大和魂とかで、戦争にまた誘導しそうで怖いな

グローバル化で、日本の資産が外国に流れている今

一体、日本人は何を守るため、武力で戦う気でいるのか?

自衛隊の人も、中国人の配偶者が多いというし

日本に住んで日本語話して

日本が好きなら日本人でいいけど

日本が嫌いな人達が日本に住んで実権を握り、売国をやっている

和人が大陸からの侵略者だったなら

その時代の歴史を学ばせないのも納得

この世はシナリオ(聖書など)があるゲームと見ると

本当に最後はこの世界、大逆転してほしい

 

 

↑こちらより抜粋

 

「エミシ」も「エゾ」も漢字では「蝦夷」と書く。

平安時代初期(9世紀前半)に征夷大将軍:せいいたいしょうぐん 

(征夷(=蝦夷を征討:せいとうする)大将軍を指す武人の最高栄誉職である)

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が

「征伐」したのは「エミシ」であった。

そして、それ以後、主に北海道にいた異民族を「エゾ」と和人は呼んだ。

もちろん、両方とも「野蛮人」という意味を込めた蔑称(差別語)ではあるが

このうち「エゾ」とアイヌは同一のものであるとされている。

 

では、平安時代初期の「エミシ」はアイヌなのか

それともそうではないのか?

もし、「エミシ」が「エゾ」つまりアイヌだったとすると

田村麻呂に敗れたアテルイはアイヌの王であったことになる。

しかし、ここでも話は簡単ではない。

仮に「エミシ=アイヌ」だったとしよう。

すると、大和朝廷とエミシの戦いというのは

大和民族とアイヌ民族の対決であって

最終的に北海道全域が日本の領土となったのは

明治以降のことであり、それまではアイヌが先住していたのだから

日本という国は東北以北(いほく)の領域について

常に異民族との抗争が平安初期から一千年以上続いていた国であり

それがようやく終了したのが明治以降であるということになる。

 

一方、「エミシ」が「アイヌ」でないならば

それは同じ大和民族同士の内部抗争ということになるから

平安期以前に既に本土の東北地方までは

大和民族の領域だったということになるわけだ。

特にアイヌが先住していた地域は

現在の日本領(国土)にあたるものより広い。

たとえばサハリン(樺太:からふと)南部にもアイヌは住んでいた。

これを先住民族の問題として考えるならば

ロシア共和国も話し合いのテーブルにつく必要がある。

 

この問題に関する学説は大きく二つに分かれる。

「特定説」と「非特定説」である。

「特定説」というのは読んで字の如し

「エミシが何者なのか(=エゾなのか?)

という点について「特定」できるという考え方である。

当然ながら、この「特定説」は「エミシはエゾ(アイヌ)である」

と両者を同一のものと認める説と

「エミシはエゾではない」と否定する説に分かれる。

 

「エミシはエゾである」という同一説の最も有力な論者は

たとえば言語学者の金田一京助であった。

つまり本州にいたアイヌが「エミシ」で

北海道にいたアイヌが「エゾ」と呼ばれたということだ。

ここでは「エミシ」も「エゾ」も同じ民族(アイヌ)で

名称が違うのは地域による差であることになる。

同じ「特定説」でも、逆にエミシは辺境に住んでいた

大和民族(日本人)であるという主張もある。

この場合は「中央に住んでいた日本人に対し

辺境に住んでいた日本人をエミシと呼んだ。

これは文化的、政治的(天皇に従わない)特徴による分類で

両者に人種民族の差はない」ということになる。

さて、どちらが正しいのだろうか?

 

 

実は、東北以北には、和人ともアイヌとも違う異民族が古代から存在した。

「日本書紀」に658年、つまり飛鳥時代に

水軍の将阿部比羅夫(あべのひらふ)が

「蝦夷」に続いて「粛慎(しゅくしん、みしはせ、とも読む)

を討ったという記事がある。

阿倍比羅夫は後に白村江(はくそんこう)の戦い(663年)で

唐・新羅(しらぎ)連合軍と戦った人物だが

「蝦夷」「粛慎」と違う字で書き分けられていることから

いわゆる一般的な「エミシ」とは違う民族であることは間違いないと見られている。

 

 

日本には、こういう民族問題もある。

とても「単一民族国家」などと言える状態ではない。

こうしたことも、「アイヌ史」及び

「北方民族史」を考える上で大切な視点である。

 

 

それにしても、歴とした神社の絵詞に北方の異民族に

「日の本」という名の種族がいたと記録されているのは興味深い。

我が国が「大和」から「日本」へと国号を改めたのは

日没する処(西)の大国である中国に対し、対等である

日出づる処(東)の国家であると主張した聖徳太子の頃であると

私は考えているが、まさにこの時代の歴史を記した

中国の「唐書:とうじょ」には

この国号「日本」に対する一説として

「倭(大和)が日本を征服しその国号を奪ったのだ」と書かれてある。

ということは、もともとこの「日の本」族こそ

「日本人」だったのかもしれない。

 

古来から日本には「つぼのいしぶみ(壺の碑)という石碑があったと伝えられている。

これは歌枕にもなっていて、平安時代以降の日本人には常識だった。

伝説では征夷大将軍坂上田村麻呂が東北地方を征服した時

大石の表面に矢尻で彫り込んだものだと言われているのだが

その碑文(ひぶん)が「日本中央」というのである。

「大和」が「日本」ならば

東北地方が「日本中央」であるはずがないのだが

なぜか昔からそう伝えられている。

 

ところが、明治になって、陸奥(むつ)国の坪(つぼ)という場所

(現青森県東北町)から「日本中央」と彫り込んだ石碑が発掘されたのである。

誰もが認めることは、坂上田村麻呂はここまでは来ていないということだ。

だからこの石碑の真実性を疑問視する傾向が強い。

しかし、私は逆に、田村麻呂が「碑文を彫り込んだ」という伝承の方が

「ニセ」であって「日本中央の碑」つまり「つぼのいしぶみ」は

田村麻呂以前から存在したのではないかと思っている。

つまり、まさに「唐書」の一説通りで

倭(大和)と日本は初めは別の国であって

当時の「日本」は東北地方を中心とする「日の本人」の国であったということだ。

つまり、東北町の「日本中央の碑」は本物か

少なくてもそれを再建したものであるというのが私の考えだ。

 

 

1432年の安東氏脱出以降は

和人の豪族単位の集団移住が一挙に増加した。

彼等は本州に一番近い、夷島(えびすじま、えびすしま)

の南端のウショロケシ(函館)、マトマイアイヌ(松前)に居住し

その本拠は館(たて)と呼ばれた。

松前が「マトマイ」つまりアイヌ語を語源としているように

北海道の古い地名はほとんどが札幌(サッポロ、アイヌ語の乾いた大きい土地)や

月寒(ツキサム、アイヌ語の「チ・キサ・プ」(われわれがこするもの)

のようにアイヌ語が語源なのだが、函館(明治までは箱館と表記した)は

この時代に和人の作った

「館」が「箱」のような形をしていたことに由来すると言われ

日本語が語源なのである。

「ウショロ」なら「宇城」になってもおかしくないところだが

箱館になったのはここが完全に和人の領域にされたことを示すものと言える。

 

