天然記録 -83ページ目
アサリとブロッコリーのペペ
 
冷たい茶碗蒸しが一番美味しかった
 
メニュー撮るの忘れた…
 
 
 
期間限定らしいランタン
 
 
 
 

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あの人の手紙

 

キーウから遠く離れて

 

あと1マイル

 

遙かなるクリスマス

 

教訓Ⅰ

 

情けねえ

 

LONG TIME AGO

 

タイマーズのテーマ 3曲目はお母さんの事らしい歌詞のマジック

 

偉人のうた

 

明日なき世界

 

花はどこへ行った

 

奇妙な世界

 

IMAGINE

 

青空

 

1985

 

NO NO NO

 

チェルノブイリ

 

月の爆撃機

 

星をください

 

ロクデナシ

 

すてごま

 

ブルーハーツより愛を込めて

 

平和の琉歌

 

 

ピースとハイライト

 

時代遅れのRock’n’Roll Band

 

奇跡の地球

 

タガタメ

 

アビが鳴く

 

Triangle

 

Only One,Only You

 

クスノキ

 

島唄

 

ウージの唄

 

himeyuri ~ひめゆりの詩~ 

 

矛盾の上に咲く花

 

王様のミサイル

 

伝言

 

オレ達の大和

 

Hey和

 

いのちの理由

 

生きてることが辛いなら

 

夏の終わり

 

天使と悪魔

 

虹色の戦争

 

Love The Warz

 

Dragon Night 

 

ANTI-HERO

 

SOS

 

花束

 

No More War

 

Be The Light

 

RAINBOW (虹)

 

極東戦線異状なし!?

 

快走!ラスプーチン

 

mabataki 

 

地球儀

 

War & Peace

 

黒い雨 ~ Amazing Grace

 

さとうきび畑

 

ひこうき雲 

 

BLIND SOLDIER

 

VOICE OF ANGEL

 

LOVE 2000 

 

Don't Wanna Cry

 

FREEDOM

 

YOU ARE THE ONE

 

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希望のうた

 

夜鷹の夢

 

ジュゴンの見える丘

 

死んだ女の子

 

時をこえ

 

いのちのリレー

 

僕たちは戦わない

 

NO WAR in the future

 

戦いの矛盾

 

悪魔の子

 

Too Young to Die

 

99 Red Balloons 

 

雨を見たかい

 

風に吹かれて

 

スカボロー・フェア

 

Wake Me Up (When This Nightmare's Over) 

 

Russians

 

What's Going On

 

What A Wonderful World

 

HAPPY XMAS (WAR IS OVER)

 

Heal The World 

 

We Are The World 

 

ジュピター~栄光の輝き

 

 

「生麦事件」(なまむぎじけん)とは

1862年(文久2年)、薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)

の前藩主「島津久光」(しまづひさみつ)の一行が
横浜近郊の生麦(なまむぎ:現在の横浜市鶴見区)にさしかかったとき
行列を遮ったイギリス人を薩摩藩士が斬り殺した事件。
これが原因で、翌年1863年(文久3年)には
薩摩藩とイギリス艦隊とが鹿児島沖で交戦する
「薩英戦争」(さつえいせんそう)が勃発。
のちに講和が成立したものの
薩摩藩は多額の賠償金の支払いを余儀なくされました。
しかし、この事件で欧米列強の強さを痛感した薩摩藩は
一気に開国と倒幕に向けて大きな方向転換を図ることになったのです。

 

 

↑こちらより抜粋

 

薩摩と長州はともに関ケ原の「負け組」である。

大減封(げんぽう)されて辛うじて家名を存続した長州藩毛利家では

城も山陰道に置かざるを得なかったほどだから

武道を奨励するということはあまり無かった。

あまり大っぴらにそれをすれば、幕府の心証を悪くするからだ。

しかし、薩摩は違った。

子供の頃から武道を学ばせ鍛え上げることを当然とした。

辻々(つじつじ)には打ち込み用の木刀と杭が設けられていたという。

いつでも自由に稽古ができるようにだ。

しかも、薩摩は長州とは違って街道が国内を横断しているわけでもなく

九州最南端にあるので他国人の国入を規制できた。

だから思い切った武道振興策を取ることができた。

 

江戸時代は、直前の長い戦国時代の反省もあって

武器の改良は禁止していた。

だから、黒船が来た時に武器はすべて時代遅れになっていて大慌てしたのだが

そういう時代では、鉄砲の射撃訓練をしただけで

「あの藩は謀反でも企んでいるのではないか」

と幕府に睨まれることになる。

逆に言えば、そんなことをしても睨まれる心配のない藩ならば

思い切ったことができるということだ。

 

その典型的な例が、会津藩松平家であった。

この松平家は、二代将軍秀忠の庶子:しょし(妾が生んだ子供)であった

保科正之(ほしなまさゆき)の子孫である(子孫は松平姓に改姓)

