻に対し、「乱」が起こった。

前9年の役(対外戦争)に「異民族」側が籠った

「基地」のことを大和朝廷は「柵」と呼んだ。

「柵」と呼んだのは「差別」というよりは、彼等の「基地」が

「城」とは形状の異なるものだったからだろう。

こうした「柵」は朝廷の勝利によって一掃された。

彼等が抵抗をやめたことで、中国式の秋田城や胆沢城も

存続させる意味がなくなり、時代の流れの中で消えてゆく。

 

そして、鎌倉時代になって武士たちは館(やかた)に住むようになって

室町中期以降はいわゆる戦国時代(室町末期)になると

本土では鈴尾城や姫路城のような「城」が多数築城される。

ところが「夷島」では、そうした「発展段階」はなかった。

「北方史」の最も重要な年号である1432年(永享4)

つまり安東氏が南部氏に敗れて本土から北海道へ渡って以降

安東氏や蠣崎氏が道南に本拠として造ったのが「館(たて)」であった。

代表的なものを今日「道南十二館」と呼んでいる。

これらは初期の代表的な「館」であり

東から二番目の「箱館」は今の函館市の中心部にあり

大館は今の松前町にあった。

安東氏はこの北海道最南部を

それぞれ上之国(かみのくに)日本海側

松前、下之国(太平洋側)に分割統治していた。

ところが、こうした和人の進出に

かねてから不満を抱いていたアイヌが

前節で述べた「マキリ(小刀)少年刺殺事件」をきっかけに

その事件の翌年(1457年=長禄元)に

和人の「館」を攻撃したのがコシャマインの戦いである。

 

 

松前に本拠を移してからの蠣崎氏と

アイヌの抗争は72年ほど続いた。

武力抵抗が一応終息したとはいえ、この争いの根底には

津軽海峡をはさんで本土と夷島との

交易の主導権を誰が取るかという点にあった。

逆に言えば、この問題が解決しない限り

紛争は収まらないということだ。

そこでコシャマインの蜂起から

95年目にあたる1551年(天分20:てんぶん)

蠣崎季広(信広から数えて4代目)とアイヌとの間に

「夷狄の商舶往還の法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)

という交易協定が結ばれた。

これは、形の上では蠣崎氏の主君にあたる安東氏

(本土の出羽国:でわに在住していた、現在の山形県と秋田県)が

仲介の労をとったもので、具体的には太平洋側(下之国)のアイヌの代表

チコモタインと日本海側のアイヌの代表ハシタインと協定を結んで

両首長は蠣崎氏から交易の利益の一部を「夷分:えぞぶん」として

受け入れる代わりに、両者は「おさ(長官)」としてアイヌが武力蜂起など

起こさないように監視・統率(とうそつ)するというものだった。

 

ここで肝心なことは、同じ日本海側でも最南部の

和人が「上之国」と呼んでいた松前を中心とする土地が

和人の領分として完全に認められたということだ。

いわゆる和人の形成である。

和人地は、「下之国」でも箱館周辺は含んでいる。

これが後に松前藩として発展していくことになる。

そして、戦国時代が終わり豊臣秀吉の天下統一が為されると

当時の蠣崎家当主慶広(よしひろ)は

早速大量の献上品を持って上洛し

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)において秀吉に会い

蝦夷地の支配を任されたいと懇願した。

秀吉は機嫌よく、これを許した。

これによって、和人地以下の夷島すべてに

蠣崎家の支配が及ぶという、アイヌにとってはまさに寝耳に水の

とんでもない事態になってしまった。

 

松前藩は、「三百余藩」と言われた江戸時代の藩の中で

唯一とも言うべき特徴がある。

それは領内で米がまったく穫れないということだ。

それでも石高は一万石として評価されているのだが

ではどうやってそれだけの米に見合う分だけの収入を得たのか?

それは、交易による収入しかなかった。

逆に言えば、松前藩はアイヌの領域を侵して

交易量を増やせば増やすほど藩財政は豊かになる。

家康はこの地における松前藩の交易の独占を認めた。

これもアイヌにとっては不利な話で

交易相手は松前藩に一本化されてしまったということだ。

アイヌの領域は当然侵され続けた。

これに対して反抗したのが

アイヌ史最大の英雄シャクシャインなのである。

 

シャクシャイン(?~1669)は

北海道日高地方のアイヌの首長であった。

アイヌと和人の最初の大規模な衝突である

「コシャマインの戦い」は、日本の室町時代に道南地方で起こった。

そして、それから212年後の

「シャクシャインの戦い」は日高地方が中心だ。

これは時代としては江戸初期で、アイヌと松前藩の戦いになったが

要するに松前藩成立後、和人が「道内」深く進出していることがわかる。

この傾向は以後さらに強まって「アイヌ三大蜂起」の最後である

「クナシリ・メナシの戦い」(1789年=寛政元)につながっていく。

しかし、その「三大蜂起」のうち、最大規模のものは

この「シャクシャインの戦い」だったかもしれない。

 

シャクシャインの拠点であったシべチャリ・チャシ(城)は

北海道の札幌から130キロ南東の

南端部の襟裳岬(えりもみさき)に行く途中にある。

最近は牧場が多く、競走馬の生産地として有名だが

昔は漁業と交易の町であった。

シべチャリから起こった地名に、シべチャリ・チャシのあった

真歌山(まうたやま)があり

その頂上付近にシャクシャインの銅像が建立されている。

近くには記念館もある。

毎年、9月23日の秋分の日(命日は10月23日)には

全国各地からアイヌの人々が集まり慰霊祭を行なっている。

残念ながら、チャシは松前藩によって破壊されたので

和人の拠点であった勝山館跡ほどは整備されていないが

それでも山頂に立てば、シャクシャインも見たであろう海から

平地へと続く雄大な景色を眺めることが出来る。

 

さて、この蜂起は何故に起こったのか?