これまで、夷島には少人数の和人はいたものの

それはアイヌとも共生する存在であり

当然のことながら混血も進んだだろう。

つまり「渡党」内部では民族的対立がそれほど尖鋭化(せんえい)しなかった。

ところが、このような集団移住が起こると

和人がまさにこの地の「領主」としてふるまい

その結果、先住民であるアイヌとの争いが激化するようになった。

逆に言えばアイヌは、彼等が集団移住して来る前は

まさに縄文文化の伝統を受け継ぐ、狩猟・漁労を中心とし

その収穫物を和人も含めた各国の人々と自由に交易していた。

それが、にわかに「御領主様づら」した和人たちに

何かと干渉、収奪されるようになったのだ。

 

これは、このままでは済まない状態であることは、おわかり頂けると思う。

「よそ者の侵入」に対して、先住民のアイヌがその不満を爆発させる事件

いや戦争が起こった。

それがアイヌ民族の初めての大々的蜂起(ほうき)とされる

「コシャマインの乱(戦い)」である。

もっとも、これを「乱(反乱)」と呼ぶのは

中央の「東夷成敗権」に基づく見方であるから

正しくは「戦い」と言うべきかもしれないが

そのきっかけは一つの殺人事件であった。

それがいかにもこの時代を象徴する話なのである。

 

和人の館は12あった。

その一番東側にあったのが志濃里館(しのりのたて)である。

現在は「志苔:しのり」と表記。以下この表記に統一。

その周辺には村があり、和人が数百戸にわたって住んでいた。

中でも鍛冶屋村は繁栄を誇っていた。

それは、前にも述べたように

アイヌが優良な製鉄技術を持っていなかったからだ。

そこでアイヌたちは和人の村にやって来て

狩りのための刀や農具を買い求めていた。

 

1456年(康正2:こうしょう)、アイヌの少年が

和人の鍛冶屋にマキリ(小刀)を発注した。

 

 

ところが、それが出来上がってきた時、少年と鍛冶屋の間で口論が起こった。

理由ははっきりわからない。

鍛冶屋の側に非があるとすれば、よほど小刀の出来が悪かったか

法外な値段をふっかけたかだろう。

少年の方に非があるとすれば

言いがかりをつけて安く値切ろうとしたということも考えられる。

しかし、すべて推測であって、当初どちらかに非があったかは分からない。

そして、ここが肝心だが、口論の末に

鍛冶屋はそのマキリで少年を刺し殺してしまったのである。

 

仮に、悪口雑言を言われたとしても、相手は少年なのだから

これは殺した鍛冶屋の方に完全な非がある。

それに、これからは想像だが、少年を刺すなどという行為に出たのは鍛冶屋

つまり和人が、アイヌに対して

差別的な感覚を持っていたのではないかと考えられるのだ。

その証拠に、この一つの殺人事件が

結果的に大規模なアイヌの武装蜂起につながった。

両者の間が平和的友好関係であれば

こういうことは不幸な突発事故として処理されるはずだ。

また、この鍛冶屋が殺人犯であるにもかかわらず

厳しく罰せられたという話も聞かない。

 

1960年代のアメリカの黒人暴動なども

こうした事件がきっかけになったケースがよくある。

やはり差別に対する不満がアイヌの間にたまっていたのだと考えられる。

そして翌1457年(長禄元:ちょうろく)

本州では南朝方に奪われていた「三種の神器」のうちの一つの

「神璽:しんじ(俗に玉と呼ばれるもの)」を

赤松一党が取り返した年(長禄の変)に

オシャマンベ(長万部)のアイヌの首長コシャマインが武装蜂起した。

コシャマインは、最東端の志苔から始まって

箱館、中野、脇本、穏内、栗部と

次々に和人の館を陥落(かんらく)させた。

全部で12館のうち、茂別(もべつ)と花沢の2館を残して

あとは全部攻め落としたのである。

 

しかし、最後まで残った花沢館に、アイヌから見れば「悪人」

和人から見れば「英雄」とも言うべき男がいた。

その名を武田信広(のぶひろ)という。

あの信玄で有名な甲斐(かい)武田氏と同族である

若狭(わかさ)武田氏の出身と言われる。

国主の家に生まれながら早くから生家を出て

北へ北へと流れて行き、落ち着いた先が夷島の花沢館であった。

実は、この館の主が同じ若狭国(福井県西部)出身の

蠣崎季繁(かきざきすえしげ)だった。

この男も若狭武田氏の一族であったが

これも早くから夷島に渡って、安東氏の末裔と称する安東政季(まさすえ)

の女婿(むすめむこ)となった。

そして、その蠣崎季繁の養子となったのが、武田信広なのである。

 

信広は武将として極めて優秀な男であった。

それまでコシャマインに押されっぱなしであった

和人軍を立て直して反撃に転じたばかりか

自らの弓でコシャマイン父子を討ち取るという大殊勲(しゅくん)を立てた。

信広は蠣崎家の家督(かとく)を継いで勢力を伸ばしたが

アイヌ側の反抗も根強く、信広の子光広の代には12館の中でも

最大の拠点の一つ松前の大館(おおだて)が攻め落とされた。

しかし、これを奇貨とした光広は逆に全力で集中して大館を奪い返し

1513年(永正10:えいしょう)

ついに最も重要な拠点を蠣崎家のものとした。

しかし、アイヌの抵抗はまだ止まない。

 

その2年後の1515年には

東部のアイヌの首長兄弟シヨヤとコウジが武装蜂起した。

この頃から、和人はアイヌに対して極めて卑劣な手段で対抗するようになる。

「騙し討ち」である。

「和を結ぼう」「これからは仲良くしよう」と美辞麗句をもって

首長らを宴会に誘い、酒を散々飲ませた上で惨殺するのである。

私はアイヌの酒を飲んだことはないのだが

おそらく彼等の酒は、日本の清酒よりも

はるかにアルコール度が低いのではあるまいか。

とにかく、この手は極めて「有効」で

以後しばしば用いられることになる。

この武田信広改め蠣崎信広の子孫が江戸初期に

松前と姓を改め松前藩の大名になっていくわけだが

その公式記録である前出「新羅之記録」には

この時の「騙し討ち」を、むしろ誇らし気に書いてある。

 

問題は「ウタリ」を一人残さず殺して埋めた塚(夷塚)が

その後代々「野蛮人(アイヌ)と戦ってきた時は

鬨(とき)の声を上げ(て励ました)」とあることだ。

つまり、和人はアイヌを虐殺したことに

なんの後悔も疑念もなかった、ということなのである。

 

 

「城」というのは言うまでもなく漢字であり古代中国語だ。

そして日本で言う「しろ」とは違うものだった。

本来、「城」とは、城壁の意味だった。

つまり都市を囲む壁のことだった。

「トロイの木馬」の故事でもわかるように

昔は王、貴族、平民も住む、居住区も商店街も

大城壁で囲むのが常識だった。

これは中国も同じで、首都長安の異名は長安城であった。

理由は簡単で、異民族からの攻撃、略奪などから国民を守るためである。

ところが、この「世界の常識」が通用しない国が一つあった。

それが日本で、日本が中国の長安をモデルに建都した平城京(奈良)も

名前に「城」がついているのに城壁はない。

当時、日本にやって来た中国の使者も

「日本の都市には城壁がない」と驚きをもって報告しているくらいである。

日本は基本的に異民族の攻撃を心配する必要はなかったということだ。

 

