天然記録 -82ページ目

 

 

↑より抜粋

 

慶応4年(1868)7月

江戸を東京と改称する詔(みことのり)が発令されたが

8月に入っても、明治天皇はまだ正式に即位していなかった。

先代の孝明天皇が亡くなって

ただちに明治天皇が即位したと思っている人は多く

歴史の専門家ですら間違えている人がいるが

慶応2年12月25日(和暦)に孝明天皇が崩御された後

皇太子であった睦仁(むつひと)親王(祐宮:さちのみや)は

践祚(せんそ)はしたが即位はしていない。

ちなみに践祚とは、内々に天皇の位を引き継ぐことで

そのことを内外に明らかにすることを即位という。

 

明治天皇は先代が亡くなって2年近くたつのに

即位はしていなかったのだ。

当然、即位に伴う改元も無かった。

本当なら約2年前に新天皇は即位し

元号を慶応から明治に改めるべきだったのだが

なぜこの時点でそれらがまだ行われていなかったのか?

 

崇徳(すとく)天皇の怨霊のタタリを恐れていたのである。

崇徳天皇(上皇)とは、どういう人物であったか

一言で言うなら「日本一の大魔王」として恐れられた天皇である。

保元(ほうげん)の乱(1156年)で

覇権をかけて後白河天皇(のち上皇)と戦ったが敗れ

遠く讃岐国(香川県)の地に流された。

しかし、己の行動を後悔し

都へ自ら写経した五部大乗経を送ったところ

(仏語。天台宗でいう、大乗の教法を説いたものとして選ばれた五部の経典

すなわち、華厳経、大集経、大品般若経(摩訶般若波羅蜜経)

法華経、涅槃経の五部。五部の大乗)

朝廷に突き返され、怒りのあまり

「皇(おう)を取って民とし、民を皇となさん」という

「天皇家を没落させる」という呪いの言葉を残して憤死した人物である。

そして、その「呪い」は実現した。

 

長寛(ちょうかん)2年(1164)8月26日に

配流(はいる)先の讃岐で崇徳上皇は無念の死を遂げたが

それから数年もたたないうちに卑しい身分であった武士出身の

平清盛が天下を牛耳るようになり

その平家が滅ぶと今度は源氏の世の中になった。

そしてその体制に反旗をひるがえした後鳥羽上皇は

何と武士たちの手によって島流しにされた。

まさに「天皇家は没落した」のである。

 

もちろん、多くの現代人は

「それは非科学的だ」と言うかもしれない。

しかし、問題はこの国の指導者あるいは知識階級で

朝廷側に立つ人々はこれを固く信じていたということなのだ。

今、キリスト教が多くの国々で信仰されていることは

紛れもない事実だが、キリスト教を信じるということは

科学的に考えたらあり得ない「奇蹟」を

神のみわざとして信じることである。

「そんなことはあり得ない」といくら科学で証明しても

信仰は揺るがないし

とくに過去においてはそうした信仰が歴史を動かして来たのだ。

日本も同じである。

 

怨霊信仰は朝廷(天皇や公家)側の信仰であって

幕府(将軍や武士)のものではない。

そこは注意が必要だが

だからこそ朝廷は、政権を失ったことを自らの責任だとは思わず

崇徳上皇の怨霊のせいだ、と考えたのである。

これがいかに固い信仰であったか

たとえば国民文学とも言える「太平記」には

世を乱す怨霊会議の主座として崇徳上皇が登場するし

江戸期を代表する文学「雨月(うげつ)物語」には

大怨霊崇徳上皇と西行(さいぎょう)法師の問答が語られている。

崇徳上皇(崇徳院)が

天皇家から政権を失わせた張本人だということは

「日本人の常識」だったのである。

しかし、幕末という時代は

幕府に奪われた政権がようやく朝廷に返って来た時期でもある。

そこで、朝廷は幕府が崩壊をし始めたころから

政権が確実に恒久的に(後醍醐天皇のような一時的なものではなく)

戻って来るように一大「霊的プロジェクト」を進めていた。

 

それは崇徳院の霊に詫びを入れ

その神霊に京都に帰還していただく

というものである。念のために言うが

これは朝廷の公式計画として立案・実行されたことで

そのことは宮内庁発行の公式記録である

「明治天皇紀」にも載せられている歴史的事実である。

この計画は既に孝明天皇の時代から進められていた。

崇徳院没後700年にあたる元治元年(1864)は

「禁門(蛤御門:はまぐりごもん)の変」が起きた年であった。

この時、長州はなぜ朝敵とされたか?

御所に向かって発砲したからである。

本来「御所への発砲」など起こってはいけない事態だ。

おわかりだろう。朝廷ではこういうことも含めて

「崇徳院のタタリ」と捉えていたのである。

 

怨霊は鎮魂されなければならない。

実は、こうした事態をすでに予測していた人物がいた。

国学者、中瑞雲斎(なかずいうんさい)である。

彼の名はあまり有名ではないが

実は朝廷に相当な影響力を持っていた学者だった。

明治になって国粋主義者による

横井小楠(よこいしょうなん)暗殺事件が起こったが

実はその黒幕として処刑された人物でもある。

 

中は崇徳院の怨霊鎮魂計画を

「まどのひとりごと」という書にまとめ

これを当時孝明帝の側近だった中川宮を通じて献上した。

一読した天皇は、ただちに計画の遂行を命じたが

間もなく「病死」してしまった。

ひょっとしたらこのことも

当時の朝廷関係者は「タタリ」と捉えたかもしれないが

そのためだろうと孝明帝の跡を継いだ

睦仁親王は践祚はしたが即位はせず、改元もしなかった。

ところが、大政奉還が行なわれ

どうやら天皇家の復権が確実になりつつあったこともあり

天皇はとうとう慶応4年8月に

大納言源道富(みちとみ)を勅使として讃岐へ派遣し

26日に御陵の前で宣命:せんみょう

(天皇のメッセージ)が読み上げられたのである。

 

この宣命の読み上げられた日付にご注目願いたい。

8月26日、そうそれは崇徳院の命日なのである。

つまり勅使一行は初めからこの日に

宣命を読み上げることを予定していたのだ。

そして、天皇はその翌日の27日正式に即位したのである。

もちろん、この頃は電話もメールも無いが

このような段取りがあらかじめ決められていたのだろう。

そして、この続きもある。

 

勅使は崇徳院の神霊を「輿」に乗せた。

いわゆる神輿だ。

これが海路を経て京に入ったのは、9月6日のことである。

ただちに神霊は京都の今出川に今もある白峯神宮に祀られた。

実はこの神宮はサッカーの守護神として業界では有名だ。

と言っても、崇徳院とサッカーが関係あるわけではない。

実はこの地は元来は

公家の飛鳥井家の守護神毬(まり)大明神を祀る地であった。

中級以下の公家には、家伝の仕事があって

飛鳥井家は蹴鞠(けまり)だったので

その守護神を祀っていた。

 

一方、朝廷は崇徳院の神霊をお迎えする場所を探していたが

洛中では程よい場所には神社仏閣が建っている。

どこかの神様に譲ってもらうしかない。

そこで選ばれたのが飛鳥井家(あすかいけ)だったのだ。

崇徳院の神霊が祀られる場所を提供し

毬大明神は摂社(付属の神社)という形で退いた。

そこでサッカー関係者が白峯神宮にお参りするという形が定着したのだ。

この間も白峯神宮に参拝してきたが

ちょうど高校のサッカー部の関係者が参拝していた。

それはいいのだが、彼らは本殿に参拝したものの

肝心の毬大明神には目もくれずに神社から出て行った。

毬大明神がお怒りにならなければいいのだが(笑)

 

話を戻そう。

では、正式に即位した明治天皇が

元号を明治と改めたのはいつなのか?

