ブータン「世界一幸せな国」の幸福度ランキング急落

背景に何が?の記事より

 

南アジアにあるブータンは

発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり

“世界一幸せな国”として広く知られるようになった。

国民が皆一様に

「雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ」

と答える姿が報じられたのを覚えている人もいるだろう。
しかし、ブータンは2019年度版で156か国中95位にとどまって以来

このランキングには登場していない。
「かつてブータンの幸福度が高かったのは

情報鎖国によって他国の情報が入ってこなかったからでしょう。

情報が流入し、他国と比較できるようになったことで

隣の芝生が青く見えるようになり、順位が大きく下がったのです」

 

★★★★★

 

私が日本は平和だと実感したのは

平成の最初の頃まで

家に鍵を夜中でもかけた事がなかった事

それだけで日本人って昔から

善良な民族だったんだと思う

でも、子供の頃

勝手に家の中まで上がってくる近所の人は嫌だった

 

 

↑より抜粋

 

江戸社会というのは、一つの完結した文明社会だった。

江戸が「暗闇」だったというのは

それを潰した明治維新政府のデッチ上げである。

確かに、江戸時代には様々な問題点はあったことは事実だし

おそらく現代人が最も抵抗を覚えるのが

科学技術の進歩を原則的にストップしたことだろう。

「それじゃあ、医学も進歩せず、治る病気も治らないじゃないか」

というのは、確かに一理ある考え方だが

では科学技術が進歩すれば、すべてバラ色で弊害などないのか?

そうではないことは、今や常識だろう。

 

人間という生物は、自然の生態系を破壊して増え続けている。

そして、化石燃料を燃やし、限りある地球資源を浪費し続けている。

人間以外の動物なら、増えすぎても自然に淘汰される。

増え過ぎれば自然が供給する食糧が追いつかなくなり

鹿であれ狼であれマグロであれ

適度な数に減り地球全体のバランスは保たれる。

しかし、人間は道具を使って自然を自分の都合のいいように改造できる。

いや、改造といえば聞こえはいいが、実質的には破壊だ。

 

前にも述べたように、農業とは「自然との共存」などではない。

それは人間が後付けでつけた傲慢な理屈であって

たとえば田を作るということは

そこに生えていた自然の草花を一切「抹殺」し

人間にとって都合のいい稲だけを育てる、ということだ。

そして、その過程で、動物や昆虫がまさに「自然」に

稲を食べにくれば、これを「害獣」「害虫」などと呼び抹殺する。

だからこそ人間は、自然の淘汰システムに対抗して

人口を増やすことが出来るのだ。

だが、地球の容量には限りがある。

このまま無制限に人類が増え続けたらどうなるか?

 

もっとも、それは新しい科学技術で解決されるという考え方もある。

いや、長い目で見れば、考え方というより事実と言った方がいいかもしれない。

人類はそうやって進歩してきたのだから。

しかし、ここでお気付きのように、だからこういう「文明」は

科学技術の進歩を止めることは出来ないのである。

それとまったく対照的な文明が「江戸文明」であった。

なにしろ、馬車すら使わなかったのだから徹底している。

「便利な道具」を拒否するという点で、である。

では、具体的になぜ馬車がいけないのか?

それを江戸人が「判定」したことはあるのか?

実例がある。

あの老中松平定信がそれについて断を下しているのである。

 

大坂の儒者中井竹山という人が寛政の改革の時に

老中首座だった松平定信に馬車の採用を提言している。

だが、松平定信は、この案を採用しなかった。

旅客1人に駕籠舁(かごかき)2人

普通は、旅客1人に馬方1人、馬1頭の時代に

馬車のような飛躍的に能率の良い運送手段を利用すれば

まず、大勢の人足、馬方、駕籠舁などが失業する。

人間が歩くようにできている道路を馬車向けに作り直すためにも

莫大な資金が必要だったろう。

私は、松平定信のやった寛政の改革が好きなわけではない。

天明期以来せっかく面白くなっていた江戸文化に

冷水をかけたのだから大嫌いである。

だが、馬車に対する態度は正しかったと思う。

便利にするために道路を舗装して馬車を許可すれば

もう歯止めがきかなくなる。

そのうち、中井竹山なみに進歩的な老中が現れれば

もっと速く走る軽快な馬車や

馬2頭でひかせるもっと大型の馬車も許可するかもしれない。

(大江戸開府四百年事情 石川英輔著)