シャクシャインの戦い以前

アイヌは決して一つに団結していたわけではなかった。

多くのアイヌは松前藩に反感を抱いていたが

松前藩と親しい、あるいは中立のアイヌも少なからずいた。

なぜなら、アイヌ内部に部族同士の対立があったからだ。

「敵の敵は味方」という論理である。

こういうことは世界史を例にとるとわかりやすいが

中国人(中華民族)が万里の長城を築いたのは

草原地帯の遊牧民が、農耕民族である中国人の「縄張り」

すなわち中原(ちゅうげん)に侵入して来るのを防ぐためだった。

そして、万里の長城が造られて以後、遊牧民族の脅威は一度は消えた。

 

なぜなら、モンゴル族は勇猛な部族であったが

長城が出来て中原に略奪に行くことが不可能になると

その矛先は「同族」に向かったからだ。

彼等には「同じモンゴル人」という自覚はなく

部族が違えば敵同士であった。

場合によっては中国人と組んで、「同族」と戦う場合すらあった。

「敵の敵は味方」だからだ。

後にチンギス・ハーンとなるテムジンですら

若い頃は「同じモンゴル人」の奴隷にされていたのだ。

こんな状態では中国人に対抗するなど夢のまた夢である。

しかし、テムジンがあらゆる手段を使って「身内の敵」を服属させ

「モンゴルは一つ」になった時、情勢は大きく変わった。

チンギス・ハーンとなった彼の指導の下に

モンゴル人は初めて長城を越え中原に進出し、それを領土としたのである。

このテムジン以前の状態が、当時のアイヌだと思えば話は早い。

我々はつい「同じ民族なら団結して当然だ」と考えるが

団結は自然現象として起こるのではない。

それが成立するには、それなりの条件が必要なのだ。

 

 

むしろ「民族は団結すべきだ」という近代になって確立した

イデオロギーを前提にして歴史を見ることは

その公正で客観的な分析を妨げることにもなりかねないのだ。

シャクシャインは同じアイヌのオニビシという首長と対立し

結果的にはこれを滅ぼした。

オニビシは一般的には親・松前藩だったと言われている。

 

とにかく、シャクシャインはオニビシとの抗争

おそらくは勢力争いに勝った。

つまりシャクシャインの手で「統一」が進んだのだ。

「民族の団結」が進むための必要条件がこれで整った。

まずは、民族内を一つにまとめる強力なリーダーが必要である。

しかし、それだけではダメだ。

いくらそのリーダーが

「和人を、松前藩の奴等を追い払おう」と叫んでも

その言葉にアイヌの人々が共感しなければ「戦い」など起こせない。

「敵を殺す」のだから、そこには激しい怒りがなくてはならない。

そして、当然のことながら、その怒りは存在した。

 

 

松前藩は、家臣たちの給与額に合わせて

定められた場所でアイヌと交易する権利を与えた。

これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)という。

つまり、松前藩士は通常年一回

自分でチャーターした船に商品を載せて商場まで運び

そこでアイヌと交易して品物を得る

そしてそれを運んで本土の商人に売却して

その収入で暮らしていたのである。

だが、そのうちに武士たちは

その商売の権利を本土からやってきた商人に

丸ごと委託するようになった。

 

慣れない商売を自分の手でするより

「プロ」である商人にやらせた方が

利益が上がる(実際にそうなった)と思ったのだろう。

そして、これは誰も指摘していないようだが

そうなった理由の一つに江戸時代が進むにつれて

武士の間では朱子学が奨励され、その結果

商売は卑しいこととされたことが

結構大きいのではないかと私は思っている。

だがこのことは結果的にアイヌにとって大きな不幸となった。

純朴で、金勘定には疎いアイヌの交易相手が

商売下手な武士から海千山千(ずる賢い人)の商人に代わったからだ。

起源はいつかわからないが、少なくとも商人が表舞台に登場してからは

確実に存在していた、とんでもない差別、いや詐欺がある。

 

「アイヌ勘定」という。

たとえば、10数えるのに「1」の前に

「始まり」という言葉を入れます。

そして順に数えていって「10」までいったら

最後に「終わり」と言うのです。

これで物々交換すると「10」のはずが

実際には「12」になっています。

ひどい場合には「5」の後に

「真ん中」という言葉を入れるというのです。

これで普通に2割、ひどいと3割は

計算をごまかされることになります。

文字を持たず、ろくに計算ができないアイヌ相手には

これが通じたのだという話が現代まで残っているのです。

これが「アイヌ勘定」です。でも、この言葉は変です。

大分たってからのこと

私はアイヌの人たちと一緒に葉書の宛名書きをしていました。

書き終えて集計すると、数が合いません。

すると、一人のアイヌ女性が「あ、シャモ勘定だ」と叫び

その場がどっと笑いに包まれました。

シャモ、つまり和人はその場に私一人でしたが

妙に合点がゆきました。

和人がアイヌに対してごまかしを行なった計算法なのです。

まさに「シャモ勘定」こそが正しい表現ではないでしょうか。

「アイヌ差別問題読本 シサムになるために 小笠原信之著」

 