実は、この崇徳院が白峯神宮に遷座(せんざ)して

2日後の9月8日に新帝は元号を明治と改元しているのだ。

この間に何があったか、もうおわかりだろう。

新帝は実に700年ぶりに戻って来た

崇徳院の神霊を白峯神宮において参拝したのだ。

それを済ませてから、初めて元号を明治と改めたのである。

この甲斐あって、結果的に戊辰戦争は新政府つまり朝廷の勝利に終わる。

鎮魂は成功したのである。

 

謝罪と京への遷座

それをもって崇徳院は朝廷を呪う怨霊から

朝廷を守護する御霊(ごりょう)に変身した。

そして、それはこの国が生まれて以来

常に為政者(政治を行なう者)が心掛けていたことだった。

ちなみに崇徳院没後800年にあたる1964年

(昭和39年)は前回のオリンピックが開かれた年だ。

この年、昭和天皇は勅使をこの式年祭に派遣している。

その甲斐あってかオリンピックは無事開催された。

次回900年の式年祭は2064年である。

また東京と改称された江戸の守護神は神田明神で

この御祭神は平将門であった。

 

実は明治7年(1874)

住居を東京に移していた明治天皇は

ここを参拝しているが、神社側が反逆者(朝敵)の

将門を天皇に参拝して頂くのは畏れ多いと

将門を摂社に移して、主殿には代わりに皇室系の

スクナビコナノミコトが祀られた。

(現在は将門も主祭神に復帰)とされているが

そもそも明治天皇はなぜ神田明神へ参拝したのか?

東京の神社で天皇が参拝したのは

靖国神社の前身の東京招魂社(しょうこんしゃ)

と神田明神だけである。

 

思うに、東京を首都にするにあたって

将門の霊に挨拶し首都の長久を祈ったのではあるまいか。

そして、後の靖国に同時期に参拝したのは

これまでに怨霊信仰から一歩踏み出した新しい

「護国神道」とも言うべきものの構築が頭にあったのだろう。

明治、そして近代はここから始まったのである。

 

この巻おわり

 

 

 

 

 

↑より抜粋

 

慶応3年12月9日

この日は西暦では1868年1月3日であったが

この日、王政復古の大号令が発せられた。

脚本・出演、岩倉具視、共演、大久保利通、西郷隆盛の大陰謀である。

これによって、幕府も朝廷も、将軍はすでに無くなっていたが

関白も廃され、天皇中心の新政府が発足したのだ。

西暦では前年1867年に当たる慶応3年11月18日

坂本龍馬横死(おうし)の3日後の長州三田尻において

長州藩世子毛利広封(ひろあつ)と薩摩藩主島津茂久(もちひさ)

(毛利忠義、島津久光の子)が会議し

今後の両藩の軍事行動について申し合わせをした。

 

前に坂本龍馬が仲介した薩長の「合意」は軍事同盟というより

「薩長友好条約」だと述べたが

では、それがいつ軍事同盟に変わったかと言えば

この慶応3年11月18日の時点であろう。

薩長両藩に討幕の密勅が下されたからこそ

両藩が軍事行動について合意することが可能になったのだ。

王政復古を進めるにあたって

薩摩・長州あるいは土佐の行動だけが

クローズアップされるが、実は岩倉・大久保コンビは

他に芸州(げいしゅう)浅野家と尾張徳川家を味方に引き入れていた。

両藩とも勤皇の志篤く、徳川慶喜とは一線を画していたのである。

 

12月5日、岩倉と大久保はクーデターの手順を決めた。

まず3日後の8日に朝議を開かせる。

出席者の公家には慎重に根回しがされていたが

この会議で決めるべきは次の三箇条である。

 

① 毛利藩主父子の官位復活と正式な入京許可

② 三条実美ら五卿の赦免(しゃめん)

③ 岩倉具視ら勤皇派公家の処分解除

 

もちろん、反対派もいるから朝議は紛糾(ふんきゅう)した。

だが結果的に岩倉らの思惑通りになったのは

実は慶喜の方に致命的ミスがあったからだと言われている。

 

この朝議には、いわゆる「一会桑(いつかいそう)」

つまり徳川慶喜、松平容保:かたもり(会津藩主京都守護職)

松平定敬:さだあき(桑名藩主京都所司代)の

三者も呼ばれていたのだが、慶喜の判断で全員が欠席した。

そのために朝議は岩倉らの思惑通り

前記三項目を決定してしまったのだ。

王政復古はこの後、この朝議の結果

宮中に入ることを許された岩倉によって行われたのだから。

にもかかわらず、慶喜は最大のチャンスを見送った。

いったいなぜそんなバカなことをしたのか?

これは実は幕末維新史の大きな謎の一つでもある。

 

通説的に言われているのは慶喜が

この朝議への招集を倒幕派の策略だと考えていたという解釈だ。

つまり、のこのこ宮中に出かけて行って

倒幕派に身柄を拘束されるのを恐れたというものだ。

確かにこの時宮中は、岩倉、大久保の画策によって

薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の藩兵で固められていた。

(長州はまだ上洛を許可されていない)

しかし、土佐は慶喜に同情的だし、尾張、越前は親藩でもある。

それゆえ薩摩が突出して慶喜を拘束あるいは暗殺出来たとは考えにくい。

 

もっとも、慶喜がそれだけ恐れたのは

「討幕の密勅」が薩摩藩に下されたことを察知したからかもしれない。

通説では慶喜はこの密勅の存在を知らなかったことになっている。

しかし、密勅(天皇の秘密指令)とは言いながら

薩摩藩内ではこれが倒幕反対派の説得材料に使われたのだから

密勅が出されたこと、あるいはその具体的な内容も

情報として慶喜に伝わっていた可能性は無いとは言えない。

そしてその内容とは「幕府を倒せ」ではなく

「慶喜をぶち殺せ」なのだから

慶喜が宮中での暗殺を恐れても不思議は無い。

いや、天皇の命令を実行することは暗殺では無い。

堂々たる正義である。

とにかく客観的事実だけを述べれば

「慶喜らは朝議に参加する権利があったのに

それを放棄し、岩倉らの陰謀を成功させてしまった」のである。

 

 

そして、昨日まで参内を許されていなかった岩倉が

用意しておいた王政復古令の文書を宮中に持ち込んだ。

まだ少年の面影を残す明治天皇の側近は

ほとんどすべて倒幕派で固められている。

岩倉から文書の入った筥(はこ)を受け取った天皇は

ただちに小御所(こごしょ)に入り「王政復古の大号令」を発した。

 

天皇は神だ。だから、その命令は絶対で

ここにおいて江戸時代という、いや前近代の悪習とも言うべき

身分制度がすべて吹き飛んだ。

倒幕派にしてみれば、これからは天皇の名のもとに

自分たちの方向性に沿う形で

天皇の側近を選び、事を運んでいけばいいわけである。

 

これが若き天皇が自ら思い立ったことではないことは

前後の事情から見てあきらかだ。

孝明天皇が亡くなった後に、政治情況が180度転換したこと

たとえば長州藩が復権し会津藩が朝敵とされたように

それがこの時期の政治の実相であった。

 

この小御所会議の前に王政復古の大号令が発せられたはずだが

そこには今後「摂関幕府等廃絶」とある。

「摂関」は狭義では「摂政と関白」という意味だが

「幕府」と並べられているのだから

ここは「朝廷」(とそれに伴う官位制度)という意味だろう。

とすると、大号令が発せられた時点で

内大臣という職もこの世から無くなるはずで

その後の会議で「徳川慶喜に内大臣を辞めさせる」

ということが議題になるはずが無いのである。

私より先にこの大矛盾に気がついた歴史学者の

佐々木克(すぐる)京都大学名誉教授は

次のように述べている。

 

通説ではこの日

「王政復古の大号令」が発せられたことになっているが

わたしは違うと思う。

いまみてきたように「大号令」の内容

「将軍職辞退」が小御所会議で議論されているからである。

会議が終わったのが深夜12時を過ぎていたから

会議のすぐ後で発せられたのでもない。

(「岩倉具視」佐々木克著)

 

佐々木氏説以前の学者という学者が

なぜ「王政復古の大号令→小御所会議」という

順序にいささかも疑問を持たなかったのか、という疑問である。

「記録や史料にそう書かれているのだろう」

と思うかもしれないが、実は違う。

 

天皇が御学問所に出御し

正親町三条(おおぎまちさんじょうら)を召し

(宮・公家の全員か否か不明で武家は呼ばれていない)

尽力するようにとの勅語があった。

ただしこの際の勅の内容についての詳しい記録は残っていない。

これまで、この勅が「王政復古の大号令」であるとされてきたが

それは間違いであろう。

この日参内した者とその関係者が残した記録のいずれにも

どこにも、この日の「王政復古の大号令」があったことを

記録したものはない。

(「岩倉具視」佐々木克著)