 

私も松平定信を政治家としては評価しない方で

その点ではまったく同感なのだが

それでも定信には一定の立場

すなわちポリシーがあることは認めざるを得ない。

江戸時代というのは、単純に「後ろ向き」なのではなく

こうした一種の哲学の下に

すべての政策が行われていたのだ。

その中身を現代風に要約すれば

「完全リサイクルのエコ社会」ということになるだろう。

 

われわれ現代人は、夏は「暑い、暑い」と言ってクーラーをつけ

冬は「寒い」と言って、ヒーターやストーブをつける。

一般的に言えばこれは一部「原子力」があるかもしれないが

その大部分は化石燃料(石油・石炭等)を燃やして作ったエネルギーだ。

それを一人一人が個別に消費するから、総消費量は極めて膨大なものになる。

しかし、江戸人は「夏は暑く、冬は寒い」という

当たり前のことをこなすために、生活習慣に対処法を取り入れていた。

今でも行なわれているのが衣替えだ。

気候に合わせて着物の長さや厚みを調整するのだが

暑いからといって閉め切った部屋を冷やそうなどとは思わない。

風通しのいい部屋にして、夏の真っ盛りは決して働かない。

江戸時代というと、日曜日がなく

今よりずっと休日は少なかったが

それでも真夏には多くの人が仕事を休んだ。

無理しても意味がないからだ。

 

風の通り道には風鈴を下げ、うちわという「人力」冷房機で涼を取る。

そして、井戸水で充分に冷やしたスイカやソーメンを食べる。

逆に、あつあつのウナギを食べることもあった。

とにかく夏は暑いのだから、自然に逆らっても仕方がない。

むしろ夏にしか楽しめないことを楽しめばいい。

浴衣がけで花火見物に行くのもいいし

縁台で将棋を指すのもいい。

「夕涼み、よくぞ男に生まれけり」である。

冬は冬で、自然から取った木炭を燃やして

コタツや火鉢で暖まればいい。

寒い時の方がうまい食べ物もいくらでもある。

自然に逆らわず、むしろ自然の「理」に乗る楽しみを

江戸人は実践していたのである。

 

江戸時代は、可能な限り自然に逆らわないで生きる

おそらく人類史上でも珍しい究極の省エネ・エコ社会であり

それを支える大きな柱が徹底的なリサイクルであった。

 

江戸の街は、物を徹底的に使い切るリサイクル社会。

その代表的なのが、紙くず屋です。

紙くず屋は集めた紙を、10種類から20種類くらいに分けます。

1ミリか2ミリくらいのパルプの繊維でできている現代の紙に比べて

伝統的な和紙は10ミリ以上の長い植物繊維でできています。

添加物がないことも、すき返しを容易にしていました。

リサイクルは最後の最後まで行なわれ

最後は表紙の裏打ちの厚紙、今でいうハードカバーの芯になります。

一枚一枚「のし板」という大きなまな板のようなところで押し広げるので

証文や大事そうな手紙が出てくることもあります。

その場合は保管しておいて、持ち主が現れた時に返すのです。

紙くず屋によって保管の期限は違いますが

3年間も保管しておいてくれたというエピソードがあります。

(お江戸でござる 杉浦日向子監修)

 

この本で紹介されているリサイクルをまとめたのが下の表である。

 

 