ところが、天智天皇の時代に初めて日本は外国(唐)からの侵略を警戒した。

その時に造られたのが、壱岐(いき)の金田城(かねだのき)や

太宰府(だざいふ)の水城(みずき)である。

つまり、この時代は「城」を「平城京」のように

音読みで「ジョウ」と読むか、さもなくば訓読み

(やまとことば詠み)で「き」と読んだ。

そして日本における「城」とは

あくまで戦闘用に限定された要塞(ようさい)の意味だった。

しかし、この頃の日本人も「城」の本来の意味は知っており

また中国の大都市に比べて

日本にそれがないのに劣等感を抱いていたと考えられる。

 

というのは、平城京を捨てて平安京に遷都した

桓武(かんむ)天皇は、それまで「山背国(やましろのくに)」

と表記していたのを「山城国」に改めたからだ。

首都が「山向こう(飛鳥方面から見ればそうなる)」

では困るということも当然あっただろうが

その地が山に囲まれていたのを幸いに

「首都の周囲を取り囲む山々こそまさに城(城壁)にあたるのだ」

という意味も含めて「山背」を「山城」と改めたようだ。

ところが、問題は本来の訓読みでは

「城」は「き」と読んで「しろ」とは読まない。

しかし、無理矢理「やましろ」という言葉にあててしまったので

これ以降「城」を訓読みでは「き」ではなく

「しろ」と読むようになったというわけだ。

 

「山城国」の名付け親である桓武天皇は

征夷大将軍に坂上田村麻呂を起用し蝦夷(エミシ)と戦わせた。

そして勝った。これ以降いわゆる東北地方は

「日本」の領域になるわけだが、その「植民地」経営のために

大和朝廷がこの地に建てたのが

胆沢城(いさわじょう)であり秋田城だ。

これは平安京というよりは中国の長安のミニチュアであった。

というのは、本来異民族の土地であったところに造られた

周囲を掘や柵で囲んだ「町」であったからだ。

つまり規模は比較にならないほど小さいが

これらの「城」は本来の意味に近いのである。

ところが時代が下がって、武士の世の中になると

それまで平地の館(やかた)に住んでいた有力な武士が

山の上など守りの堅いところに拠点を設けるようになり

これを「城」と呼んだ。

 

 

だから、秋田城というのは中国式と日本式の2つが存在するのである。

古代の大和朝廷の東北侵攻に対し、「乱」が起こった。

前9年の役(対外戦争)に「異民族」側が籠った

「基地」のことを大和朝廷は「柵」と呼んだ。

「柵」と呼んだのは「差別」というよりは、彼等の「基地」が

「城」とは形状の異なるものだったからだろう。

こうした「柵」は朝廷の勝利によって一掃された。

彼等が抵抗をやめたことで、中国式の秋田城や胆沢城も

存続させる意味がなくなり、時代の流れの中で消えてゆく。

 

そして、鎌倉時代になって武士たちは館(やかた)に住むようになって

室町中期以降はいわゆる戦国時代(室町末期)になると

本土では鈴尾城や姫路城のような「城」が多数築城される。

ところが「夷島」では、そうした「発展段階」はなかった。

「北方史」の最も重要な年号である1432年(永享4)

つまり安東氏が南部氏に敗れて本土から北海道へ渡って以降

安東氏や蠣崎氏が道南に本拠として造ったのが「館(たて)」であった。

代表的なものを今日「道南十二館」と呼んでいる。

これらは初期の代表的な「館」であり

東から二番目の「箱館」は今の函館市の中心部にあり

大館は今の松前町にあった。

安東氏はこの北海道最南部を

それぞれ上之国(かみのくに)日本海側

松前、下之国(太平洋側)に分割統治していた。

ところが、こうした和人の進出に

かねてから不満を抱いていたアイヌが

前節で述べた「マキリ(小刀)少年刺殺事件」をきっかけに

その事件の翌年(1457年=長禄元)に

和人の「館」を攻撃したのがコシャマインの戦いである。

 

 

松前に本拠を移してからの蠣崎氏と

アイヌの抗争は72年ほど続いた。

武力抵抗が一応終息したとはいえ、この争いの根底には

津軽海峡をはさんで本土と夷島との

交易の主導権を誰が取るかという点にあった。

逆に言えば、この問題が解決しない限り

紛争は収まらないということだ。

そこでコシャマインの蜂起から

95年目にあたる1551年(天分20:てんぶん)

蠣崎季広(信広から数えて4代目)とアイヌとの間に

「夷狄の商舶往還の法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)

という交易協定が結ばれた。

これは、形の上では蠣崎氏の主君にあたる安東氏

(本土の出羽国:でわに在住していた、現在の山形県と秋田県)が

仲介の労をとったもので、具体的には太平洋側(下之国)のアイヌの代表

チコモタインと日本海側のアイヌの代表ハシタインと協定を結んで

両首長は蠣崎氏から交易の利益の一部を「夷分:えぞぶん」として

受け入れる代わりに、両者は「おさ(長官)」としてアイヌが武力蜂起など

起こさないように監視・統率(とうそつ)するというものだった。

 

ここで肝心なことは、同じ日本海側でも最南部の

和人が「上之国」と呼んでいた松前を中心とする土地が

和人の領分として完全に認められたということだ。

いわゆる和人の形成である。

和人地は、「下之国」でも箱館周辺は含んでいる。

これが後に松前藩として発展していくことになる。

そして、戦国時代が終わり豊臣秀吉の天下統一が為されると

当時の蠣崎家当主慶広(よしひろ)は

早速大量の献上品を持って上洛し

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)において秀吉に会い

蝦夷地の支配を任されたいと懇願した。

秀吉は機嫌よく、これを許した。

これによって、和人地以下の夷島すべてに

蠣崎家の支配が及ぶという、アイヌにとってはまさに寝耳に水の

とんでもない事態になってしまった。

 

松前藩は、「三百余藩」と言われた江戸時代の藩の中で

唯一とも言うべき特徴がある。

それは領内で米がまったく穫れないということだ。

それでも石高は一万石として評価されているのだが

ではどうやってそれだけの米に見合う分だけの収入を得たのか?

それは、交易による収入しかなかった。

逆に言えば、松前藩はアイヌの領域を侵して

交易量を増やせば増やすほど藩財政は豊かになる。

家康はこの地における松前藩の交易の独占を認めた。

これもアイヌにとっては不利な話で

交易相手は松前藩に一本化されてしまったということだ。

アイヌの領域は当然侵され続けた。

これに対して反抗したのが

アイヌ史最大の英雄シャクシャインなのである。

 

シャクシャイン(?~1669)は

北海道日高地方のアイヌの首長であった。

アイヌと和人の最初の大規模な衝突である

「コシャマインの戦い」は、日本の室町時代に道南地方で起こった。

そして、それから212年後の

「シャクシャインの戦い」は日高地方が中心だ。

これは時代としては江戸初期で、アイヌと松前藩の戦いになったが

要するに松前藩成立後、和人が「道内」深く進出していることがわかる。

この傾向は以後さらに強まって「アイヌ三大蜂起」の最後である

「クナシリ・メナシの戦い」(1789年=寛政元)につながっていく。

しかし、その「三大蜂起」のうち、最大規模のものは

この「シャクシャインの戦い」だったかもしれない。

 

シャクシャインの拠点であったシべチャリ・チャシ(城)は

北海道の札幌から130キロ南東の

南端部の襟裳岬(えりもみさき)に行く途中にある。

最近は牧場が多く、競走馬の生産地として有名だが

昔は漁業と交易の町であった。

シべチャリから起こった地名に、シべチャリ・チャシのあった

真歌山(まうたやま)があり

その頂上付近にシャクシャインの銅像が建立されている。

近くには記念館もある。

毎年、9月23日の秋分の日(命日は10月23日)には

全国各地からアイヌの人々が集まり慰霊祭を行なっている。

残念ながら、チャシは松前藩によって破壊されたので

和人の拠点であった勝山館跡ほどは整備されていないが

それでも山頂に立てば、シャクシャインも見たであろう海から

平地へと続く雄大な景色を眺めることが出来る。

 

さて、この蜂起は何故に起こったのか?