 

実際は、佐々木教授も指摘しているように

小御所会議の前に出された

「勅の内容についての詳しい記録は残っていない」のである。

史料は国の公式発表だけでは無い。

明治以降は公家の回顧録など出版されているが

そうしたものにすら何の証言も残っていないのは

実に不思議なことではないか。

もし、この勅が本当に発表されたとおりの

「大号令」であったとすれば、それは歴史的瞬間であり

立ち会った人間の証言が後世に残されても不思議では無い。

だが、そうなっていない。

 

翌日、松平春嶽(しゅんがく)と徳川慶勝(よしかつ)は

京の二条城にいた慶喜を訪ね

朝廷いや「新政府」の意向を伝えた。

慶喜は、領地の一部を返上ではなく

「新政府」のために献上する、と答えた。

「返上」というと正式な権利も無く

所持していたものを返還するというニュアンスだから

「献上」つまり自分のものを自分の意思で

差し上げるという形に拘ったのだ。

また、将軍職辞任が正式に認められたことは

もともと自分から申し出たことだから異存は無いが

内大臣については辞職はするがそれに伴う

「位階(正二位)」については

返上するつもりが無いと答えた。

 

二条城を退去することも承諾した。

これはとくに春嶽らが望んだわけでは無いようだが

慶喜にしてみれば将軍職を辞した時点で

いかに徳川家の持ち城とは言え、洛中(らくちゅう)に

兵と共に駐屯しているのは畏れ多いという判断があったのかもしれない。

基地としては近くに大坂城があるから何の問題も無いのだ。

春嶽はほっとして、役目を果たせたと思ったようだが

何しろ「二心殿:にしんどの(ころころ変わる)」と

揶揄された慶喜のことだ。

腹に一物あったのは言うまでも無い。

12月になって慶喜は多数の旧幕府兵と共に二条城を退去した。

「前(さきの)内大臣」というのが、いまや慶喜の肩書であった。

 

余談だが、大政奉還からこの退去までの間の二条城が

よく映画やテレビドラマに出てくるが

よく見ると屋根瓦がすでに「菊紋」になってしまっている映像が多い。

この時点では「三つ葉葵」でなければおかしい。

今のように菊紋になったのは、これ以降ことである。

 

 

すでに二代光圀(水戸黄門)が

「将軍家は親戚頭、天皇家は主君、ここを間違うではないぞ」

という意味のことを言っているし

他の大名ではまったく禁じられていた

公家とも通婚も堂々と行われていた。

きわめつけが慶喜の母は吉子(よしこ)女王なのである。

父斉昭(なりあき)も天皇家絶対主義だ。

つまり慶喜は生まれた時から、父母によって

「天皇家絶対主義」の教育を受けたということだ。

 

では、そういう教育を受けた慶喜にとって

最大の罪、もっとも避けるべき事態は何か?

「朝敵(天皇家の敵)となること」である。

 

「話には聞いたことがあるが見たことは無い」

それが「天皇軍」すなわち「官軍」であることを示す錦旗

いわゆる「錦の旗」というものであった。

では、どんな「話」に出てくるかといえば「太平記」である。

ところで「太平記」には、錦の御旗とは

「月日(げつじつ)を金銀にて打ち着(つけ)たる」旗とある。

じつは「十六花弁の菊紋を打つ」とは書いていないのである。

しかし、岩倉が作らせた旗は「月」と「日輪」の一対ではなく

共に赤地の錦に金色の十六花弁菊紋を打ち出したものだった。

(異説もある)

 

単なる「月日旗」では相当に歴史に詳しい人間でないと

「天皇軍の旗印」ということはわからない。

そこで、もっとわかりやすいデザインにすることを考えた。

おそらく岩倉が

「もっと誰でもわかる意匠(いしょう)にしろ」と命じ

「それなら菊の御紋章を強調すれば良い」

と故事に詳しい玉松操(たままつみさお)が設計図を考えたのだろう。

王政復古の勅の文章を起草(きそう)したのも玉松だ。

もちろん、岩倉は大久保とも相談の上だった。

 

「錦の御旗」などというものは一般庶民は知らないのである。

当然「あの旗は何?」という疑問を

官軍の行進を見て誰もが抱く。

その疑問にこの一番の歌詞は見事に答えている。

この歌は「日本最初の軍歌」とどんな事典にも記載してある。

確かに官軍は日本初の鼓笛隊(軍楽隊)が

この曲を演奏しながら行軍したのだから

「軍歌」であり「行進曲(マーチ)であることは

間違いないのだが、私はむしろこれを

「日本初のPRソング」として評価したい。

 

 

家康の「保険」は

「水戸出身者は将軍とはならず、あくまで天皇家のために戦う」

ということが基本になっているのに

水戸家出身者が将軍になってしまえばどうしようもない。

「台無し」という意味はおわかりだろう。

以上のような考察を、専門学者は否定する。

「史料が無い」からだ。

仮に百歩譲って「家康の保険」は存在しなかったとしても

水戸家が勤皇の家柄であったことは動かない。

 

では、慶喜に対して「お前は朝敵になったのだぞ」

と思い知らせる一番良い方法は何か?

それは「あれは朝敵、征伐せよとの錦の旗」である。

教養人でもある慶喜は当然「太平記」は読んでいるはずだ。

この時代、武士そして勤皇家としての基本教育は

まず「太平記」を読むことである。

ならば「トコトンヤレ節」が無くても

この「強力兵器」は慶喜にとって

「致命傷」を与えるものになるはずだと岩倉は予測した。

そして、その通りになった。

同時代の史料や明治以降の回想録には書かれていないが

この1月4日に錦の御旗が立てられたということを知った慶喜は

この時点で「全面降伏」を決心したと、私は考えている。

 

江戸城を薩長に明け渡した徳川慶喜もまた

なお半世紀の余生を送っている。

あれだけ、多くの秀れた幕臣を、死に追いやり

上野山内を、彰義隊(しょうぎたい)の

若い血汐(ちしお)で染めさせ、会津若松では

今だ15、6歳の少年たちを切腹させておきながら

忠誠を誓わせた総帥(そうすい)たる15代将軍職に在った者が

のうのうと生きのびたことを、私は軽蔑する。

徳川慶喜は、江戸城内に於て(おいて)

割腹自殺すべきだったのである。

(「生きざま」柴田錬三郎著)

 

「切腹すべきだった」などと言われると

意表を突かれたような奇妙な感覚がするだろう。

しかし「武士の世界の常識」に沿って考えるなら

むしろ柴田錬三郎の言っていることの方が正しいのである。

「江戸城無血開城」と言えば聞こえはいいが

これは敵に一矢も報いず城も無傷で渡したということだ。

 

私は、慶喜が「薩長(つまり官軍)にもう抵抗はしない」

と決心したのは、鳥羽・伏見の戦いの緒戦で負けて

追い打ちをかけるように官軍の先頭に

錦の御旗がひるがえった時だと思っている。

しかし、後の回想を読むと

「それ以前にすでに戦うつもりは無かった」

と慶喜は言っている。

だが、それは信じられない。

「もし慶喜に戦意がなかったことが当人の言葉通りだったとしたら

会津・桑名両藩兵と幕府歩兵隊を主力とした軍勢は

自分たちで勝手に進撃し

まったくムダに命を落としたことになってしまうからである。

 

慶喜はあきらかにウソをついている。

それも、自分のために戦って死んだ人々の霊を

貶(おとし)めるようなとんでもないウソだ。

その理由を知るためにも「なぜ切腹しなかったのか?」

を徹底的に追及する必要がある。

前節で述べたように「朝敵にされてしまった!