これはほんの一例である。

この他に、おおよそのものに修繕屋がいて

何でも直してくれた。

「コタツ」や「ゲタ」でも「ナベ」でも「キセル」でも。

ちなみに穴の空いたナベなどを熱であたためて補修するのは

鋳掛屋(いかけや)といい、両端が金属であるキセルの中間の

竹の部分を交換してくれるのは羅宇屋(らうや)といった。

高級なキセルは全部が金属でできているのだが

安いキセルは竹の部分が弱ってくる。

だから、それを時々交換すれば半永久的に使えるというわけだ。

ちなみに今電車の不正乗車の「キセル」というのがあるが

それはこういうキセルが「入口」と「出口」は

「金属」で出来ていることから来ている。

つまりそこだけ金を払って、後は払わないということだからだ。

 

衣・食・住という言葉がある。

これで江戸のリサイクル事情を見ていくと

たとえば「衣」は「捨てる」ということが有り得なかった。

新品は着古した後、古着はそでやすそが傷んできたら

その部分は切り離して雑巾などにし

傷のない部分で仕立て直して子供の衣類にするのである。

こうすれば、何度も繰り返して使える。

そして、本当にボロボロになれば雑巾にし

雑巾としても使えなければカマドの焚きつけにする。

灰になれば、その灰は「灰買い」が買ってくれるから、ゴミにはならない。

 

「食」では、野菜などの切れ端を漬物にするのは今でもやっていることだが

米のヌカから化粧品を作ったりもする(いわゆるヌカ袋)

だいたい食物は人間が食べてしまうから

基本的にゴミにはならないが、最終的には排せつ物という形になる。

しかも、これも「おわい買い」が買ってくれて

畑の肥料として使うから一切ゴミにならない。

肥料といえばこういう話がある。

 

現在は日本だけでなく世界で賞味されているマグロのトロは

江戸時代の中頃までは下魚:げざかな(江戸っ子はそう言った)

として誰も食べなかった。

日本人の感覚では脂が強すぎたのだ。

そこで、たまたまマグロが大量に取れてしまうと

それをバラして畑にまいて肥料として使っていたという。

今から考えると夢のような話だが、天保年間になって

あまりにもマグロが大漁なので、醤油につけこんで

「ヅケ」として握り寿司のネタに使われるようになったのだ。

つまり、遠山の金さんはトロの握りを食べたかもしれないが

大岡越前は食べられなかったということなのである。

 

「住」に関しては、すべて木造建設である。

「衣」と同じで何度も再利用できるし

最後は燃料にしてしまえばゴミにもならない。

つまり、江戸はまさに「ゴミゼロの社会」なのだ。

前節でも触れたが、江戸時代の燃料は、化石燃料の石炭・石油ではなく

自然の木を材料とした木炭である。

だから乱伐(らんばつ) を避けて植林さえ計画的に行なっておけば

「堀り尽くす」などということもないし

少々人口が増えても対応が出来る。

環境もそれほど汚さない。

 

ただし、木炭で得られる熱では

鉄をドロドロに溶かすことは出来ないから

鋼鉄は作れず強力な大砲も黒船も作れない。

既に述べたように、だから「先覚者たち」江川太郎左衛門(英龍)や

島津斉彬(なりあきら)や鍋島直正(閑叟:かんそう)らは

まず反射炉(溶鉱炉)を建造した。

しかし、石炭を使って今までにはない高熱で鉄を溶かすレンガの炉や

それで作られた鋼鉄のボイラーで石炭を燃やし

波に逆らって進む黒船(汽船)を見た人々は

必ずしも坂本龍馬のように感動し

「日本もこれでなければいかんぜよ」

と思ったわけではないことは、もうおわかりだろう。

 

 