シャクシャインの戦い以前

アイヌは決して一つに団結していたわけではなかった。

多くのアイヌは松前藩に反感を抱いていたが

松前藩と親しい、あるいは中立のアイヌも少なからずいた。

なぜなら、アイヌ内部に部族同士の対立があったからだ。

「敵の敵は味方」という論理である。

こういうことは世界史を例にとるとわかりやすいが

中国人(中華民族)が万里の長城を築いたのは

草原地帯の遊牧民が、農耕民族である中国人の「縄張り」

すなわち中原(ちゅうげん)に侵入して来るのを防ぐためだった。

そして、万里の長城が造られて以後、遊牧民族の脅威は一度は消えた。

 

なぜなら、モンゴル族は勇猛な部族であったが

長城が出来て中原に略奪に行くことが不可能になると

その矛先は「同族」に向かったからだ。

彼等には「同じモンゴル人」という自覚はなく

部族が違えば敵同士であった。

場合によっては中国人と組んで、「同族」と戦う場合すらあった。

「敵の敵は味方」だからだ。

後にチンギス・ハーンとなるテムジンですら

若い頃は「同じモンゴル人」の奴隷にされていたのだ。

こんな状態では中国人に対抗するなど夢のまた夢である。

しかし、テムジンがあらゆる手段を使って「身内の敵」を服属させ

「モンゴルは一つ」になった時、情勢は大きく変わった。

チンギス・ハーンとなった彼の指導の下に

モンゴル人は初めて長城を越え中原に進出し、それを領土としたのである。

このテムジン以前の状態が、当時のアイヌだと思えば話は早い。

我々はつい「同じ民族なら団結して当然だ」と考えるが

団結は自然現象として起こるのではない。

それが成立するには、それなりの条件が必要なのだ。

 

 

むしろ「民族は団結すべきだ」という近代になって確立した

イデオロギーを前提にして歴史を見ることは

その公正で客観的な分析を妨げることにもなりかねないのだ。

シャクシャインは同じアイヌのオニビシという首長と対立し

結果的にはこれを滅ぼした。

オニビシは一般的には親・松前藩だったと言われている。

 

とにかく、シャクシャインはオニビシとの抗争

おそらくは勢力争いに勝った。

つまりシャクシャインの手で「統一」が進んだのだ。

「民族の団結」が進むための必要条件がこれで整った。

まずは、民族内を一つにまとめる強力なリーダーが必要である。

しかし、それだけではダメだ。

いくらそのリーダーが

「和人を、松前藩の奴等を追い払おう」と叫んでも

その言葉にアイヌの人々が共感しなければ「戦い」など起こせない。

「敵を殺す」のだから、そこには激しい怒りがなくてはならない。

そして、当然のことながら、その怒りは存在した。

 

 

松前藩は、家臣たちの給与額に合わせて

定められた場所でアイヌと交易する権利を与えた。

これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)という。

つまり、松前藩士は通常年一回

自分でチャーターした船に商品を載せて商場まで運び

そこでアイヌと交易して品物を得る

そしてそれを運んで本土の商人に売却して

その収入で暮らしていたのである。

だが、そのうちに武士たちは

その商売の権利を本土からやってきた商人に

丸ごと委託するようになった。

 

慣れない商売を自分の手でするより

「プロ」である商人にやらせた方が

利益が上がる(実際にそうなった)と思ったのだろう。

そして、これは誰も指摘していないようだが

そうなった理由の一つに江戸時代が進むにつれて

武士の間では朱子学が奨励され、その結果

商売は卑しいこととされたことが

結構大きいのではないかと私は思っている。

だがこのことは結果的にアイヌにとって大きな不幸となった。

純朴で、金勘定には疎いアイヌの交易相手が

商売下手な武士から海千山千(ずる賢い人)の商人に代わったからだ。

起源はいつかわからないが、少なくとも商人が表舞台に登場してからは

確実に存在していた、とんでもない差別、いや詐欺がある。

 

「アイヌ勘定」という。

たとえば、10数えるのに「1」の前に

「始まり」という言葉を入れます。

そして順に数えていって「10」までいったら

最後に「終わり」と言うのです。

これで物々交換すると「10」のはずが

実際には「12」になっています。

ひどい場合には「5」の後に

「真ん中」という言葉を入れるというのです。

これで普通に2割、ひどいと3割は

計算をごまかされることになります。

文字を持たず、ろくに計算ができないアイヌ相手には

これが通じたのだという話が現代まで残っているのです。

これが「アイヌ勘定」です。でも、この言葉は変です。

大分たってからのこと

私はアイヌの人たちと一緒に葉書の宛名書きをしていました。

書き終えて集計すると、数が合いません。

すると、一人のアイヌ女性が「あ、シャモ勘定だ」と叫び

その場がどっと笑いに包まれました。

シャモ、つまり和人はその場に私一人でしたが

妙に合点がゆきました。

和人がアイヌに対してごまかしを行なった計算法なのです。

まさに「シャモ勘定」こそが正しい表現ではないでしょうか。

「アイヌ差別問題読本 シサムになるために 小笠原信之著」

 

「シャモ」というのは、アイヌ語で

和人に対する蔑称というべきものだから

通常は使うべきではないのだが

まあこれは「シャモ勘定」の方が適確な言葉だと私も思う。

このような手段を、まさに駆使して、本土商人はアイヌから収奪した。

そして、松前藩はこうした無法をたしなめるどころか

黙認していたようだ。

 

本土の商人が直接交易にあたるようになってから

アイヌが一番欲していたが、松前では産出しない米が

交易の主体となった。

 

 

こうした中、オニビシを殺されたハエ、サルを拠点とするアイヌは

その姉婿であるウタフが松前城下を訪れ

松前藩に武器の援助を申し入れた。

「敵の敵は味方」というわけだ。

ところが、これを松前藩は拒否した。

一応はアイヌ同士の内紛には介入しない、というのが拒否の理由だったが

それは表向きで、うっかり鉄砲など優秀な武器を供与してしまったら

それが両刃の剣(もろはのつるぎ)となって

自分たちに向かってくるのを恐れたのだろう。

ところが、このウタフが「疫病」にかかり

帰る途中で急死するという事件が起こった。

前出の「津軽一統志」によれば、それは天然痘だったという。

 

これをシャクシャインは政治工作に利用した。

「ウタフは松前藩に毒殺された。今こそ立つべき時が来た」

と各地のアイヌに檄(げき)を飛ばしたのだ。

これで、アイヌ内部の対立は一旦解消された。

「シャクシャイン憎し」で対立していたハエのアイヌたちも蜂起した。

もともと、交易における交換比率の低さや不正がひどく

アイヌのかなりの人たちが和人に対して大きな不満を持っていたが

「シャクシャインVSオニビシ」の内部対立で

その不満が内側へ向かう形となっていたのだ。

それが「オニビシ陣営のウタフもシャモ(和人)に毒殺された」

ということで、アイヌは「敵も味方も」一致団結して

松前藩に立ち向かうことになった。

これがシャクシャインの戦いが

アイヌ史上最大の蜂起となった要因である。

 