このまま死ねば朝敵の汚名を着たまま歴史に残ってしまう。

だから絶対に死なない。朝敵の汚名が晴らされる日までは」

ということなのである。

 

慶喜の価値観では

先祖伝来の江戸城を明け渡すことよりも

朝敵の汚名を晴らさずに死ぬことの方が

はるかにご先祖様に対して申し訳が立たない、のである。

また、武門の棟梁(とうりょう)としては

自分のために死んでくれた人々の名誉を

傷つけるようなことは絶対にしてはならないのだが

これも慶喜の場合は朝敵の汚名を晴らすためなら

許されるのである。

だから平然とウソをつく。

 

もう一つ、私の知る限り歴史家すら気がついていない盲点を述べよう。

それは、江戸城無血開城がなぜ成功したか、ということである。

「決まってるじゃないか—

それは一代の英傑(えいけつ)である勝と西郷が—」

という答えが返ってくるだろうが、ちょっと待っていただきたい。

私が指摘したいのは、その前提条件である。

西郷では無く、勝海舟の方だ。

前提条件というのは

勝が「幕府全権大使」にいかにしてなったか

ということである。

確かに勝はきわめて優秀な男だ。

この時期、勝以外にこの交渉をまとめられる人間はいなかっただろう。

だが、いかに勝とて、この交渉に関してすべてを一任されなければ

交渉をまとめることなど到底できなかったろう。

このことについては旗本のほとんどが反対だったと言っていい。

しかし、勝が交渉に乗り出した時には

勝に対抗しうる反対派の大物

たとえば小栗忠順(ただまさ)などは

すべて要職からしりぞけられていた。

だからこそ、勝は成功したのだ。

 

では、この条件を整備したのは誰か?

慶喜ではないか。勝に全権を与えたのも

最大の障害になるはずだった小栗を

罷免(ひめん)したのも慶喜なのである。

ここで思い出していただきたい。

慶喜のあだ名は何であったか?

「二心殿」ではないか。

「態度がころころ変わる」という意味である。

しかし本来の「二心殿」なら、小栗を罷免したりせず

いわば両面作戦を取っただろう。

「二心」ということは、選択肢は減らさない。

ということだ。

 

小栗は「温存」しておいて勝の交渉が失敗したら

再び小栗を軍事責任者に据えて

官軍と徹底的に戦うという選択肢もあった。

本来ならそういうやり方を取るのが

「二心殿」こと慶喜にふさわしい。

しかし、慶喜はあくまで武力抵抗を唱える小栗派を

小栗を直接クビにするという

過激な方法でしりぞけ、禍根(かこん)を断っている。

これでは「二心」どころか「一心殿」ではないか。

そう、「一心殿」なのである。

 

謀略を仕掛けた側の岩倉や大久保にとっては

この錦旗投入は絶妙のタイミングだった。

すでに述べたように、慶喜から見て敵が錦旗を立てようと

戦争で負けていなければ、木戸孝允(たかよし)のように

「玉(天皇)を手に入れれば良い」と聞き直る選択肢もあった。

だが、滝川や竹中といった戦国以来の名門の連中がぶざまに負けた。

同じ、三河以来の名門である小栗も

この時慶喜の信頼を失ったのだろう。

 

慶喜は名門の出身だから

本来は滝川や竹中や小栗といった人々の方に

親近感を持っていたに違いない。

これに対して勝は、三代前は町人で成り上がりもいいところだ。

好き嫌いで言えば慶喜は勝が嫌いだったろう。

しかしここが慶喜の政治センスの優れているところなのだが

嫌いということと役に立つということは別だ。

これ以上絶対に傷口を広げず最終的に朝敵の汚名を晴らすためには

この勝海舟という男にゲタを預けるしかないと思い定めたのだろう。

 

一方、慶喜のそういう思いは切れ者には読めただろうし

願ってもないことだった。

「日本人勝海舟」は薩長と徳川が江戸で闘うことなど

外国を利するだけだと思っている。

通常の手段ではそれを防ぐ方法は無い。

しかし、動機はどうであれ総大将の慶喜が徹底恭順してくれるなら

決戦を防ぐことは可能になるかもしれない。

つまりこの大目的のために慶喜は利用できる、ということだ。

しかも、これは徳川家の将来にとっても良いことだ。

主家を裏切るのでは無く、むしろ生かす道だ。

かくして、勝、西郷のコンビ以前に

勝と慶喜のコンビが成立していた。

この点に気がつかないと

このあたりの時代の流れは読めないと、私は考えている。

ずっと後年の明治31年(1898)2月に

朝鮮国の大院君:だいいんくん(李氏朝鮮末期の王族、政治家)

李昰応(イハウン)が亡くなった時

勝は追悼の言葉の中で次のように述べている。

 

同君はかつておれを、東海の英傑(えいけつ)だといつて

朝廷には誠忠をもつて事(つか)へ

徳川氏の宗廟(そうびょう)を絶やさないように処置した功績は

千載不朽だと賞(ほ)めてくれた‥‥‥

(「氷川清話」勝海舟)

 

これが勝にとっては生涯最大の誇りだったと私は考えている。

そして、この大院君死去直後の同じ年の3月2日

勝の生涯最後の大仕事が成就(じょうじゅ)した。

明治天皇御夫妻が宮中に

慶喜夫妻を招き親しく懇談したのである。

ここにおいて慶喜の朝敵の汚名は完全に晴らされた。

 

最晩年の力を使い果たした勝は

翌明治32年(1899)

満75歳で死んだ。

 

 

ロス茶が新政府軍と幕府軍に資金を貸して

大儲けしてしていると分かると

今、対抗に見せかけているBRICSも

デジタル移行の反発を防ぐための両建て

 

 

イーロンは悪魔の記号のXでヒーローには思えない

 

 

仮想通貨はデジタル誘導と思う

暴落して自己破産しても

税金は払い続けなければならないおかしなルール

あらゆる投資は日本人の資金吸い上げ作戦にしか思えません

彼らはいい事言ってリーマンショックを例にすると

サブプライムローンを組んでいた人をホームレスにしている

この資本主義社会を終わらせる移行期間なのに儲け話はたぶん詐欺

昔の幕府軍みたいに裏切られて借金背負わされる可能性有り

電力も相当な環境汚染と人体に悪影響で

その電力をいつでも止められるのも彼ら

その時デジタル通貨は何も役にも立たなくなる

そうならないように最終的には人体を電子化して

最終ゴールは悪魔にスコアを付けられるディストピア

銀行は潰れてもいくらかまでは保証があるし

データのバックアップもしているみたいなので

保証額までを分散して預けていた方が安全と思う

 

そもそもそんなに深刻にならなくても死ぬのは怖くないそうで

ここは善も悪もグルで仕組まれた

仮想現実なんだと思わないとやってられない

悪があるのも考えさせるためのお役目らしい

 

 

↑より抜粋

 

さて、孝明天皇の死から討幕の密勅まで

すなわち慶応2年12月から、3年10月(西暦ではともに1867年)

の10か月余りの間に、実は幕府は薩摩蕃との闘争で「敗北」を喫している。

このことは、これまであまり重視されていなかったように思うが

実はきわめて重大なことだ。

それはオリンピック招致のためのプレゼンテーション合戦のようなものである。

この国際舞台での「プレゼン合戦」で、幕府は薩摩藩に手痛い敗北を喫した。

そして、それは単に宣伝戦で負けたことにとどまらず

あえて言えばこの翌年1867年に戦われた

戊辰(ぼしん)戦争の勝敗をも左右する出来事だったのだ。

(王政復古を経て新政府を樹立した

薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と

旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)

が戦った日本近代史上最大の内戦。

名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。)

 

1867年、パリで開かれた国際万博博覧会である。

日本改革においては幕府が主導権を握るべきだと信ずる

幕臣小栗忠順(おぐりただまさ)は、フランスの援助を仰いで

幕府の近代化を一足先に実現することによって

それを成功させようと考えた。

家茂の将軍の時代からフランスの援助で横須賀造船所を建設するなど

この政策はうまくいっていたし、フランス公使のレオン・ロッシュも

幕府に協力的であったことはすでに述べた。

 

そして小栗はロッシュのアドバイスもありフランスの経済界から

大規模な借款:しゃっかん(国際間の長期資金の貸借)を受け

それを幕府立て直しの資金とすることにした。

これにはフランス財界も乗り気になり、大物の銀行家

フルーリ・エラールが代理人を日本に派遣し

小栗との間に約600万ドルの借款契約

(おそらく仮契約と思われる)が成立した。

もちろん、契約の主体は幕府とフランス財界である。

600万ドルもの借金をどうやって返すのかと言えば

それまでバラバラに売られていた生糸(絹)の専売制を

確立した利益を独占する計画だった。

ただ滑稽なことには

朱子学に毒された幕府は生糸の全国総生産量すら把握していなかった。

そんなことにかかわれば

「幕府が賤業(せんぎょう)である商売をやる」

ことになってしまうからだ。

(賤業:社会的に低い地位や評価を持つ職業や仕事のことを指す)