「シャモ」というのは、アイヌ語で

和人に対する蔑称というべきものだから

通常は使うべきではないのだが

まあこれは「シャモ勘定」の方が適確な言葉だと私も思う。

このような手段を、まさに駆使して、本土商人はアイヌから収奪した。

そして、松前藩はこうした無法をたしなめるどころか

黙認していたようだ。

 

本土の商人が直接交易にあたるようになってから

アイヌが一番欲していたが、松前では産出しない米が

交易の主体となった。

 

 

こうした中、オニビシを殺されたハエ、サルを拠点とするアイヌは

その姉婿であるウタフが松前城下を訪れ

松前藩に武器の援助を申し入れた。

「敵の敵は味方」というわけだ。

ところが、これを松前藩は拒否した。

一応はアイヌ同士の内紛には介入しない、というのが拒否の理由だったが

それは表向きで、うっかり鉄砲など優秀な武器を供与してしまったら

それが両刃の剣(もろはのつるぎ)となって

自分たちに向かってくるのを恐れたのだろう。

ところが、このウタフが「疫病」にかかり

帰る途中で急死するという事件が起こった。

前出の「津軽一統志」によれば、それは天然痘だったという。

 

これをシャクシャインは政治工作に利用した。

「ウタフは松前藩に毒殺された。今こそ立つべき時が来た」

と各地のアイヌに檄(げき)を飛ばしたのだ。

これで、アイヌ内部の対立は一旦解消された。

「シャクシャイン憎し」で対立していたハエのアイヌたちも蜂起した。

もともと、交易における交換比率の低さや不正がひどく

アイヌのかなりの人たちが和人に対して大きな不満を持っていたが

「シャクシャインVSオニビシ」の内部対立で

その不満が内側へ向かう形となっていたのだ。

それが「オニビシ陣営のウタフもシャモ(和人)に毒殺された」

ということで、アイヌは「敵も味方も」一致団結して

松前藩に立ち向かうことになった。

これがシャクシャインの戦いが

アイヌ史上最大の蜂起となった要因である。

 

 

この頃、さらに大きな問題があった。

それは現代風に言うならば「ゴールドラッシュ」である。

蝦夷地(アイヌの支配領域)で大量の砂金が発見されたのだ。

欲に目がくらんだ連中が続々と蝦夷地に入った。

中には「越後の庄太夫(しょうだゆう)」のように

シャクシャインの女婿となってアイヌのために戦い

敗戦後は処刑された者もいる。

しかし、それはほんの少数の人間で、多くの和人は

蝦夷地の川や海で勝手に魚を獲ったり、猟場を荒らしたりした。

かつて、蝦夷地の川はサケであふれていたという。

米などの作物が穫れない代わりに

アイヌはサケなどを保存食として

長い冬を乗り切っていた。

それが和人の乱獲にあい、食糧が足らなくなった。

逆に和人は自分たちでサケを獲れば

アイヌとの交易に頼らなくてもすむ。

こうした背景があったから、シャクシャインの

「松前藩はアイヌを次々と毒殺するつもりだぞ」

という「流言」を人々は信じ蜂起したのである。

なにしろ「生存権」にかかわる問題だ。

アイヌの勢いは強かった。

 

ちなみに「津軽一統志」によれば

この頃の和人の人口は1万4千から5千人

アイヌの人口は約2万人だったという。

そして、この戦いには2千人余りが参加したと見られるという。

つまりアイヌ全人口の一割が戦ったということだ。

一割というと少なく感じるかもしれないが、とんでもない。

戦前の日本が「民族総力戦」と称した時ですら

陸海軍合わせても全人口の一割には達していないはずだ。

これはものすごい数なのである。

アイヌの男子は基本的に狩人であり

弓矢を日常使用しており戦士に転化しやすい

ということを考慮に入れても

まさに民族総力戦と言える戦いだったのである。

 

それを可能にしたシャクシャインは「64」前後とやや年長だが

威風堂々として軍事も巧みであったと伝えられる。

まさに、現代に建立された

シャクシャイン像をほうふつとさせる英雄だったのだ。

アイヌ勢は蝦夷地内の和人居留地を次々と襲撃し

長年の恨みを晴らしていった。

殺された和人は「津軽一統志」によれば355人である。

1669年(寛文9:かんぶん)6月

「アイヌが各地で蜂起し和人を殺害している」

という急報に接した松前藩は、大いにあわてて

実態をつかもうと蝦夷地へ調査隊を派遣すると共に

幕府にこれを通報した。

また、近隣の津軽藩、盛岡藩、秋田藩などに武器弾薬の援助を申し入れた。

そして、この「乱」の規模が極めて大きいことを知った幕府は

松前氏の一族ながら独立して旗本になっていた松前泰広を総大将として

江戸から派遣し、合わせて最も近隣の津軽藩に応援のため出兵するよう命じた。

つまり、この時点で、この戦争は「アイヌVS松前藩」から

「アイヌVS幕府(日本国)」の戦いとなったのだ。

 