 

この頃、さらに大きな問題があった。

それは現代風に言うならば「ゴールドラッシュ」である。

蝦夷地(アイヌの支配領域)で大量の砂金が発見されたのだ。

欲に目がくらんだ連中が続々と蝦夷地に入った。

中には「越後の庄太夫(しょうだゆう)」のように

シャクシャインの女婿となってアイヌのために戦い

敗戦後は処刑された者もいる。

しかし、それはほんの少数の人間で、多くの和人は

蝦夷地の川や海で勝手に魚を獲ったり、猟場を荒らしたりした。

かつて、蝦夷地の川はサケであふれていたという。

米などの作物が穫れない代わりに

アイヌはサケなどを保存食として

長い冬を乗り切っていた。

それが和人の乱獲にあい、食糧が足らなくなった。

逆に和人は自分たちでサケを獲れば

アイヌとの交易に頼らなくてもすむ。

こうした背景があったから、シャクシャインの

「松前藩はアイヌを次々と毒殺するつもりだぞ」

という「流言」を人々は信じ蜂起したのである。

なにしろ「生存権」にかかわる問題だ。

アイヌの勢いは強かった。

 

ちなみに「津軽一統志」によれば

この頃の和人の人口は1万4千から5千人

アイヌの人口は約2万人だったという。

そして、この戦いには2千人余りが参加したと見られるという。

つまりアイヌ全人口の一割が戦ったということだ。

一割というと少なく感じるかもしれないが、とんでもない。

戦前の日本が「民族総力戦」と称した時ですら

陸海軍合わせても全人口の一割には達していないはずだ。

これはものすごい数なのである。

アイヌの男子は基本的に狩人であり

弓矢を日常使用しており戦士に転化しやすい

ということを考慮に入れても

まさに民族総力戦と言える戦いだったのである。

 

それを可能にしたシャクシャインは「64」前後とやや年長だが

威風堂々として軍事も巧みであったと伝えられる。

まさに、現代に建立された

シャクシャイン像をほうふつとさせる英雄だったのだ。

アイヌ勢は蝦夷地内の和人居留地を次々と襲撃し

長年の恨みを晴らしていった。

殺された和人は「津軽一統志」によれば355人である。

1669年(寛文9:かんぶん)6月

「アイヌが各地で蜂起し和人を殺害している」

という急報に接した松前藩は、大いにあわてて

実態をつかもうと蝦夷地へ調査隊を派遣すると共に

幕府にこれを通報した。

また、近隣の津軽藩、盛岡藩、秋田藩などに武器弾薬の援助を申し入れた。

そして、この「乱」の規模が極めて大きいことを知った幕府は

松前氏の一族ながら独立して旗本になっていた松前泰広を総大将として

江戸から派遣し、合わせて最も近隣の津軽藩に応援のため出兵するよう命じた。

つまり、この時点で、この戦争は「アイヌVS松前藩」から

「アイヌVS幕府(日本国)」の戦いとなったのだ。

 

しかし、主体として動いたのは

やはり現地の事情に精通している松前藩士であった。

彼等はアイヌ側の弱点を突く作戦に出た。

それは、「民族総力戦」といっても

やはりシャクシャインとは行動を共にしない

アイヌも少なからずいた、ということだ。

前にも述べたように、アイヌはまだ

「一つの国家」を作る段階には達していなかった。

部族ごとに進む道が違っていたのである。

松前藩や本土商人が収奪を繰り返したといっても

なにしろ蝦夷地は広い

それほどの「被害」にあってないアイヌもいるし

なによりも和人との交易なくしては

アイヌ社会は既に成立しなくなっていた。

 

この頃、この地には「ツクナイ」という言葉があった。

「償い」である。

自分の方に非があると認めた場合

和解する際に差し出す金品のことをいう。

松前藩は幕府の権威を笠に着て

数では劣るが鉄砲を主体とした強力な武力を背景に

「ツクナイ」を差出せば「降伏」を認めるが

そうでなければ討伐(とうばつ)するという姿勢を示した。

戦争よりも平和を好む人々が次々にこれに応じた。

10月になって、戦線を縮小せざるを得なくなって

本拠のシベチャリ・チャシに籠っていたシャクシャインのところへ

松前軍の大将・佐藤権左衛門は使者を出した。

「他のアイヌと同じくツクナイさえ出せば命は助け罪には問わない」

というものだ。

シャクシャインは迷った末にこれに応じた。

だが、権左衛門が為そうとしていたのは

例の松前藩の「お家芸」であった。

 

この申し入れに対して

シャクシャインは当初耳を貸そうとしない。

シャクシャインには持久戦に持ち込んで

雪と兵糧不足で敵が疲れたところで

戦いを一気に決しようという考えがあったのかもしれない。

しかし、子のカンリリカの勧めによって翻意(ほんい)し

部下数十人を率いて松前軍の陣営を訪れる。

記録は「降伏すれば生命を助ける」

と申し入れたと記しているが

それならば降伏勧告であって和議ではない。

クンヌイ川以後、シャクシャイン軍に

決定的な敗戦があったとは書かれていない。

おそらく何らかシャクシャインの

要求をみたす条件で誘ったものと思われる。

 

松前軍第一陣(鉄砲組)の指揮者である佐藤権左衛門が

武装を解かせてシャクシャイン以下16名を

陣内に招き入れたところ、シャクシャインは

宝物としていた大小の刀類、鍬先(くわさき)、鍔(つば)等

を集めて提出したという。(いわゆる「ツクナイ」)

これは和議を受け入れたしるしである。

しかし佐藤権左衛門は、なおもシャクシャインを陣内に引きとめ

10月23日、松前の後軍が到着するのを待って

和議の酒宴(しゅえん)と称して

シャクシャインたちに酒を飲ませ

時をみはからって、にわかに襲いかかったのである。

こうして16人のうち2人は生け捕りにされ

激しく抵抗するシャクシャイン以下

チメンバらの有力な指揮者14名が斬られる。

松前軍は翌24日、指揮者を失ったシベチャリに攻め入り

真歌の丘に建つシャクシャインの砦(とりで)をすべて焼き払った。

「アイヌ民族抵抗史 新谷行著」

 

「和議」だったにせよ「降伏勧告」にせよ

一つ確実なことは松前藩が

シャクシャインを卑劣な手で謀殺(ぼうさつ)したことである。

これについては、どんな立場の学者も異論はない。

仮にシャクシャインが生け捕りにされたとしても

その後は必ず残酷な方法で処刑されただろう。

それが、誰もが認める「松前藩の伝統」なのである。

そして、松前藩はこの「乱」をむしろ利用して

アイヌたちに絶対服従を誓わせた。

「七箇条起請文(しちかじょうきしょうもん)」

と呼ばれるものである。

 

一、松前の殿様よりどんなことを命じられても

  われわれアイヌは子々孫々に至るまで従うと共に

  絶対に反抗しないことを誓います。

 

一、もし、殿様に謀反を企み、また不満を抱く同胞がいたら

  きっと説得し、説得できぬ場合は必ず通報致します。

 

長文にわたるので、とりあえず第一条と第二条を紹介したが

要するに三条以下は

第一条の絶対服従を守らせるための具体的項目と言っていい。

これを「熊野牛王(くまのごおう)」に書かせるという

(紀州熊野大社が発行する起請文の用紙

これに起請を書いて血判(けっぱん)を押し焼却して灰を飲ませた。

これを破ると神罰がくだるという信仰があり

戦国時代広く使われた)