 

しかし、さすがに小栗はそんな「朱子学バカ」では無かった。

日本産の絹は品質が良く、特に海外では高値で売れる。

言ってみれば、これが小栗の幕府再建の切り札であった。

そして、その路線をまっとうするために、小栗がもう一つ力を入れた計画は

パリ万博に幕府が「日本館」を出展することだった。

今と同じで、万博というのはその年にいきなり始まるわけではない。

つまり準備期間を持てる。

しかもヨーロッパ列強やアメリカが参加するから

日本の中央政府が幕府であると宣伝するには格好の場である。

 

(小栗日記によると)小栗は慶応3年正月9日から11日まで

2泊3日「横浜御用」のため出張している。

これはパリ万博博覧会に徳川慶喜の名代として列席する

民部大輔昭武(慶喜の実弟)を見送りのためであったと思われる。

昭武(あきたけ)はパリ万博後西欧列国を歴訪

その後はパリに留学する予定であった。

 

小栗がいかにこの使節に期待を持っていたかがわかる。

将軍家茂が死に慶喜に代替わりはしていたが

慶喜もフランスと協力関係を強化することに異存は無い。

ロッシュをとおして贈られたナポレオン3世からの

軍服を着込んで悦に入っていたことを思い出していただきたい。

 

 

当時、日本からフランスに行くのは香港経由で3か月にも及ぶ長旅だった。

インド、エジプトを経てマルセイユに上陸したのは4月のことだった。

随行員の中には後に明治財界の大立社となる渋沢栄一もいた。

ところが、一行はパリに着いてみて仰天した。

腰を抜かさんばかりの驚きと言っていいだろう。

なんと万博会場には薩摩藩も「パビリオン」を立ち上げていたのである。

自分たちは「琉球王国」の代表であるというのが、薩摩の言い分であった。

そして、幕府の一行が会場に行ってみると

さらにとんでもないことになっていた。

 

日本館と向かい合って琉球館が建っていた。

掲げられていた表札に驚愕また激怒。

政府出品物の上に

「日本」と記して日の丸の旗を立てているのはともかく

征夷大将軍の称号の他になんと

「関東太守」と書いてあるではないか。

薩摩の方には「日本」に続いて「薩摩太守」とあり

丸に十字の旗が立っている。

おわかりだろうか?

これでは日本国という一つの国の中で

徳川家と島津家が「太守」として並立していることになってしまう。

つまり、幕府は日本国の唯一にして正統な政府では無いことになる。

もちろん、それが薩摩の狙いだったのだ。

国際社会において幕府の信用を失墜させるための大陰謀である。

 

これは見事に成功した。

幕府は当然猛烈に抗議したのだが、何しろ

「薩摩太守館」は既に出来上がってしまっている。

主催者が参加「国」同士の争いを好まないのは、今も昔も同じだ。

そのうち「両者が争っている」という新聞報道がなされ

ますます「両者が対等」というイメージがフランスに

そして国際社会に広がってしまった。

その結果、深刻な影響があった。

600万ドルの借款が煙のように消えてしまったのである。

契約をしたにもかかわらず

フランス財界がそっぽを向き破談になってしまったのだ。

勝海舟によれば(これは悪口の可能性があるが)

この時小栗は腰を抜かしたという。

 

この借款計画が潰れたのは

これまではフランスの政界の変化によるものだとされてきた。

確かにフランス本国は

ロッシュのあまりの内政干渉的な幕府への肩入れに

不満を抱いていたという事実はあった。

すでにこの時

本国の外務省ではロッシュを更迭すべきだという議論もあった。

当然、フランス財界のフルーリ・エラールらも

そうした動きに影響は受けただろう。

しかし、この時点でフランスはほぼ現代と同じ近代国家なのである。

政界の思惑がどうであろうと、財界は財界の論理で動く。

その論理は「投資対象として日本は適格か」であろう。

「儲かるか、儲からないか」と言ってもいい。

 

その論理を当てはめれば、この薩摩蕃の万博参加が

いかに幕府に大打撃を与えたかわかるだろう。

エラールは当初小栗の計画に大乗り気だった。

600万ドル投資しても見返りは大きいと思ったからこそ

代理人を派遣して契約に踏み切ったのだろう。

しかし、それは幕府が唯一の中央政府であり

生糸の専売化も可能であるという前提のもとにだ。

だが、薩摩は万博という舞台において

実体以上に自分を大きく見せ幕府をおとしめた。

その結果、フランス財界は手を引いた。

つまりこれは薩摩の大勝利なのである。

 

明治になって、日本が日露戦争を戦った時、その勝因の一つに

外債つまり外国からの借金の募集がうまくいったことが挙げられる。

日本政府はこれで軍資金を調達することが出来た。

この時、幕府はそれとは完全に逆の事態に追い込まれたのである。

それにしても薩摩は

なぜこんなにも見事に幕府を出し抜くことが出来たのか?

渡航するだけでも3か月かかるパリの地に

幕府に先んじてパビリオンを建設していたのだ。

つまり、これは情報戦においても

薩摩は幕府に勝っていたということだ。

 

では、この薩摩にとっての快挙の立役者は誰か?

藩士の五代才助(後の友厚:ともあつ)であろう。

まさに商才に富んでいた五代は

高杉晋作らと上海に行ったことで、さらに国際感覚を磨いていた。

その五代と親しかったのが

フランス人伯爵シャルル・ド・モンブランである。

混乱期には、一種の怪人物が登場するが

このモンブランもその一人で、安政5年(1858)

25歳の時に早くも来日し、日本とフランスの関係強化のために

最初は幕府側に立って活動した。

 

しかし、どうも幕府の役人とは反りが合わなかったらしく

そのうち薩摩と親交を深めるようになった。

その窓口でもあったのが五代なのである。

薩摩は、パリ万博に対処するため、モンブランを代理人に指名した。

モンブランはその期待に見事応えた。

「日本館」の向かいに「薩摩館」を建てたのも

徳川家を「関東太守」、島津家を「薩摩太守」と呼ばせたのも

国際情勢と日本の国内事情を知りつくしていた

彼のアイデアであったと考えられる。

幕府の猛抗議が新聞に漏れ

結果的に幕府と薩摩藩が対等のような印象を国際社会に与えたのも

「代理人」としてのモンブランの働きだろう。

情報収集で機先(きせん)を制し

事情通の代理人を雇うことによって

見事に「プレゼン合戦」に勝利した薩摩は

幕府の切り札ともいうべき戦費調達計画を挫折させたのである。

 

 

 

国境は関係ない悪魔の血族

アジア担当はり家との事

どこからか天皇の政治がダメで戦国時代になり

徳川の時代は2代目から徐々に乗っ取られてたのかも

そもそも天皇・貴族(支配者)って良いものなの?

 

 

↑より抜粋

 

慶喜(よしのぶ)が将軍となり体制を一新した

パリ万博にも使節を派遣しようと精力的に動いていたころ

宮中でとんでもない事態が進行していた。

孝明天皇が病に倒れたのである。

しかも、その病気とはなんと痘瘡:とうそう(天然痘)であった。

この時代、すでに種痘(しゅとう)という予防接種は普及していた。

蘭方医たちがこぞって奨励したからである。

種痘を施していれば天然痘には感染しないが

していなければ感染し死ぬことになるし

助かっても顔に醜い痘痕が残る。

小豆状の黒いデキモノが顔一面に残ることになる。

種痘は今でもそうだが、いわゆる「注射」の中ではもっとも簡便な方法で出来る。

万一感染することを考えたら、やっておくのが当然だと多くの人々が考えた。

幕府や諸藩も種痘に予算をつけて種痘所を開設させ

感染者を減らすことに努めた。

 

ところが、そうしたことをまったく行わない人々もいた。

朝廷関係者である。

天皇と公家と言ってもいい。

理由は簡単で、種痘は牛の血の混じった膿(うみ)で作るのだか

「ケモノの血液」などというものはケガレの極致だからだ。

この神国日本でもっとも清浄なる存在の天皇に

そんなものを施すことが出来ると考えた者は一人もいなかった。

それに、当の天皇自身がそのようなケガレに触れることを嫌った。

もちろん天皇は「九重(ここのえ)の内」とも呼ばれる御所にいて

外出はほとんどしないから、免疫も無い。

一方、公家たちも一部の開明派を除いて種痘などしないから

彼らや子弟には感染し発病するものも出て来る。

そういう人間が御所に出入りしているのだから

天皇は常に感染の危険にさらされていたことは事実だ。

 