それに対して、日本は完成された一つの形である

「江戸文明」をなかなか変えようとはしなかった。

いや、変えたくなかったというのが本音だろう。

だからそれを脅かすような情報は極力排除した。

老中松平定信が「日本はこのままでは危ない」

という正しい警告をした林子平(はやししへい)を罰し

「海国兵談」を絶版にしてしまったのも

その背景にはこういう心情もあったのだろう。

日本は「言霊の国」でもある。

嫌な情報、見たくない情報は、消してしまえばいいのだ。

もちろん、そんなことをしたって

ほんの気安めにしかならず実態は変わりはしない。

幕府が滅んだのも、結局はこういう「言霊的対応」しか出来ず

実態的な変革が出来なかったことも大きい。

 

だが、多くの人々が

「列強の侵略の魔の手を払いのけるためには

開国し近代化するしかない」

という方向になかなか進めなかったのも

結局「ユートピアとしての江戸」が完成していたからなのである。

現代人の視点から見れば「近代化」以前の日本は

「遅れた」社会に見えるかもしれない。

しかし、それは「進んだ」「遅れた」を何を基準にして判断するかの問題だ。

開国して西洋化しても、病死が一切なくなるわけではなく

逆に交通事故などは増える。

ノーベル物理学賞で有名なキュリー夫人の夫ピエール・キュリーは

馬車にひかれて、すなわち交通事故で死んだのである。

「便利な道具」を輸入したからといって

人間幸福になるとは限らない。

 

それより心の満足を求めるというのが

江戸社会いや、江戸文明のコンセプトであった。

それに加えて、当時の日本は

「日本こそ神州」「日本こそ最も清らかな地」

という、別次元の「ユートピア思想」も普及していた。

こうした神道の感覚から見れば

「ケガレ」に満ちた異国人に大手を振って国内を歩かせる

つまり開国などとんでもないという発想になる。

武士階級の基本的教養であった朱子学も

「商売を盛んにすることは悪」という教えであったから

この意味でも通商を目的とした開国は「悪の選択」になる。

そうした「しがらみ」が開国していこうという新しい流れを妨害していた。

 

現代人は「外国人はケガレている」などということを

単なる迷信として捉えるが

日本という国の地政学的条件を考えると

これは必ずしも笑い飛ばしていい話ではない。

日本は島国である。離れ小島と言ってもいい。

ということは鎖国をして外国との交わりを断てば

伝染病も入って来ない。

ところが、開国すればどうなるか?

日本という国は内に籠っているのが好きな国だが

それでもインターナショナルな時代というのはある。

たとえば遣隋使を派遣した聖徳太子の時代から奈良時代にかけて

天然痘が大流行したことがある。

 

 

科学的視点で見れば海外と交流を密にしたため

日本に伝染したということだろう。

そして「離島」には当然のように免疫がないから

一度伝染すると大流行する。

戦国時代も、コロンブスがアメリカからヨーロッパへ持ち込んだ

伝染病の梅毒がやって来て、大流行した。

また、幕末にもコレラが大流行し、天然痘も再び流行した。

これを一般の目から見ると

「国を開いて外国人を大勢国内に入れたから

こんな流行病が増えたのだ」ということになる。

 

そして、このこと自体は「ケガレ忌避信仰」

つまり神道とは無関係で、歴とした事実だ。

だから厄介なのだ。こういう世界で

「ケガレは迷信で、そんなものの作用で人間が不幸になることはない」

といくら叫んでも、説得力はまるでない。

 

 

エコ、リサイクルとくれば、次は環境保全という流れになるが

江戸時代はこの点でも世界で群を抜いていた。

「公害のない、クリーンな環境」が当たり前だったのだ。

 

ペリーが黒船でやって来た時、外交官としては

アメリカ初代総領事ハリスが伊豆国下田に居を構えた。

そのハリスが回想録で次のように述べている。

 

彼ら日本人は、皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。

一見したところ、富者も貧者もいない。

これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。

私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが

果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する

所以(ゆえん)であるかどうか疑わしくなる。

 