しかし、主体として動いたのは

やはり現地の事情に精通している松前藩士であった。

彼等はアイヌ側の弱点を突く作戦に出た。

それは、「民族総力戦」といっても

やはりシャクシャインとは行動を共にしない

アイヌも少なからずいた、ということだ。

前にも述べたように、アイヌはまだ

「一つの国家」を作る段階には達していなかった。

部族ごとに進む道が違っていたのである。

松前藩や本土商人が収奪を繰り返したといっても

なにしろ蝦夷地は広い

それほどの「被害」にあってないアイヌもいるし

なによりも和人との交易なくしては

アイヌ社会は既に成立しなくなっていた。

 

この頃、この地には「ツクナイ」という言葉があった。

「償い」である。

自分の方に非があると認めた場合

和解する際に差し出す金品のことをいう。

松前藩は幕府の権威を笠に着て

数では劣るが鉄砲を主体とした強力な武力を背景に

「ツクナイ」を差出せば「降伏」を認めるが

そうでなければ討伐(とうばつ)するという姿勢を示した。

戦争よりも平和を好む人々が次々にこれに応じた。

10月になって、戦線を縮小せざるを得なくなって

本拠のシベチャリ・チャシに籠っていたシャクシャインのところへ

松前軍の大将・佐藤権左衛門は使者を出した。

「他のアイヌと同じくツクナイさえ出せば命は助け罪には問わない」

というものだ。

シャクシャインは迷った末にこれに応じた。

だが、権左衛門が為そうとしていたのは

例の松前藩の「お家芸」であった。

 

この申し入れに対して

シャクシャインは当初耳を貸そうとしない。

シャクシャインには持久戦に持ち込んで

雪と兵糧不足で敵が疲れたところで

戦いを一気に決しようという考えがあったのかもしれない。

しかし、子のカンリリカの勧めによって翻意(ほんい)し

部下数十人を率いて松前軍の陣営を訪れる。

記録は「降伏すれば生命を助ける」

と申し入れたと記しているが

それならば降伏勧告であって和議ではない。

クンヌイ川以後、シャクシャイン軍に

決定的な敗戦があったとは書かれていない。

おそらく何らかシャクシャインの

要求をみたす条件で誘ったものと思われる。

 

松前軍第一陣(鉄砲組)の指揮者である佐藤権左衛門が

武装を解かせてシャクシャイン以下16名を

陣内に招き入れたところ、シャクシャインは

宝物としていた大小の刀類、鍬先(くわさき)、鍔(つば)等

を集めて提出したという。(いわゆる「ツクナイ」)

これは和議を受け入れたしるしである。

しかし佐藤権左衛門は、なおもシャクシャインを陣内に引きとめ

10月23日、松前の後軍が到着するのを待って

和議の酒宴(しゅえん)と称して

シャクシャインたちに酒を飲ませ

時をみはからって、にわかに襲いかかったのである。

こうして16人のうち2人は生け捕りにされ

激しく抵抗するシャクシャイン以下

チメンバらの有力な指揮者14名が斬られる。

松前軍は翌24日、指揮者を失ったシベチャリに攻め入り

真歌の丘に建つシャクシャインの砦(とりで)をすべて焼き払った。

「アイヌ民族抵抗史 新谷行著」

 

「和議」だったにせよ「降伏勧告」にせよ

一つ確実なことは松前藩が

シャクシャインを卑劣な手で謀殺(ぼうさつ)したことである。

これについては、どんな立場の学者も異論はない。

仮にシャクシャインが生け捕りにされたとしても

その後は必ず残酷な方法で処刑されただろう。

それが、誰もが認める「松前藩の伝統」なのである。

そして、松前藩はこの「乱」をむしろ利用して

アイヌたちに絶対服従を誓わせた。

「七箇条起請文(しちかじょうきしょうもん)」

と呼ばれるものである。

 

一、松前の殿様よりどんなことを命じられても

  われわれアイヌは子々孫々に至るまで従うと共に

  絶対に反抗しないことを誓います。

 

一、もし、殿様に謀反を企み、また不満を抱く同胞がいたら

  きっと説得し、説得できぬ場合は必ず通報致します。

 

長文にわたるので、とりあえず第一条と第二条を紹介したが

要するに三条以下は

第一条の絶対服従を守らせるための具体的項目と言っていい。

これを「熊野牛王(くまのごおう)」に書かせるという

(紀州熊野大社が発行する起請文の用紙

これに起請を書いて血判(けっぱん)を押し焼却して灰を飲ませた。

これを破ると神罰がくだるという信仰があり

戦国時代広く使われた)

「本土方式」で、アイヌに絶対服従を誓わせたのだ。

 

前から述べているように、「禁令」が出ているということは

逆にそのことが「流行」していたと考えるべきなのである。

本土から一攫千金を求めた人々がアイヌと直接交易を目指して

蝦夷地入りしていたということだろう。

たとえばサケやコンブなどの海産物の他にもクマやラッコの毛皮

そして砂金などを求めてである。

また蝦夷錦(えぞにしき)も彼等の目当てとなった。

これは絹で作られた独特のデザインの織物で

元はといえば清国産(中国産)であった。

清は「北方民族」との交易にこれを物々交換用に特別に製作し

ラッコの毛皮などとの交換に用いた。

この蝦夷錦は「北法民族」との交易でしか手に入らない。

しかも、まさに異国情緒ただようユニークなデザインのため

江戸や京大阪などで大いにもてはやされた。

既に中国服として仕立てられているのだが

これをバラして着物に仕立て直したようだ。

珍奇なものなら千金を出しても惜しくないという人々が

町人の世界にはいた。

 