「本土方式」で、アイヌに絶対服従を誓わせたのだ。

 

前から述べているように、「禁令」が出ているということは

逆にそのことが「流行」していたと考えるべきなのである。

本土から一攫千金を求めた人々がアイヌと直接交易を目指して

蝦夷地入りしていたということだろう。

たとえばサケやコンブなどの海産物の他にもクマやラッコの毛皮

そして砂金などを求めてである。

また蝦夷錦(えぞにしき)も彼等の目当てとなった。

これは絹で作られた独特のデザインの織物で

元はといえば清国産(中国産)であった。

清は「北方民族」との交易にこれを物々交換用に特別に製作し

ラッコの毛皮などとの交換に用いた。

この蝦夷錦は「北法民族」との交易でしか手に入らない。

しかも、まさに異国情緒ただようユニークなデザインのため

江戸や京大阪などで大いにもてはやされた。

既に中国服として仕立てられているのだが

これをバラして着物に仕立て直したようだ。

珍奇なものなら千金を出しても惜しくないという人々が

町人の世界にはいた。

 

だからこそ、人々は「アイヌとの交易は松前藩に限定する」という

徳川家康の決めたルールを無視してまで、蝦夷地を目指したのである。

蝦夷地の豊富な物産の象徴の一つが、コンブであろう。

蝦夷地と歴史的に見て立場がよく似ている琉球王国(沖縄県)では

このコンブを使った料理が今も名物であり

また本土において清と唯一の貿易の窓口であった長崎では

極上のコンブが重要な輸出品であった。

しかし、これはよく考えてみるとおかしな話だ。

コンブは寒い海で取れる。しかし、九州や琉球の海は暖かい。

つまりそれは、本土商人が北前船(きたまえぶね)などで

蝦夷地特産のコンブを常に運ぶルートが出来ていた

ということなのである。

 

 

ここで注目すべきは、松前藩の「アイヌ支配」が

シャクシャインに対する「勝利」の後も

個人に対する支配までは及んでいないということだ。

通常、「植民地支配」をする側は、「支配される側」から

収奪するために、人別帳(戸籍)などを作って

人口を確定し厳重な管理をするものだ。

たとえば、子供の数なども把握する。というのは

今は子どもでも数年すれば労働力(あるいは兵士)になるわけで

何年か先の労働人口の予測も出来るからだ。

これは一体何故だろうか?

つまり、これは「人別帳が作られる理由」からわかるように

松前藩はアイヌに対し、労働力としては期待していなかったということだ。

また江戸時代という平和な時代だったこともあって

徴兵の対象つまり兵士の供給源にもしなかった。

アイヌがそれぞれの部族全体として

交易の「義務」をきちんと果たすことのみが重要であり

それさえ果たしていれば、そのアイヌの民族としての

「自治」には干渉しないということだ。

 

だから、皮肉なことだが、アイヌの文化自体は「保存」されていた。

皮肉というのは、松前藩士をはじめとする和人が「アイヌは野蛮人」

と考えていたことが、その文化に干渉しなかった理由だからだ。

もちろん、この「野蛮」というのは、かつて中国人が日本人を

「東夷:とうい(東に住む野蛮人)」と呼んだのと同じことで

一方的で主観的な見方であろう。

ところが、ずっと後の明治時代になると、日本(大日本帝国)は

アイヌ文化を劣ったものとみなすだけでなく

それを排除して日本人化(同化)

させることが正しいと考えるようになっている。

 

いわば180度転換したのである。

では、その理由は何か?

それは、実は三大蜂起の最後の一つである

「クナシリ・メナシの戦い」に大きくかかわっている。

 

 

和人がアイヌに労働力を期待するようになったからである。

その背景に、この時代から本土で農業の生産力の向上のために

肥料が大量に使用されるようになったことがあった。

当然、肥料は安くて豊富に供給されるものでなくてはならない。

そこで注目されたのが蝦夷地産のニシンを使った肥料であった。

 

 

「つらい仕事」である「油搾り」を強要され

しかも「暴力」によってアイヌを「使う」状態

それは実にひどいものであった。

 

首長以下の「ウタレ」(部下)から

「メノコ」(女性)に至るまで〆粕生産に動員され

しかも彼等は冬に至るまで酷使されただけでなく

生産した「粕〆割合の手当」が無いばかりか

「自分働(じぶんはたらき)」が出来なくなり

そのため当該地域のアイヌ民族の生活が困窮し

冬には餓死する者さえ生じるに至っていたこと。

出稼ぎ和人達が彼等アイヌに対し

働かなければ「毒害」(毒殺)し

あるいは当該地域を「和人」の居住地にするなどと脅しをかけて

〆粕生産に従事させるだけでなく

事実和人出稼ぎ者の暴力によって

死亡するアイヌも生じるに至ったこと等の諸点である。

 

該当地域における出稼ぎ和人達によるアイヌの女性に対する

「密夫」等の性的暴力行為が恒常的に行われ

これに対して被害者のアイヌが「ツクナイ」という行為を

彼等加害者である和人に要求すると

彼等は、逆に抗議したアイヌに言い掛かりをつけ

暴力を振るう等の理不尽な行為を行って

それに応じないばかりか、抗議したアイヌから逆に

「ツクナイ」を取る等の蛮行(ばんこう)が

横行する状況になっていたことである。

(アイヌ民族の歴史 榎森進著)

 

 

こんなとんでもないことがまかり通っていたのである。

「幕府調査団」はこれを把握し報告していた。

老中田村意次があと少し権力の座にあれば

少しは改善されていただろう。

しかし意次は失脚し、後任の松平定信はこの現状を無視した。

そして、シャクシャインの蜂起の時と同じく

和人は逆らうアイヌを次々と毒殺するつもりだという噂が広がった。

こうなれば、決起するしかない。

クナシリ・メナシの蜂起はこうして起こった。

 

クナシリとは国後島一帯のことだが

メナシとは現在の北海道目梨郡よりもはるかに広く

根室市や羅臼(らうす)町(知床半島)も含む。

要するに北海道本土の国後島の対岸にあたる一帯である。

メナシとはアイヌ語で「東方の」という意味である。

アイヌの中でも「西」の松前藩に近いところに住む部族は

早くからその支配に服したが

「メナシ」の部族は前にも述べたように

ロシアとの交易ルートがあったために独立性が強かった。

ところが、様残な事情でロシア側との交易を断念せざるを得なくなったため

松前藩の「代理人」飛騨屋久兵衛がこの地に進出しアイヌを搾取した。

 

1789年(寛政元)

クナシリの惣長人(そうおとな)サンキチが病気になった。

惣長人というのは部族の最上級のリーダーのことだが

ちょうどその頃メナシの飛騨屋の支配人

勘兵衛が持ってきた酒を飲んだろころ、サンキチは急死してしまった。

一方、別のリーダーのマメキリの妻が

飛騨屋の配下に飯をもらって食べたところ、これも急死した。

この2件の死亡はおそらく事故であったと思われるが

日頃から飛騨屋の連中に「逆らったら毒殺するぞ」

と脅されていたアイヌには、それが毒殺としか見えなかった。

これが「クナシリ・メナシの戦い」の発端である。

 