ここで肝心なのは、ハリス自身が日本を開国させるために

アメリカが派遣してきた当事者であるということだ。

当初ハリスは頑な日本を開国させることが

アメリカの国益にかない、ひいては日本も近代化できるのだから

日本のためにもなると、確信して日本にやって来た。

そして、辣腕(らつわん)をふるって開国をしぶる日本を

強引に開国させた功労者でもある。

その間、日本側の「先送り」「ごまかし」「破約」

といった官僚的対応に散々悩まされた。

 

だからペリーと同じく幕府高官に対する評価は著しく低い。

しかし、軍人であるペリーは政治関係者としか接触する機会はなかったが

外交官であるハリスは「メイド」として

唐人お吉(とうじんおきち)とも付き合い

下田の玉泉寺を領事館として庶民の生活にも触れることが出来た。

特筆すべきは、ハリスは熱心なクリスチャンで

来日以前は「野蛮な(キリスト教を弾圧している)日本に

キリスト教を広めることこそ、日本人の幸福につながる」

と確信していた人間だったということだ。

そのハリスの確信が揺らいでいる。

 

「日本人は正直で勤勉、身分の上下、富裕の差に関わり無く

質素で華美に走らない」とも言っているし

「私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも

優秀であることを繰り返して言う」とも述べている。

「正直」ということは、日本人にとっては

あまりに当たり前すぎるので、かえって分からないかもしれない。

こういうことは先に述べた「道路の舗装率」と同じことで

外国と比較してみて初めて分かるからだ。

 

ところで、アメリカ人でも中国人でもブラジル人でも

現代の日本に来て一様に驚くことが一つある。

それは、人気のない国道に自動販売機が置かれていることだ。

最近でこそ、しばしば監視カメラが置かれるようになったが

それでも地方へ行けば行くほど「平然」と置かれている。

「平然」というのは

外国ではそんな「金」や「商品」の詰まった箱を

監視カメラのないところに置いておいたら

壊されて中味を抜き取られるか

丸ごと持っていかれてしまうか

そのどちらかなのだからだ。

 

こう言うと、謙虚で自虐的な日本人の中には

「それは外国に失礼だ」と思う人もいるようだが

そういう考え方こそまさに日本人的ナイーブさの産物で

このことはまったくの事実なのである。

そして、実は彼ら外国人がもっと驚くものがある。

それは、今でも地方へ行けば珍しくない「無人スタンド」だ。

野菜や果物が丸のまま置いてあって

欲しい人は表示された代価を

下の料金箱に入れていくシステムだ。

これも外国では有り得ない存在だ。

 

つまり、外国人から見れば今の日本人ですら

とび抜けて正直なのである。

レベルが違うということだ。

開国とは、そういうレベルが違う人々

つまり外国人を国内に入れるということだ。

これも念のために言うが、これから言うことは差別とは違う。

しかし、開国(外国人を国内に入れる)とは

日本人にとっては往々にして

「伝統文化の破壊」であったということだ。

 

だから、これも日本人の多くは

鎖国に固執しようとした理由の一つなのである。

ただし、日本人にも問題はある。

「無人スタンド」という「伝統文化」が破壊されるのが嫌なら

その価値観を日本に入って来る外国人に教えるべきなのだ。

ところが日本人はそういう自己主張が苦手だから

「日本に住むなら、無人スタンドを守れ」という主張をするよりは

「外国人よ出ていけ」と言う方が精神的に楽なのである。

これではいけない。

これは一種の極論として言うが、外国出身で日本の文化を愛し

永住したという人々には、こういった「伝統文化を守る」

ことを「帰化の条件」にすればいい。

少なくとも、そういう姿勢を日本側は取るべきなのである。

 

幕末に日本を訪れた外国人が驚愕したのは

日本人の正直さばかりではない。

その清潔さも一様に驚愕している。

江戸という都市(江戸に限らず地方都市も)が

いかに清潔であったか、これを実感するには

ハイヒールという靴がいかにして生まれたか

そして洋傘がいかにして普及したかを知ればいい。

ハイヒールと洋傘がなぜ関係あるのか?