だからこそ、人々は「アイヌとの交易は松前藩に限定する」という

徳川家康の決めたルールを無視してまで、蝦夷地を目指したのである。

蝦夷地の豊富な物産の象徴の一つが、コンブであろう。

蝦夷地と歴史的に見て立場がよく似ている琉球王国(沖縄県)では

このコンブを使った料理が今も名物であり

また本土において清と唯一の貿易の窓口であった長崎では

極上のコンブが重要な輸出品であった。

しかし、これはよく考えてみるとおかしな話だ。

コンブは寒い海で取れる。しかし、九州や琉球の海は暖かい。

つまりそれは、本土商人が北前船(きたまえぶね)などで

蝦夷地特産のコンブを常に運ぶルートが出来ていた

ということなのである。

 

 

ここで注目すべきは、松前藩の「アイヌ支配」が

シャクシャインに対する「勝利」の後も

個人に対する支配までは及んでいないということだ。

通常、「植民地支配」をする側は、「支配される側」から

収奪するために、人別帳(戸籍)などを作って

人口を確定し厳重な管理をするものだ。

たとえば、子供の数なども把握する。というのは

今は子どもでも数年すれば労働力(あるいは兵士)になるわけで

何年か先の労働人口の予測も出来るからだ。

これは一体何故だろうか?

つまり、これは「人別帳が作られる理由」からわかるように

松前藩はアイヌに対し、労働力としては期待していなかったということだ。

また江戸時代という平和な時代だったこともあって

徴兵の対象つまり兵士の供給源にもしなかった。

アイヌがそれぞれの部族全体として

交易の「義務」をきちんと果たすことのみが重要であり

それさえ果たしていれば、そのアイヌの民族としての

「自治」には干渉しないということだ。

 

だから、皮肉なことだが、アイヌの文化自体は「保存」されていた。

皮肉というのは、松前藩士をはじめとする和人が「アイヌは野蛮人」

と考えていたことが、その文化に干渉しなかった理由だからだ。

もちろん、この「野蛮」というのは、かつて中国人が日本人を

「東夷:とうい(東に住む野蛮人)」と呼んだのと同じことで

一方的で主観的な見方であろう。

ところが、ずっと後の明治時代になると、日本(大日本帝国)は

アイヌ文化を劣ったものとみなすだけでなく

それを排除して日本人化(同化)

させることが正しいと考えるようになっている。

 

いわば180度転換したのである。

では、その理由は何か?

それは、実は三大蜂起の最後の一つである

「クナシリ・メナシの戦い」に大きくかかわっている。

 

 

和人がアイヌに労働力を期待するようになったからである。

その背景に、この時代から本土で農業の生産力の向上のために

肥料が大量に使用されるようになったことがあった。

当然、肥料は安くて豊富に供給されるものでなくてはならない。

そこで注目されたのが蝦夷地産のニシンを使った肥料であった。

 

 

「つらい仕事」である「油搾り」を強要され

しかも「暴力」によってアイヌを「使う」状態

それは実にひどいものであった。

 

首長以下の「ウタレ」(部下)から

「メノコ」(女性)に至るまで〆粕生産に動員され

しかも彼等は冬に至るまで酷使されただけでなく

生産した「粕〆割合の手当」が無いばかりか

「自分働(じぶんはたらき)」が出来なくなり

そのため当該地域のアイヌ民族の生活が困窮し

冬には餓死する者さえ生じるに至っていたこと。

出稼ぎ和人達が彼等アイヌに対し

働かなければ「毒害」(毒殺)し

あるいは当該地域を「和人」の居住地にするなどと脅しをかけて

〆粕生産に従事させるだけでなく

事実和人出稼ぎ者の暴力によって

死亡するアイヌも生じるに至ったこと等の諸点である。

 

該当地域における出稼ぎ和人達によるアイヌの女性に対する

「密夫」等の性的暴力行為が恒常的に行われ

これに対して被害者のアイヌが「ツクナイ」という行為を

彼等加害者である和人に要求すると

彼等は、逆に抗議したアイヌに言い掛かりをつけ

暴力を振るう等の理不尽な行為を行って

それに応じないばかりか、抗議したアイヌから逆に

「ツクナイ」を取る等の蛮行(ばんこう)が

横行する状況になっていたことである。

(アイヌ民族の歴史 榎森進著)

 

 

こんなとんでもないことがまかり通っていたのである。

「幕府調査団」はこれを把握し報告していた。

老中田村意次があと少し権力の座にあれば

少しは改善されていただろう。

しかし意次は失脚し、後任の松平定信はこの現状を無視した。

そして、シャクシャインの蜂起の時と同じく

和人は逆らうアイヌを次々と毒殺するつもりだという噂が広がった。

こうなれば、決起するしかない。

クナシリ・メナシの蜂起はこうして起こった。

 

クナシリとは国後島一帯のことだが

メナシとは現在の北海道目梨郡よりもはるかに広く

根室市や羅臼(らうす)町(知床半島)も含む。

要するに北海道本土の国後島の対岸にあたる一帯である。

メナシとはアイヌ語で「東方の」という意味である。

アイヌの中でも「西」の松前藩に近いところに住む部族は

早くからその支配に服したが

「メナシ」の部族は前にも述べたように

ロシアとの交易ルートがあったために独立性が強かった。

ところが、様残な事情でロシア側との交易を断念せざるを得なくなったため

松前藩の「代理人」飛騨屋久兵衛がこの地に進出しアイヌを搾取した。

 