確認されたのは、慶喜が将軍に就任して10日ほど経過したころだ。

日本年号では慶応2年の12月だった。

ところが、最初医師団の公式発表は

天然痘ではあるが経過は良好というものだった。

これが12月17日のことだ。

天皇がもっともお気に入りの武家である

京都守護職松平容保(かたもり)も

天皇が「お加減が悪い」ということは把握していた。

しかし、まさかそのような重病だとは誰も知らされていなかったのである。

その証拠に、容保ですら見舞いに類する行為は一切していない。

ところが、それから10日余り

暮れも押しつまった12月25日に容態が急変し

その夜にはなんと崩御(ほうぎょ)されてしまったのである。

宝算:ほうさん(享年)36歳という若さであった。

 

この知らせは多くの人にとって寝耳に水であった。

京都御所を守る立場の容保ですらそうだったのだから

後は推して知るべし、であろう。

結論から言えば、孝明天皇の急死は大きく歴史を変えた。

天皇は大の長州嫌いであった。

だから、天皇が存命ならば

長州が朝敵の「汚名を返上」することは

まず有り得なかったろう。

一方、会津は天皇の大のお気に入りであったから

この後、戊辰(ぼしん)戦争で朝敵とされることなど有り得なかったと言える。

天皇は会津藩主である松平容保に親書を送り

その忠義を褒め讃えているのである。

徳川一門である容保をそれだけ信頼しているのだから

幕府を倒す(倒幕)という行為に踏み切るつもりもまったく無かった。

つまり、孝明天皇の急死が無ければ、この後の「倒幕の密勅(みっちょく)」や

「王政復古(ふっこ)の大号令」なども有り得ないのである。

 

王政復古とは

すべて古代の天皇が新政をしていたころに戻すということであって

それゆえ関白も大臣も幕府も廃されることになるから

結果的には「御一新(ごいっしん)」になりすべて新しくなるわけだ。

しかし、孝明天皇は公武合体こそ正しい信念を持っていたから

仮にこの後新政府が作られたとしても「徳川抜き」

つまり倒幕路線に行くことは有り得ないのである。

しかし、実際の歴史はこれら「有り得ない」ことがすべて実現した。

 

それというのも、孝明天皇が亡くなり

熱烈な長州支持派の中山家出身の女性が産んだ子

祐宮 ( さちのみや )が明治天皇となったからである。

孝明天皇には他に男子はいなかった。

もし、他に「公武合体派」の有力な親王でもいたとしたら

孝明天皇が亡くなっても倒幕路線になるかは予想出来ない。

しかし、実際には中山家の血を引く祐宮しかいなかった。

従って、孝明天皇に「万一のこと」があれば

朝廷を倒幕路線に変えられるということは

少し朝廷の事情を知っている者なら、誰でも予測出来たのである。

そこで、孝明天皇の急死直後から黒い噂がささやかれた。

「本当に病死なのか」ということである。

孝明天皇の急死について、イギリスの外交官アーネスト・サトウは

次のように回想している。

 

数年後に、その間の消息に通じている一日本人が

私に確言したところによると毒殺されたのだという。

このミカドは、外国人に対し

いかなる譲歩をなすことにも断固として反対してきた。

そのため、きたるべき幕府の崩壊によって

否が応でも朝廷が西欧諸国との関係に

当面しなければならなくなるのを予見した

一部の人々に殺されたというのだ。

 

この回想録は彼の母国イギリスで出版されたものだ。

ということは、日本人が日本国内で発表するのとは違い

そういう本では絶対に書けない「真実」も書けたのだ、と一応は言える。

しかし、読んでみればわかるとおり

これはあくまで伝聞であって、直接証言では無い。

確実に言えることは

「当時、孝明天皇の死を天然痘による病死では無く

毒殺と堅く信じていた日本人(それも重要人物)がいた」

ということだけである。

 

その上、病状の進行に疑問点があった。

当初、天皇への診断は天然痘だが回復は順調であると発表されていた。

ところが、突然容態が急変し、体中から出血して死んだ。

なぜ天然痘なのに「出血死」したのか。

置毒(ちどく)されたのではないか、と考えられたのである。

明治維新から戦前つまり昭和20年(1945)までは

不敬罪も存在し、このことを声高に主張する人は少なかったが

長州出身の伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)は

「伊藤の罪」として「孝明天皇暗殺」を挙げているから

埋もれた史実でも無かった。

 

戦後になって皇室に対する言論が自由になると

さっそく左翼系学者のねずまさし氏が数本の論文を発表した。

「天皇は暗殺された、犯人は岩倉具視とその妹

(天皇の玉体に近づくことが可能な)堀河紀子(もとこ)である」

という主旨である。

これはイデオロギーの立場を越えた学問的な価値があり

後に少なからぬ学者がこの論文の主旨を継承した。

つまり「孝明天皇毒殺説」は決して「トンデモ学説」では無い。

一つの有力な見解として学界に受け入れられたのだ。

ちなみに、孝明天皇暗殺説には毒殺ではなく刺殺説もあるのだが

この点に関しては信頼出来る史料がまったく無く

それが本当ならアーネスト・サトウは

「毒殺」ではなく「刺殺」と聞いたはずで

何日も寝込んだ後に死んだ状況とも合わないので無視していいだろう。

 

そもそも感染者が宮中に入れたこと自体変な話で

ここは学界の「奮起」を期待したいところだ。

 

1867年、日本年号ではまだ慶応2年12月までに

立て続けに起こった大事件、将軍家茂の死と孝明天皇の死は

幕府の屋台骨を根幹からゆるがすものだった。

この天皇と将軍は義兄弟(天皇の妹和宮の夫が家茂)

だったことを思い出していただきたい。

2人は公武一和(合体)論の中核にいた。

この先、わずか1年もたたないうちに

時代は倒幕派が主導権を握ることになるのだが

孝明天皇が生きていれば、そんな急激な展開は決して有り得なかっただろう。

岩倉具視と薩長の陰謀で、明治天皇の名で「討幕の密勅」

すなわち幕府を倒せという密勅命令が出されるのが

明けて慶応3年10月14日(和暦)のことなのである。

 

 

なぜならグラバーと繋がりがあったから

 

↑より抜粋

 

西郷隆盛は勝海舟にさとされて

長州を滅ぼすことはやめて、寛大な措置に切り替えた。

だが、長州はそれを感謝することは無かった。

そもそも長州征伐自体が「不正義」そのものであるからだ。

 

長州人は理屈が好きで、自らの正義であることを

理論化せずにいられない性癖があるが

他人の立場に立って考えることが出来ない。

つまり恕(じょ)の心がないのだ。

薩摩が長州を憎んだことは

薩摩側としては無理からぬことと自覚しているのだが

それは彼らには考えられないのである。

(「西郷隆盛」海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)著)

 

海音寺は生粋の薩摩人ではあるが

この評は決して身びいきではなく的を射ていると思う。

確かに長州にはそういうところがある。

それが私の再三言う長州の「アブナイ」ところであり

それは長州の作った明治の帝国陸軍にも

「遺伝」していると私は考えている。

 

龍馬が胡蝶丸に乗る少し前

まさに元治(げんじ)2年が慶応元年になる直前のことだが

海の向こうのアメリカで大きく歴史が変わった。

南北戦争で北軍が勝利を収めたのである。

奴隷解放を唱えたアブラハム・リンカーン大統領が勝ち

内戦が終結した。

リンカーンはこの後すぐに暗殺されてしまったが

肝心なことは内戦終結によって使用された武器

それもライフル銃が大量に余ったことである。

これが死の商人トーマス・グラバーなどを通じて

香港経由で日本に大量に輸入されることになる。

つまり、日本は絶好の市場となったのである。

 

そして、この頃から幕府は在日公使

レオン・ロッシュを通じて、フランスとの関係を強めていた。

小栗忠順(おぐりただまさ)が主導した

横須賀製鉄所の創設に全面的に協力したのも

フランスであったし、幕府陸軍の訓練にもフランスは協力的であった。

この間、フランスとのパイプ役を務めたのが

勘定奉行そして歩兵奉行として直接の担当者であった小栗であった。

そして小栗の背後には京の一会桑(いちかいそう)