 

かかとの高い靴というなら古代ギリシアにもあったが

ハイヒールは17世紀つまり日本の江戸時代にパリで作られたものだ。

初めは女だけでなく男もはいていた。

それはその時代のパリには、ベルサイユ宮殿にすらトイレはなく

すべて「おまる」で用を足していたからなのだ。

そして「用」が済むと人々はそれを目の前の道路に捨てていた。

つまり、道路は汚物だらけであった。

そういう汚物まみれの道路を少しでも踏まないように歩ける

接地面積の少ない靴、それがハイヒールだったのである。

 

ちなみに洋傘の方は、当初は雨よけではなく

主に女性が二階から道路に捨てられる汚物で

ドレスを汚さないためのものだった。

傘をさして歩けば「爆弾」の被害から身を守れるというわけだ。

そのため、ヨーロッパでは傘とは「女が使うもの」で

大の男が使うには「女々しい」とされていた。

 

ところが、イギリス人の紀行家ジョナス・ハンウェイが

外国では雨の日に傘をさして歩く習慣があることに気がつき

ロンドンで雨の日一人傘をさして歩き回ることを始めた。

初め男どもはハンウェイを嘲笑した。

しかし、やはり便利なので、一人また一人と

ハンウェイの真似をするようになり

とうとうそれが「当たり前」になった。

そして、コウモリ傘がイギリス紳士の必携の品

と言われるようにすらなったのである。

ちなみに、ベルサイユ宮殿に出入りする王族や貴族の女性が

「釣り鐘型スカート」をはいているのも

あのまましゃがんで用を足せるからなのである。

 

 

一方、江戸は下水道こそないものの、水のおいしい上水道

(神田上水など)があり、ゴミは一切出ない。

糞尿すら全部回収して肥料にしてしまうのだから

川が汚れようがないわけだ。

だから、隅田川には清流にしか生息しないシラウオがいたし

川の水をすくって飲むことも出来た。

 

 

また、今でこそ日本は、市民の森の面積が少ないと言われている。

しかし、幕末の日本を訪問した外国人は

日本の都市(特に江戸)ほど森が多く

市民の憩いの場所になっている国はないという評価なのである。

この謎を解く鍵は「鎮守(ちんじゅ)の森」にある。

そう、神社の森である。

江戸には、神田明神・亀戸天神など多数の神社があって

それぞれ自然林を保護していた。

これらは大名屋敷などと違って出入りが自由だったから

まさに江戸の町民の憩いの場所であった。

これは江戸に限らないが

そもそも庶民の大きな楽しみである

春の花見や秋の紅葉狩りも

こうした神社、それに寺院の庭であることが多かった。

 

また、外国人の立ち入りは難しかったが

大名屋敷や江戸城も当たり前のように庭園があった。

ヨーロッパの庭園というと

噴水や石造の建設物を花で囲むというスタンスが多いが

日本庭園はむしろ自然の森をいかに維持

再現するかというところに重点が置かれている。

また、普段は狭い長屋に住んでいる庶民も

朝顔やホオズキを育てるのに熱心だった。

盆栽もある。

そんな高度な「ガーデニング」を一般人がやっていることも

外国人にとっては驚き以外のなにものでもなかったはずだ。

そういう「ユートピア」であればこそ

日本の「鎖国」の扉をこじあけるために

特に選ばれてやって来たハリスすら

「本当にそうすべきなのか」とためらわせたわけである。

 

しかし、それでも「身分制度」があるじゃないか

やはり江戸は「遅れた」社会ではないかと

主張する人もいるかもしれない。

それは文字通り、見解の相違である。

 

 

ここで注意すべきは

身分社会と違って平等社会(市民社会)は

必然的に激烈な競争社会になるということだ。

これは意外に聞こえるかもしれないが

少し考えてみれば分かる。

 