1789年(寛政元)

クナシリの惣長人(そうおとな)サンキチが病気になった。

惣長人というのは部族の最上級のリーダーのことだが

ちょうどその頃メナシの飛騨屋の支配人

勘兵衛が持ってきた酒を飲んだろころ、サンキチは急死してしまった。

一方、別のリーダーのマメキリの妻が

飛騨屋の配下に飯をもらって食べたところ、これも急死した。

この2件の死亡はおそらく事故であったと思われるが

日頃から飛騨屋の連中に「逆らったら毒殺するぞ」

と脅されていたアイヌには、それが毒殺としか見えなかった。

これが「クナシリ・メナシの戦い」の発端である。

 

ここにおいてクナシリのアイヌがまず立ち上がった。

散々、非道を繰り返していた飛騨屋の支配人

通辞(アイヌ語と日本語の通訳)番人を次々と殺害し

また、これらの不正を見逃していたと見られる

松前藩の役人も殺害した。

これに呼応したかのように、対岸のメナシでも蜂起したアイヌが

沖合に停泊していた飛騨屋の持船の大通丸を襲い

船にいた和人を殺害した。

アイヌ側は和人を全員殺したつもりだったが

槍で突かれて死んだふりをしていた

庄蔵という男が辛うじて逃げ帰った。

こうしてクナシリ・メナシの両地区で

合計130人のアイヌが蜂起し、71人の和人を殺害した。

このうち飛騨屋の使用人は70人で

残り1名は松前藩士の竹田勘平であった。

勘平は藩士といっても現地に目付(監視役)

として派遣されていた足軽(あしがる)であった。

足軽は武士としては最も身分が低い。

要するに松前藩はこの地の経営を飛騨屋に「丸投げ」し

高級武士は賄賂を取るだけで現地には赴任していなかったのだろう。

 

 

「クナシリ・メナシの戦い」では、松前藩は

多数の兵士を動員しつつも、実際にアイヌと交戦することはなかった。

では「お家芸」の「騙し討ち」をしたのかといえば、それもなかった。

 

 

松前藩の新井田は一応取り調べを行なった。

しかし、その「判決」は

「飛騨屋の非道な振る舞いは認めるが

それを松前藩庁に訴えもせず、殺害に及んだのは不法である」

というものだった。

言うまでもなく、松前藩には飛騨屋に

不法行為をさせないように監督する責任があったはずだ。

しかも、軽輩(けいはい)とはいえ藩士の一人が

「目付」として現地に派遣されていたのである。

にもかかわらず、こうした事件が起こったということは

明らかに松前藩の監督不行届きである。

 

既に述べたように、幕府ですら飛騨屋の悪事は把握していた。

松前藩が知らなかったはずはない。

だから、史料的な証拠はないにせよ、松前藩は賄賂をむさぼり

飛騨屋の悪事を見逃していたのだろう。

しかし、新井田の「判決」はそのことにまったく触れていない。

こうして、殺害に関与した37人すべてが処刑されることになった。

 

ノッカマップの地に急造された牢舎に入れられたアイヌ37人は

7月21日に一人ずつ牢から引き出され

罪状の申し渡し書に確認の爪印を押させられ

次々に首をはねられていった。

最初に首をはねられたのは、この中で一番地位の高いマメキリであった。

「妻を毒殺された」と確信していたマメキリは

長人の身でありながら、蜂起の先頭に立っていたのだ。

一人ずつの処刑が進み、6人目になったところ、異変が起こった。

牢内の残りのアイヌが一斉に

「ペウタンケ」という独特の叫びを上げたのである。

「ペウタンケ」とは何か?

これはアイヌの宗教観、死生観を知るのに極めて重要な要素なので

少し詳しく述べよう。

文献によっては「ペウタンケ」を「呪いの声」としているものもあるが

これは正確ではない。

アイヌ民族として初めて国会議員(参院議員)になった

萱野茂:かやのしげる(1926~2006)は次のように述べている。

 

ペウタンケとはアイヌ同士で危急を知らせ合う叫び声で

「ウォーイ、ウォーイ」と独特の細い声を出す

(おれのニ風谷:にぶたに)

 

また、近所で火事があった時、それを知らせる同胞のペウタンケに対して

祖母がどのように反応したかも詳しく述べている。

 

 

このようにペウタンケとは、アイヌが同胞に助けを求める

「SOS」のようなものだと考えるのが妥当だろう。

もっとも、呪術的な要素がまったくないわけではなく

たとえば不幸な死に方をした人間の葬儀の際には

その親族たちが一斉に刀を抜いて

ペウタンケの声を上げたという実例が報告されている。

これは「SOS」というよりは、「悪魔祓い」の感覚であろうが

どちらかといえば特殊な例である。

 

要するに、この時牢内にいたアイヌは

仲間が一人一人斬首されるという極限状況の中でパニック状態となり

和人ならば「命だけは助けてくれ」と泣き叫ぶところを

その代わりにペウタンケを行なったということである。

だが、鎮圧部隊の総大将である新井田にはこれがわからなかった。

新井田はその書き残した史料等を見ても

アイヌ語や文化への言及が少なく

アイヌのことをあまりよく知らなかったのではないか、と推測されている。

そうした人間が初めて聞くペウタンケは、恐怖以外の何物でもなかった。

彼にとっては「野獣の叫び」に聞こえたかもしれない。

そこで新井田は万一に備えて待機させていた鉄砲隊に

一斉射撃を命じ、一瞬にして牢内のアイヌを皆殺しにした。

そして全員の首をはねて塩漬けにした。

これは松前藩に持ち帰って、首実検するためだ。

そして、胴体は近くにまとめて埋められた。

こうして「クナシリ・メナシの戦い」は終わった。

 