ここにおいてクナシリのアイヌがまず立ち上がった。

散々、非道を繰り返していた飛騨屋の支配人

通辞(アイヌ語と日本語の通訳)番人を次々と殺害し

また、これらの不正を見逃していたと見られる

松前藩の役人も殺害した。

これに呼応したかのように、対岸のメナシでも蜂起したアイヌが

沖合に停泊していた飛騨屋の持船の大通丸を襲い

船にいた和人を殺害した。

アイヌ側は和人を全員殺したつもりだったが

槍で突かれて死んだふりをしていた

庄蔵という男が辛うじて逃げ帰った。

こうしてクナシリ・メナシの両地区で

合計130人のアイヌが蜂起し、71人の和人を殺害した。

このうち飛騨屋の使用人は70人で

残り1名は松前藩士の竹田勘平であった。

勘平は藩士といっても現地に目付(監視役)

として派遣されていた足軽(あしがる)であった。

足軽は武士としては最も身分が低い。

要するに松前藩はこの地の経営を飛騨屋に「丸投げ」し

高級武士は賄賂を取るだけで現地には赴任していなかったのだろう。

 

 

「クナシリ・メナシの戦い」では、松前藩は

多数の兵士を動員しつつも、実際にアイヌと交戦することはなかった。

では「お家芸」の「騙し討ち」をしたのかといえば、それもなかった。

 

 

松前藩の新井田は一応取り調べを行なった。

しかし、その「判決」は

「飛騨屋の非道な振る舞いは認めるが

それを松前藩庁に訴えもせず、殺害に及んだのは不法である」

というものだった。

言うまでもなく、松前藩には飛騨屋に

不法行為をさせないように監督する責任があったはずだ。

しかも、軽輩(けいはい)とはいえ藩士の一人が

「目付」として現地に派遣されていたのである。

にもかかわらず、こうした事件が起こったということは

明らかに松前藩の監督不行届きである。

 

既に述べたように、幕府ですら飛騨屋の悪事は把握していた。

松前藩が知らなかったはずはない。

だから、史料的な証拠はないにせよ、松前藩は賄賂をむさぼり

飛騨屋の悪事を見逃していたのだろう。

しかし、新井田の「判決」はそのことにまったく触れていない。

こうして、殺害に関与した37人すべてが処刑されることになった。

 

ノッカマップの地に急造された牢舎に入れられたアイヌ37人は

7月21日に一人ずつ牢から引き出され

罪状の申し渡し書に確認の爪印を押させられ

次々に首をはねられていった。

最初に首をはねられたのは、この中で一番地位の高いマメキリであった。

「妻を毒殺された」と確信していたマメキリは

長人の身でありながら、蜂起の先頭に立っていたのだ。

一人ずつの処刑が進み、6人目になったところ、異変が起こった。

牢内の残りのアイヌが一斉に

「ペウタンケ」という独特の叫びを上げたのである。

「ペウタンケ」とは何か?

これはアイヌの宗教観、死生観を知るのに極めて重要な要素なので

少し詳しく述べよう。

文献によっては「ペウタンケ」を「呪いの声」としているものもあるが

これは正確ではない。

アイヌ民族として初めて国会議員(参院議員)になった

萱野茂:かやのしげる(1926~2006)は次のように述べている。

 

ペウタンケとはアイヌ同士で危急を知らせ合う叫び声で

「ウォーイ、ウォーイ」と独特の細い声を出す

(おれのニ風谷:にぶたに)

 

また、近所で火事があった時、それを知らせる同胞のペウタンケに対して

祖母がどのように反応したかも詳しく述べている。

 

 

このようにペウタンケとは、アイヌが同胞に助けを求める

「SOS」のようなものだと考えるのが妥当だろう。

もっとも、呪術的な要素がまったくないわけではなく

たとえば不幸な死に方をした人間の葬儀の際には

その親族たちが一斉に刀を抜いて

ペウタンケの声を上げたという実例が報告されている。

これは「SOS」というよりは、「悪魔祓い」の感覚であろうが

どちらかといえば特殊な例である。

 

要するに、この時牢内にいたアイヌは

仲間が一人一人斬首されるという極限状況の中でパニック状態となり

和人ならば「命だけは助けてくれ」と泣き叫ぶところを

その代わりにペウタンケを行なったということである。

だが、鎮圧部隊の総大将である新井田にはこれがわからなかった。

新井田はその書き残した史料等を見ても

アイヌ語や文化への言及が少なく

アイヌのことをあまりよく知らなかったのではないか、と推測されている。

そうした人間が初めて聞くペウタンケは、恐怖以外の何物でもなかった。

彼にとっては「野獣の叫び」に聞こえたかもしれない。

そこで新井田は万一に備えて待機させていた鉄砲隊に

一斉射撃を命じ、一瞬にして牢内のアイヌを皆殺しにした。

そして全員の首をはねて塩漬けにした。

これは松前藩に持ち帰って、首実検するためだ。

そして、胴体は近くにまとめて埋められた。

こうして「クナシリ・メナシの戦い」は終わった。

 

この銅塚は現在所在がわからなくなっているが

ノッカマップのどこかにあることは間違いない。

そこで昔アイヌが精強だった頃築かれたノッカマップ・チャシ跡

(根室半島には多くのチャシ跡があり、日本100名城にも選ばれている)

がよく見える高台で、毎年アイヌによりイチャルパ(慰霊祭)が行われており

祭壇に37人の犠牲者を象徴するイナウが37本立てられることになっている。

イナウは神道の「御幣(ごへい)」によく似たもので神聖な祭具である。

 

和人の犠牲者71人に対しては、その慰霊碑ともいうべき

「横死七十一人之墓」という石碑がある。

これは1812年(文化9:ぶんか)に造られたものだが

長い間砂に埋もれていて明治になって発見された。

今は納沙布(のさっぷ)岬の先端に移されている。

これは和人側に立ったものだから

アイヌのことを「賊」と表現しているのが

現代のイチャルパにおいては

この碑に対しても祈りを捧げている。

ぺウタンケも行なわれるが、それも決して「呪い」ではなく

二度とこういうことを繰り返さないという願いを込めてのことだという。

 

 

同化政策とは具体的にどういうものなのか?

これが多くの日本人の持つべき常識の中で

すっぽりと抜け落ちている部分なのだ。

まず、重大なことを指摘しよう。

それは、同化政策と差別政策

つまり「同化」と「差別」は

まったく別のものであることだ。

こう書くと耳を疑う人が多いかもしれない。

 

昔、私がある雑誌に「日韓併合は同化政策が中心で差別政策ではない」

と書いたところ、読者から猛烈な抗議が来た。

その抗議の内容は一言で言えば

「井沢は日韓併合を擁護している、それが許せない」

ということだ。

しかし、実はこの読者は完全に誤解しているのだ。

「擁護」という言葉を使う以上

この人は「差別は悪だが、同化はむしろ善である

あるいは差別ほどの大きな悪ではない」という考え方があると思われる。

だから大きな悪である差別を善で、あるいは小さな悪だと言いくるめた

「井沢はケシカラン」ということになるわけだ。

しかし、実は「同化」の方が「差別」よりも「巨悪」かもしれないのである。

ここのところが、多くの日本人が完全に思い違いをしているところだ。

同化政策というものは、要するに「異民族」を「日本人」にするということだ。

つまり、日本語とは違う名前を持つ人々に「日本名」を押しつけ

子供の頃から日本語教育をするわけだ。

すると何が起こるか?

「差別がなくなる」のである。

これは冗談ではなく本当の話だ。

 

差別をあくまで徹底しようと思えば、その差別の根拠となる

「肌の色の違い」や「文化の違い」を絶対に残しておかねばならない。

たとえば、かつて白人の黒人に対する人種差別を

国の政策として行なっていた南アフリカ共和国では

白人と黒人の居住地を分離し「背徳法」という

とんでもない法律で白人と黒人の通婚を禁止した。

なぜ、禁止したのか?