政権の主であった一橋慶喜がいた。

こうした流れの中で小栗と慶喜は関係を深めたようだ。

つまり、フランスの力を借りて

この際、長州を一気に葬ってしまおうという目算が

幕府側にはあったのだ。

 

このころ、龍馬は

日本最初の「貿易商社」とも言うべき

亀山社中(かめやましゃちゅう)を

神戸海軍操練所の同志と共に薩摩藩の援助を得て設立していた。

ここで桂のアイディアだったか

それとも龍馬のアイデアだったか

桂の関係史料によると桂のほうが言い出したことになっているが

私は龍馬のアイデアだと思っている一つの提案がなされた。

それは、薩摩の名義で外国から武器や軍艦を買って

それを長州に供給するという作戦である。

もちろん代金は長州が払うのだが

これを薩摩を長州の交友関係樹立の第一歩にしようというのだ。

 

これは長州にとって渡りに船の提案だった。

第二次長州征伐を幕府が実行しようとしている今

長州は武器や軍艦が喉から手が出るほどほしい。

しかし、国内で買いつけるのは不可能だった。

諸外国と条約を結んでいた幕府が、日本の中央政府として

長州に武器を売らないように呼びかけていたからだ。

だが、香港か上海まで出かけて行けば話は別で

だからこそ大村益次郎(ますじろう)は

船を香港に派遣したのだが

国内で取り引きが出来るなら、それに越したことはない。

 

外国商人のほうも売りたがっている。

アメリカから南北戦争の「おさがり」の武器が大量に

しかも安価に手に入る見通しがついていた。

これを売ればボロ儲けが出来る。

ただ彼らも自国政府の命令には従わざるを得ない。

だから何とか長州に武器を売る手段はないかと血眼になっていたのだ。

そうした外国商人の代表が、当時長崎に在住していた

イギリス人トーマス・グラバーである。

 

プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の

ピンカートンのモデルとも言われるグラバーは

本国のジャーデン・マセソン商会の代理人(店)を名乗っていた。

そう、あの清国とのアヘン戦争において

イギリス国会の承認を取るために

相当な「ロビー活動」をしたとされる組織だ。

もちろん、アヘンも彼らの扱う有力輸出品であった。

龍馬もこのグラバー商会

ひいてはマセソン商会の「手先」だとする論者もいる。

 

確かに「薩摩名義で長州の武器を買う」というアイデアは

国際貿易の経験が深いグラバーあたりが思いつきそうな話である。

龍馬はグラバーと親しく

おそらく相当アドバイスも受けていただろうから

もともとはグラバーが考え

「龍馬さん、あなたのアイデアとして話してください」

ということだったのかもしれない。

亀山社中もグラバー商会とは緊密な関係を保っていたはずだから

「手先」はともかく仕事仲間であったことは間違い無い。

 

ところで、多くの人が見逃している歴史のポイントがあるので

ここで注意を喚起しておきたい。

この時の龍馬の提案に桂は救われた思いで

「ぜひ、お願いする」と言った。

そして、ここが肝心だが「そのための資金も借りたい」とは

一言も言わなかったことだ。

ここで龍馬が初めて勝海舟のところへ行った時

勝は何と言ったか思い出して欲しい。

 

「幕府にはカネがねえ。だから商船隊を作って貿易に励み

その稼いだカネで海軍を作るのさ――」

 

おわかりだろうか。

実はこの時代

「400万石(あるいは800万石)の徳川家のカネが無く

わずか「37万石」の長州藩にはカネがあった、のである。

なぜ、そんなことになったのか?

それが歴史の流れというものなのだが

通常の歴史書では触れられていない。

いや、それどころか、このポイントに気づいてさえいない。

 

徳川家康が武士の基礎教養として朱子学を導入した結果

とくに武士階級は農本主義そして商業蔑視に走るようになり

幕府を立て直す絶好の機会であった

「田沼意次(おきつぐ)の改革」も潰された。

一方、長州や薩摩では、もう農業ばかりに頼っていられぬと

長州は国内交易、薩摩は海外との密貿易に産業の重点を移していた。

それゆえ、このようなことが起こったのだ。

つまり、経済面においても「朱子学を克服できたか」が

勝者と敗者を分けたポイントなのである。

 

そして、もう一つ

日本きっての優秀な頭脳を持つ勝海舟ですら

気がついていなかったこと、それもすでに述べておいた。

実は、日本つまり幕府は「世界一の金持ち」であったという事実だ。

「金銀レートの調整失敗により、膨大な量の金が日本から流出した」

と通常の歴史書にも書いてある。

それは取りも直さず

「日本が膨大な金を所有していた」ことに他ならない。

ところが朱子学によって毒されていた幕府首脳部は

この資産を国際レートの1/4で評価していた。

早い時点で金の本当の価値に気づけば

むざむざ薩摩にやられることは無かっただろう。

もっとも勝ですら気づかなかったのだから

無理も無いと言えば無理も無いが。

その幕府は、今度は本気で長州を叩き潰すつもりだった。

 

前にも述べたように

長州など滅亡してもよいと考えていた西郷は

勝によってその考えを180度転換させた。

むしろ長州と組んで幕府を倒すのが正しいと思い定めた。

そこで、薩摩の朝廷外交を担当していた西郷の盟友大久保利通は

幕府の第二次長州征伐が成功しないような様々な政治工作をした。

 

京の慶喜らは一刻も早く将軍家茂が大軍を率いて

江戸を進発することを求めたが

大奥から家茂の健康を気遣っての遠征反対論で家茂を足止めした。

この危急存亡の時期に将軍が病弱であったということは

不幸としか言いようがないが

大きな組織が滅びる時というのは不運なことが重なるのかもしれない。

 

家茂は、勝が評価するほどの器量の持ち主であったので

反対を押し切り、自ら1万7千の精兵を率いて

東海道を京へ向かった。

だが、これは将軍家茂にとっても

幕府にとっても「滅亡への序章」であった。

長州征伐は結局失敗し、家茂は大坂城で病死し

幕府軍も鳥羽・伏見の戦いで大敗することになるからである。

しかし、江戸時代初期以来の将軍出陣という

一大パレードを見た江戸市民は誰一人として

まさかこれが将軍家の見納めになるとは

夢にも思わなかっただろう。

 

ただ幕府の自信は長州を「降伏」に追い込んだ

という思い込みによるものだけではなかった。

実はフランスがこの頃から

幕府に大いに肩入れするようになって来ていたのだ。

フランス公使レオン・ロッシュは

もともと幕府に対して好意的であった。

そして幕府も陸軍の近代化や

横須賀製鉄所の建設でフランスの援助を仰ぐうちに

フランスを一種の同盟国とみなすようになった。

 

ロッシュは幕府に新生日本の改革の主導権を握らせることによって

日本における数々の利権の独占をはかろうとしたのだ。

そして、フランスと歩調を合わせていくことにおいては

江戸に批判的な一会桑政権の一橋慶喜らも異存は無かった。

慶喜は早くから「開国しか日本の生きる道はない」と確信している。

ただ立場上なかなかそれが口に出来なかったが本音はそこにある。

つまり、フランスの後援が期待できることも

幕府をして長州征伐に踏み切らせた理由なのである。

 

この頃、すでに薩摩は将来における長州との同盟の可能性を考え

「第二次長州征伐には参加しない」と公言していた。

岩倉はそれに賛意を示し「長州は出来るだけ寛大な処分で罪

(禁門の変で御所を襲ったこと)を許し

その上で藩主を上洛させ「大名会議」に参加させるべきだ。

列強が日本を狙っている時に内輪もめなどしている場合ではない」

と主張した。

 

この「内乱などしている場合ではない」というのは

もう一人のキーマン勝海舟にもあった認識で

だからこそ勝は西郷に

「薩長が同盟することだってあるかもしれない。

長州征伐(第一次)は出来るだけ寛大な処分で収めるべきだ」

と忠告した(と思われる)のだが

ここで読者に気がついてもらいたいのは

岩倉は薩長同盟が進行中などということは

まったく知らなかっただろうということだ。

 