坂本龍馬は

「アメリカでは誰でも選挙で当選すればプレジデント(大統領)になれる」

ことに感動したという。

龍馬だけでなく多くの日本人、たとえば福沢諭吉などもそうだったに違いない。

しかし、そのプレジデントになるためには

まず立候補者となって激しい選挙戦を勝ち抜かねばならない。

日本国将軍ならば、あらかじめ身分によって候補者が限定される。

大体は候補者は一人ですんなり決まるし

複数の候補者がいたとしてもせいぜい2、3人で

大統領選のように不特定多数の人間と

激烈な競争をする必要はまったくない。

 

身分がある社会では激烈な競争というのは

ほとんど有り得ないのだ。

 

 

馬車を使わなかったことも

宿老(しゅくろう)制(十分に経験を積んだ老人)

に戻したことも、江戸時代の前の戦国時代に原因がある。

だからこそ江戸時代は「競争もダメ」という固定社会になった。

忘れてはいけないのは、人々がその時点ではそれを熱望したということだ。

かくして江戸時代は、すべての人が「分を守る」社会となった。

大名ですら大名の分を守り、将軍になろうとは考えない。

そして、これも忘れてはならないことだが

それでこそ長い泰平(たいへい)つまり平和の時代が完成したのだ。

確かに、江戸時代は、立身出世を望む人間にとっては

重苦しく不快な世界だったろう。

だが、そんな人間はやはり少数派だ。

圧倒的多数の人間は、町人に生まれれば町人の

下級武士に生まれれば下級武士の分を守って一生を終えたのである。

 

 

世界のどこに、百万人の大都市に警察官が14人しかおらず

それで治安が保たれていたなどという例があるだろうか?

その秘密は「分」を守る社会だったからだ。

犯罪の動機のほとんどは「欲望」すなわち「分を越える」ことである。

もちろん、同心は配下に岡っ引きを抱えており

岡っ引きは下っ引を抱えていた。

銭形平次や半七を思い浮かべて頂ければいい。

町ごとに自身番があり夜には木戸が閉ざされ

犯罪の起こりにくい環境は整えられていた。

 

また、江戸時代後期には凶悪犯罪に対応するため

火つけ盗賊改め(鬼平こと長谷川平蔵が有名)も増設された。

それにしても、江戸の犯罪率は

ヨーロッパの各国と比べてもケタ違いに低かったはずである。

「はず」というのは史料がないからだが

一般に江戸時代が「暗黒」であったというイメージがあるのは

明治維新政府を立ち上げた人々が

自分たちの功績を際立たせるためにことさら

そのように宣伝したことともう一つ理由がある。

それは、私がかねがね指摘している

日本歴史学の三大欠陥にかかわることだ。

 

 

歴史の本では、統計的なことはほとんど無視して

特定の現象だけを抜き出し

全体とは関係なく説明してあるのが普通だ。

つまり

「史料は特殊なことを記録する」傾向が強いのに

そういう史料を絶対視するから

非科学的になるということだ。

江戸時代は「江戸文明」の完成された社会だった。

便利な道具は敢えて用いず

自然のリズムに従って生き、ゴミは出さない。

 

人々はそれぞれ「分」という運命に従う代わりに

競争という「苦しみ」に惑わされることなく平和に暮らせた。

大工の子は大工で、家老の子でなければ家老になれない

という制度は一見不合理なようだが

それを本当に不合理と感じる人は実は少数派である。

逆に市民社会は政治に「参加できる」が

その権利を主張するためには

納税や兵役という厳しい義務も求められる。

多くの庶民にとっては「政治はお上に任せておけばいい」ものだった。

長屋の住民は税金など一銭も納めていない。

もちろん、問題は何もないわけではない。

しかし、日本人にとっては開国近代化という路線は

「ユートピアとしての江戸」とは

180度異なる価値観の世界へつながるものだった。

だから、多くの人々が、そこへ行くことをためらったのである。

 

この巻おわり