この銅塚は現在所在がわからなくなっているが

ノッカマップのどこかにあることは間違いない。

そこで昔アイヌが精強だった頃築かれたノッカマップ・チャシ跡

(根室半島には多くのチャシ跡があり、日本100名城にも選ばれている)

がよく見える高台で、毎年アイヌによりイチャルパ(慰霊祭)が行われており

祭壇に37人の犠牲者を象徴するイナウが37本立てられることになっている。

イナウは神道の「御幣(ごへい)」によく似たもので神聖な祭具である。

 

和人の犠牲者71人に対しては、その慰霊碑ともいうべき

「横死七十一人之墓」という石碑がある。

これは1812年(文化9:ぶんか)に造られたものだが

長い間砂に埋もれていて明治になって発見された。

今は納沙布(のさっぷ)岬の先端に移されている。

これは和人側に立ったものだから

アイヌのことを「賊」と表現しているのが

現代のイチャルパにおいては

この碑に対しても祈りを捧げている。

ぺウタンケも行なわれるが、それも決して「呪い」ではなく

二度とこういうことを繰り返さないという願いを込めてのことだという。

 

 

同化政策とは具体的にどういうものなのか?

これが多くの日本人の持つべき常識の中で

すっぽりと抜け落ちている部分なのだ。

まず、重大なことを指摘しよう。

それは、同化政策と差別政策

つまり「同化」と「差別」は

まったく別のものであることだ。

こう書くと耳を疑う人が多いかもしれない。

 

昔、私がある雑誌に「日韓併合は同化政策が中心で差別政策ではない」

と書いたところ、読者から猛烈な抗議が来た。

その抗議の内容は一言で言えば

「井沢は日韓併合を擁護している、それが許せない」

ということだ。

しかし、実はこの読者は完全に誤解しているのだ。

「擁護」という言葉を使う以上

この人は「差別は悪だが、同化はむしろ善である

あるいは差別ほどの大きな悪ではない」という考え方があると思われる。

だから大きな悪である差別を善で、あるいは小さな悪だと言いくるめた

「井沢はケシカラン」ということになるわけだ。

しかし、実は「同化」の方が「差別」よりも「巨悪」かもしれないのである。

ここのところが、多くの日本人が完全に思い違いをしているところだ。

同化政策というものは、要するに「異民族」を「日本人」にするということだ。

つまり、日本語とは違う名前を持つ人々に「日本名」を押しつけ

子供の頃から日本語教育をするわけだ。

すると何が起こるか?

「差別がなくなる」のである。

これは冗談ではなく本当の話だ。

 

差別をあくまで徹底しようと思えば、その差別の根拠となる

「肌の色の違い」や「文化の違い」を絶対に残しておかねばならない。

たとえば、かつて白人の黒人に対する人種差別を

国の政策として行なっていた南アフリカ共和国では

白人と黒人の居住地を分離し「背徳法」という

とんでもない法律で白人と黒人の通婚を禁止した。

なぜ、禁止したのか?

もし、白人と黒人の結婚によって子が生まれれば

外見上は「白人のような黒人」が生まれるかもしれない。

すると差別が完遂できなくなる。だから禁止したのだ。

日本人と朝鮮民族は外見上は見分けがつかない。

だから、もし差別を徹底しようと思うなら

朝鮮民族には日本語を教えず、日本名を名乗らせてはならない。

そんなことをしたら見分けがつかなくなり

差別できなくなるからだ。

逆に、差別を完全になくそうと思うならば

その一つの方法が、この逆をやることだ。

つまり、日本語と日本名を押しつければいい。

同化政策である。

そうすれば、完全に見分けがつかなくなるから差別の仕様がなくなる。

 

ただし、この方法には大きな問題がある。

前記の報告書がまさに指摘しているように

「民族独自の文化が決定的な打撃を受ける」ということだ。

つまり同化政策というのは「相手の民族文化の破壊」という点では

実は単純な「差別政策」よりもはるかに罪が重いのである。

近代の日本人の犯した最大の過ちというのが、実はこれであったと私は考えている。

つまり「皆が日本人になってしまえばいい。

そうすれば差別も不平等もなくなる」ということだ。

これと対照的な態度を取ったのが、イギリス人を代表とする白人勢力であった。

19から20世紀にかけての白人はアジア人を人間扱いしていなかった。

簡単に言えば「サル」だと考えていたのである。

日本人は知らない人が多いのだが、有名な「猿の惑星」という

映画に登場する「猿」は、原作者のフランス人、ピエール・ブール

(「戦場にかける橋」も彼の作品)の目から見た日本人なのである。

 