もし、白人と黒人の結婚によって子が生まれれば

外見上は「白人のような黒人」が生まれるかもしれない。

すると差別が完遂できなくなる。だから禁止したのだ。

日本人と朝鮮民族は外見上は見分けがつかない。

だから、もし差別を徹底しようと思うなら

朝鮮民族には日本語を教えず、日本名を名乗らせてはならない。

そんなことをしたら見分けがつかなくなり

差別できなくなるからだ。

逆に、差別を完全になくそうと思うならば

その一つの方法が、この逆をやることだ。

つまり、日本語と日本名を押しつければいい。

同化政策である。

そうすれば、完全に見分けがつかなくなるから差別の仕様がなくなる。

 

ただし、この方法には大きな問題がある。

前記の報告書がまさに指摘しているように

「民族独自の文化が決定的な打撃を受ける」ということだ。

つまり同化政策というのは「相手の民族文化の破壊」という点では

実は単純な「差別政策」よりもはるかに罪が重いのである。

近代の日本人の犯した最大の過ちというのが、実はこれであったと私は考えている。

つまり「皆が日本人になってしまえばいい。

そうすれば差別も不平等もなくなる」ということだ。

これと対照的な態度を取ったのが、イギリス人を代表とする白人勢力であった。

19から20世紀にかけての白人はアジア人を人間扱いしていなかった。

簡単に言えば「サル」だと考えていたのである。

日本人は知らない人が多いのだが、有名な「猿の惑星」という

映画に登場する「猿」は、原作者のフランス人、ピエール・ブール

(「戦場にかける橋」も彼の作品)の目から見た日本人なのである。

 

同じように、インドを植民地化したイギリス人もインド人を

「完全な人間」とは考えていなかった。

だからこそ彼等イギリス人は

インド人に「民族の言葉を捨てて英語を話せ」とか

「インド名はやめて英国人の名前にしろ」とは言わなかった。

「そんなことをすればサルと区別がつかなくなってしまう」からである。

もちろん「出来のいいサル」が英語を自分から学んで

それが役に立ちそうだったら、そこで初めて教育をする。

しかし決して同等の権利は与えない。

なぜならそんなことをすれば

「サルが“人間”であるイギリス人の上司」になってしまう。

つまり、まさに「猿の惑星」状態になってしまうからだ。

 

日本人はこういう白人の態度をよく知っていた。

そもそも「アヘン戦争」なども

そういうアジア人蔑視の感覚がなければ起こり得ない戦争だ。

そこで、日本人は明治維新を行ない

アジアの中でいち早く近代化すると

こうした道とは別の道を行こうと決意した。

平たく言えば、次のように考えたのだ。

「われわれは白人のようにアジア人を

人間以下などとは決して考えない。われわれは同胞だ。

だから、まず手始めに朝鮮民族と日本人の区別をなくしてしまおう」

 

たとえば、帝国陸軍には朝鮮出身の仕官がいた。

中には大佐や中将にまで昇進した人もいた。

イギリスではインド人が将官になり

イギリス人を部下にするなど絶対に有り得ないことだった。

それゆえに、ここが肝心だが

日本人は自分のやり方が絶対に正しい、と考えた。

その最大の根拠が「われわれは善意でやっている」ということだ。

白人はアジア人を差別しているのだから

その心情は「悪」であることは間違いない。

しかし、われわれ日本人は善意で物事を行なっているのだから

その政策もまったく正しい、と考えたのである。

 

この、考え方の「落とし穴」がわかって頂けるだろうか?

実は、前節で最大の「逆説」と言ったのはここのところなのである。

心情が「善意」でありさえすれば、それによって行われたことも必ず

「正しい」という「善意絶対主義」は実は大きな誤りなのである。

ところが日本にはこの

「善意絶対主義」を頭から信じ込んでいる人が余りにも多い。

だから、異民族との交流では、常にこの種の間違いを繰り返す。

 

ここでアイヌの話に戻そう。

松平定信は、ちょうど白人がアジア人に対するように

「アイヌは動物」だと考えていた。

とんでもない考え方だ。

「善」か「悪」かに分ければ明らかに「悪」であろう。

ところが皮肉なことに、実に皮肉なことに、であるがゆえに

「定信流」のやり方は、民族独自の文化は破壊しないのである。

もちろん、定信は「アイヌ文化」を尊重しているわけではない。

それどころか、その逆で「アイヌに文化などない」と確信していた。

しかし、だからこそ「アイヌを日本人にすることは出来ない」と考えた。

ならば、そういう「生物」の住む場所は

「荒れ地のままで放っておけ」ということになる。

 

つまり結果的にはアイヌの文化

あるいは生活には一切干渉しないということになる。

一方、最上徳内(もがみとくない)に代表される

「親アイヌ派」は、アイヌと交わり友ともなる。

それゆえに「アイヌには文化がある。

だから、日本人になれる素質もある」と考える。

徳内たちの心情を「善」か「悪」かで分類すれば

間違いなく「善」であろう。

少なくとも定信とはまったく正反対だ。

しかし、それゆえに「アイヌも日本人と同じになるべきだ」と考え

同化政策、すなわちアイヌ文化の徹底的な破壊へ向かっていくのである。

 

「地獄への道は善意の石畳で舗装されている」

とは、まさにこのことだろう。

このことわざを最近では

「善意があっても実行が伴わなければ意味がない」

と解釈する人もいるようだが

カール・マルクスが「資本論」で使用しているように

「良かれと思って(善意で)やったことが悪の結果を生む」

という意味が本来のものだろう。

 

では、どうすればよかったのか?

たとえば「日韓併合」をあくまで「対等の合併」とするならば

日本語と朝鮮語(韓国語)を両方とも公用語にしなければならなかった。

現代の国家でもベルギーやカナダで行われていることだ。

ただし、和人とアイヌでは人口の差があり過ぎるので

この方法は取れなかっただろう。

しかし、それでも、国語や歴史や音楽の授業に

アイヌ文化を取り入れることは可能だったはずだ。

 

では、なぜそういう立場が取れなかったのか。

もうお気付きかもしれないが

江戸時代から明治にかけての日本人は

たとえ最上徳内のような

「異文化理解派」であっても限界があったということだ。

それは「日本文化が最高のもの」という心情があるということだ。

だからこそ「(文化の)共有」ではなく「同化」が正しい

ということになってしまう。

 

ちなみに、アイヌ問題でもう一つ指摘しておかねばならないのは

やはりロシア帝国の影であろう。

日本の「開国史」は1853年(嘉永6:かえい)の

アメリカのペリー来航に始まると思っている人が多いが

実はロシアの公式使節アダム・ラクスマンが

1792年(寛政4)に根室に来ているのである。

蝦夷地(アイヌの土地)である根室にラクスマンが来たことが事態を複雑にした。

定信政権はとりあえずラクスマンを門前払いにして

問題を「先送り」にしたが「ロシアに北辺の地を奪われてなるものか」

と考えた日本人は、それを真剣に考えた人間ほど

アイヌの「日本人同化政策」に手を貸すことになる。

 

なぜなら「アイヌが(日本人)になれば

その住んでいる土地も自動的に日本国になる」からだ。

こうして、和人はロシアというライバルに負けまいと

積極的に同化政策を進めることになっていくのである。