すでに述べたように、薩摩と長州は禁門の変で殺し合っているのである。

「遺族会」は同盟など有り得ないと信じている。

高杉晋作も

「たとえ夷人(いじん)の靴を頭に乗せるとも薩摩とは手を握らぬ」

と少なくとも表向きには「公言」せざるを得なかった。

ゆえに「第二次長州征伐に薩摩は参加しない」

という薩摩の公言も、多くの人は

将来薩長同盟を視野に入れたものだとは夢にも思わず

せいぜい

「内輪もめしている場合じゃないからな」

と思っただろう。しかし、岩倉は違う。

この時点で岩倉は

朝廷と組むべきは、力の衰えた幕府ではなく

日の出の勢いの薩摩であると見定めている。

そして、その薩摩によしみを通じたいと思っている。

だから並の人間なら、こう言うはずである。

 

「なぜ、長州を攻めないのか。

勅許:ちょっきょ(天皇が許可すること)が下されたことでもあるし

長州の無謀なやり方に藩内の方々

特に下関長州の無差別砲撃によって沈められた

薩摩船の遺族の方々は怒りと悲しみに沈んでおるではないか。

長州断固討つべし」

 

そもそも岩倉自身もなぜ公職を追放され

頭まで丸めて岩倉村に逃げ込まねばならなかったのか?

それは攘夷過激派

つまり長州藩を中心とする勢力に敵とみなされたからだ。

しかも、彼らは岩倉の命まで幾度か狙ったのである。

個人的な勘定ということで言えば

岩倉は長州を憎悪しても当然の立場にいる。

だから普通の人間が岩倉の立場にいたら

まさに報復の機会が来たと「長州討つべし」

と薩摩をたきつけるところである。

しかし、岩倉はその逆を提言した。

「許してやれ」と言うのである。

薩摩がこの後、岩倉と接近し盟友関係になっていくのは

大久保や西郷が岩倉のこうした見識に感服したからだと思っている。

 

薩摩は大久保が中心となって朝廷工作をしている。

それは関白や皇族を動かし一定の成果も挙げている。

第二次長州征伐の勅許が予定より遅れたのも、その成果だ。

しかし、大久保の身分ではまだ朝議に出席できないし

天皇に対して直接意見を述べることも出来ない。

つまり、薩摩の代弁者となって朝議などに参加し

朝廷を直接動かしてくれる人間を必要としていたのである。

もちろん、薩摩がそう望んでいることも岩倉にはわかっていた。

だから幕府でも無く土佐でも越前でも無く

薩摩に「売り込み」をかけたのだ。

薩摩が自分を本当に必要とするなら自ら動かなくても

薩摩が岩倉の朝廷復帰に尽力をしてくれるだろうという読みである。

この読みも当たった。

では、薩長同盟の方はどうなっていたのか。

その第一段階として、坂本龍馬の亀山社中が

イギリス船のユニオン号を買い付ける話がまとまっていた。

 

 

薩長同盟は「同盟」では無い。

少なくとも「対幕府軍事同盟」では無い。

と言えば意外に思う人の方が多いかもしれないが

薩摩が長州に着せられた

朝敵の汚名を晴らすために尽力する、と述べており

それを幕府が妨害すれば戦いも辞さない

との合意であるが

薩長が同盟して倒幕に動くということは、実は述べられていない。

つまり、軍事同盟では無い、ということである。

要するに、長州側が執拗に朝敵の汚名を晴らすことにこだわり

薩摩に何とかしてくれと言い続けているのがこのメモの内容なのである。

 

協議の場では合意条項の文章化は行われなかった。

そこで不安に思った桂が、立会人の龍馬に合意内容のメモを送り

「保証人」としての裏書を求めた。

つまり、現在残されているのはその手紙(木戸メモ)なのである。

では、なぜ「薩長同盟」になってしまったかと言えば

この約2年後に実際に薩長連合軍が

錦の御旗(天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗)を立てて

幕府軍と戦ったからに違いない。

「木戸メモ」は、木戸が西郷らとの話し合いの2日後の

1月23日付で龍馬に出した手紙でもある。

つまり立会人の龍馬に合意条項は間違いないと裏書(保証)してもらい

送り返すよう依頼したものだが、龍馬の返書は2月5日付になっている。

 

この手紙のやり取りされる間に事件があった。

龍馬は危うく一命を落とすところであった。

第二次寺田屋事件という。

第一次は島津久光が薩摩藩内の過激派を鎮圧した事件で

これより4年前の出来事だ。

京の薩摩藩邸に近い寺田屋は薩摩藩士がよく利用した宿なので

この惨劇の舞台となった。

この時も伏見奉行所が龍馬が寺田屋に潜伏していることに気がついた。

龍馬を攘夷派浪士の大物として危険人物視していた。

(攘夷:外敵を撃ち払って入国させないこと)

 

龍馬は開国派で

その点に関する限り幕府ににらまれる筋合いはないのだが

これが幕府のダメなところだ。

とにかく「お上」に従ぬ者は「悪人」なのである。

そういう人間は捕らえて訊問(じんもん)するに限る。

ただちに伏見奉行所から大勢の捕り方が出て寺田屋を包囲した。

すでに夜は更け、門扉も閉まっていたので

役人は戸を叩いて中の者を呼んだ。

 

これに気がついたのが、お龍だった。

ちょうど入浴中だった。

お龍はそのまま浴室を飛び出し

階段を駆け上がって2階の龍馬に急を告げた。

お龍の知らせを聞いた龍馬はピストルを取り出した。

高杉晋作から上海みやげにもらった、あの6連発である。

この場面は小説や映画などでかなり脚色されているが

お龍が裸だったかどうかは明確ではない。

男女混浴が当たり前だった時代

一刻も早く「夫」の危険を知らせるのが目的であるなら

着物を着る余裕など無かったはずでもある。

当時の常識から見て、全裸であった可能性の方が高い。

 

この事件が起こったのが慶応2年(1866)

正月23日の夜から24日の未明にかけてだったが

「木戸メモ」が薩摩蕃邸でケガの養生をしていた龍馬のもとへ届けられ

2月5日付けで龍馬は「内容に相違無し」という保証の裏書を朱筆し

木戸へ送り返したのである。

ケガが完全に治るには、なお一か月を要した。

 

そして3月、龍馬は西郷や小松帯刀(たてわき)に

薩摩行きを勧められ、正式に妻としたお龍を伴って鹿児島入りする。

2人は大隅(おおすみ)方面へ向かい日当山(ひなたやま)

塩浸(しおびたし)温泉を経て霧島(きりしま)山へ登った。

これが日本最初のハネムーンだと言われている、よく知られる事実だ。

 

ただ、龍馬ファンはあまり口にしないことをここでは述べておこう。

何年も前のことだが九州の居酒屋で酒を飲んでいた時

居合わせた見知らぬ客(今思うと神道関係者だったらしい)

と歴史の話になり、この話題が出た。

すると相手は言った。

「龍馬が暗殺という不幸な死に方をした原因を知っていますか?」

原因という言い方がわからなかったので、知りませんと答えると

相手は言った。

「霧島山で天(あま)の逆鉾(さかほこ)を抜いたからですよ」

なるほど、そういう考え方もあるのか、と私は思った。

 

正式には「天(あま)の瓊矛(ぬほこ)」という。

日本神話でイザナギ、イザナミの両神が国生みに使ったというものだ。

それが霧島山の山頂に突き立てられている。

そして、龍馬が妻と2人でこの山に登った際

この逆鉾を引き抜いてみたということは

本人直筆の手紙で述べていることであり、まったくの事実なのである。

つまり「神罰が当たった」ということなのである。

もっとも、手紙の書きぶりから見ると

子供が神社でイタズラをしたような感覚であり

そこがまた龍馬らしいとも言えるのだが。

 

「ハネムーン」の件も、江戸時代後期は旅行ブームでもあり

若夫婦が湯治(とうじ)に行くなどということもあったから

「日本初」というのは問題がある、という意見もある。

しかし、そうしたケースについては記録が残っていない。

残っていないからこそ、これが「初」だと言われているので

あえて正確を期すなら

「龍馬夫妻の霧島山行きは記録に残る限り

日本最初のハネムーンである」とすればいいのだろう。

 

 

 

トーマス・グラバー』とは何者か?