同じように、インドを植民地化したイギリス人もインド人を

「完全な人間」とは考えていなかった。

だからこそ彼等イギリス人は

インド人に「民族の言葉を捨てて英語を話せ」とか

「インド名はやめて英国人の名前にしろ」とは言わなかった。

「そんなことをすればサルと区別がつかなくなってしまう」からである。

もちろん「出来のいいサル」が英語を自分から学んで

それが役に立ちそうだったら、そこで初めて教育をする。

しかし決して同等の権利は与えない。

なぜならそんなことをすれば

「サルが“人間”であるイギリス人の上司」になってしまう。

つまり、まさに「猿の惑星」状態になってしまうからだ。

 

日本人はこういう白人の態度をよく知っていた。

そもそも「アヘン戦争」なども

そういうアジア人蔑視の感覚がなければ起こり得ない戦争だ。

そこで、日本人は明治維新を行ない

アジアの中でいち早く近代化すると

こうした道とは別の道を行こうと決意した。

平たく言えば、次のように考えたのだ。

「われわれは白人のようにアジア人を

人間以下などとは決して考えない。われわれは同胞だ。

だから、まず手始めに朝鮮民族と日本人の区別をなくしてしまおう」

 

たとえば、帝国陸軍には朝鮮出身の仕官がいた。

中には大佐や中将にまで昇進した人もいた。

イギリスではインド人が将官になり

イギリス人を部下にするなど絶対に有り得ないことだった。

それゆえに、ここが肝心だが

日本人は自分のやり方が絶対に正しい、と考えた。

その最大の根拠が「われわれは善意でやっている」ということだ。

白人はアジア人を差別しているのだから

その心情は「悪」であることは間違いない。

しかし、われわれ日本人は善意で物事を行なっているのだから

その政策もまったく正しい、と考えたのである。

 

この、考え方の「落とし穴」がわかって頂けるだろうか?

実は、前節で最大の「逆説」と言ったのはここのところなのである。

心情が「善意」でありさえすれば、それによって行われたことも必ず

「正しい」という「善意絶対主義」は実は大きな誤りなのである。

ところが日本にはこの

「善意絶対主義」を頭から信じ込んでいる人が余りにも多い。

だから、異民族との交流では、常にこの種の間違いを繰り返す。

 

ここでアイヌの話に戻そう。

松平定信は、ちょうど白人がアジア人に対するように

「アイヌは動物」だと考えていた。

とんでもない考え方だ。

「善」か「悪」かに分ければ明らかに「悪」であろう。

ところが皮肉なことに、実に皮肉なことに、であるがゆえに

「定信流」のやり方は、民族独自の文化は破壊しないのである。

もちろん、定信は「アイヌ文化」を尊重しているわけではない。

それどころか、その逆で「アイヌに文化などない」と確信していた。

しかし、だからこそ「アイヌを日本人にすることは出来ない」と考えた。

ならば、そういう「生物」の住む場所は

「荒れ地のままで放っておけ」ということになる。

 

つまり結果的にはアイヌの文化

あるいは生活には一切干渉しないということになる。

一方、最上徳内(もがみとくない)に代表される

「親アイヌ派」は、アイヌと交わり友ともなる。

それゆえに「アイヌには文化がある。

だから、日本人になれる素質もある」と考える。

徳内たちの心情を「善」か「悪」かで分類すれば

間違いなく「善」であろう。

少なくとも定信とはまったく正反対だ。

しかし、それゆえに「アイヌも日本人と同じになるべきだ」と考え

同化政策、すなわちアイヌ文化の徹底的な破壊へ向かっていくのである。

 

「地獄への道は善意の石畳で舗装されている」

とは、まさにこのことだろう。

このことわざを最近では

「善意があっても実行が伴わなければ意味がない」

と解釈する人もいるようだが

カール・マルクスが「資本論」で使用しているように

「良かれと思って(善意で)やったことが悪の結果を生む」

という意味が本来のものだろう。

 

では、どうすればよかったのか?

たとえば「日韓併合」をあくまで「対等の合併」とするならば

日本語と朝鮮語(韓国語)を両方とも公用語にしなければならなかった。

現代の国家でもベルギーやカナダで行われていることだ。

ただし、和人とアイヌでは人口の差があり過ぎるので

この方法は取れなかっただろう。

しかし、それでも、国語や歴史や音楽の授業に

アイヌ文化を取り入れることは可能だったはずだ。

 

では、なぜそういう立場が取れなかったのか。

もうお気付きかもしれないが

江戸時代から明治にかけての日本人は

たとえ最上徳内のような

「異文化理解派」であっても限界があったということだ。

それは「日本文化が最高のもの」という心情があるということだ。

だからこそ「(文化の)共有」ではなく「同化」が正しい

ということになってしまう。

 

ちなみに、アイヌ問題でもう一つ指摘しておかねばならないのは

やはりロシア帝国の影であろう。

日本の「開国史」は1853年(嘉永6:かえい)の

アメリカのペリー来航に始まると思っている人が多いが

実はロシアの公式使節アダム・ラクスマンが

1792年(寛政4)に根室に来ているのである。

蝦夷地(アイヌの土地)である根室にラクスマンが来たことが事態を複雑にした。

定信政権はとりあえずラクスマンを門前払いにして

問題を「先送り」にしたが「ロシアに北辺の地を奪われてなるものか」

と考えた日本人は、それを真剣に考えた人間ほど

アイヌの「日本人同化政策」に手を貸すことになる。

 

なぜなら「アイヌが(日本人)になれば

その住んでいる土地も自動的に日本国になる」からだ。

こうして、和人はロシアというライバルに負けまいと

積極的に同化政策を進めることになっていくのである。