正之は自分の藩がまったく戦争経験が無いのに

将来将軍家を守ることができるかと思い悩んだ。

そして、思い悩んだ末に出した結論は

自分の藩は戦国の気風を残すという

ある意味で時代に逆行した方針であった。

いや、ひょっとしたら正之の目指したところは

戦国の常識すら越えていたかもしれない。

というのは戦国大名の家でも堅く禁止されていた喧嘩

(両成敗が基本だった)を、青少年に限ってだが

「大いにやるべし」と認めたこともあるからだ。

 

 

一般にこの時代は、攘夷(じょうい)鎖国派と

開国派が対立しているように見え

それは基本的には間違っていないのだが

文久年間初頭は主な対立軸が「2つ」ではなく

「3つ」あったと考えた方がわかりやすいかもしれない。

開国派は一つだが

攘夷派は「倒幕派」と「公武合体派」の2つで

しかも両者は激しく対立していた。

ただ、「倒幕」という言葉まで使ってしまうと

ニュアンスが違うように思われる。

 

というのは、このグループに属する人々

長州の桂小五郎、久坂玄瑞(くさかげんずい)

高杉晋作、土佐の武市半平太(たけちはんぺいた)などは

朝廷と幕府(公武)が一体になることは絶対に認めなかったが

幕府を潰して将軍の首を取ることは、まだ考えていなかったからだ。

公武合体に反対したのは、武門の棟梁に過ぎない。

一臣下に過ぎない将軍家が

神聖な天皇家と同格のごとき振る舞いをするのは許せなかったからで

将軍家が分を守り、むしろ一大名として攘夷の先駆けとなるなら

それはそれで存在意義を認めようという思いがあった。

だから「倒幕」というより「反幕」だろう。

 

もっとも、そう言い切ってしまうのも少し不正解のような気がする。

吉田松陰の「過激」な教えを受けた長州の桂、久坂、高杉らには

既に幕府と一戦交える覚悟があったかもしれない。

しかし、それを口にすると土佐との連携が破れる。

土佐藩はそこまで「過激」ではないからだ。

島津久光が動かしている薩摩藩もそうで

だからこそ兵を率いて上京した久光は幕政改革はしたが

倒幕などとは一言も口にしなかった。

いわゆる雄藩が徹底的な倒幕の決意を固めるのは、もう少し先のことである。

この時点では、とにかく「腐っても鯛」の幕府という中央政権があるのだから

それを攘夷に踏み切らせることが肝心だと攘夷派は誰もが考えていた。

 

 

敵(外国)は武器の質量において格段に優れている。

大砲一つとっても射程も破壊力もまったく違う。

ならば「戦えば負ける」というのが当然の予測であり

その予測のもとに行動すべきであろう。

ところがこれが日本人にはわからなかった。

幕末の話ではない。

昭和前期の大日本帝国陸軍の話である。

大砲や小銃は日清戦争の頃からほとんど進歩しておらず

戦車もあるが装甲が薄く外国の戦車とは戦えない。

歩兵はまさに歩いて移動するのが基本で

トラックの装備率は異常に低いし故障も多い。

 

それでも

「これでは機械化されたアメリカやソビエト軍に勝てない」

と正論を主張すると、臆病者とか非国民と言われ

下手をすると殺された。

そしてそれがわかっているから

人々はそういう批判を口にしないようになり

その結果「絶対に勝てる」と言う連中が陸軍だけでなく

国家の中枢まで牛耳るようになった。

結果はどうなったか?

国が滅んだのである。

大日本帝国は日本国として再生したから良かったものの

危うく滅亡するところであった。

 

海軍も同じではないか、と言う人がいるかもしれないが、それは違う。

確かに結果においては同じことになったが

少なくとも海軍のゼロ戦や、酸素魚雷は開発された時点においては

世界最高水準の性能を持っていたし、戦艦大和も世界一の戦艦だ。

また空母を中心とする機動部隊を持っていたのは世界中で日本とアメリカだけで

それまで世界一だったイギリス海軍も機動部隊までは所有していなかった。

それでも海軍の中枢にいた山本五十六は「アメリカとやったら勝てない」と言った。

つまり海軍も最終的には日米開戦に賛成したのだから

陸軍と同罪だという見方もできるが

それにしても陸軍のバカさ加減は深刻だ。

しかも「中学生でもわかるはずのことがわからず」に戦争を始めたのは

中学生どころか陸軍大学を最優秀の成績で卒業したエリートたちなのである。

 

実は戦前の陸軍は長州人によって作られたと言っていい。

そして、この陸軍に「長州の悪性遺伝子がある」と言ったのが

国民作家司馬遼太郎であった。

一方、戦前の海軍を作ったのは主に薩摩人であった。

日露戦争の時の連合艦隊司令長官東郷平八郎も幕末の薩摩海軍の出身である。

戦前の陸軍と海軍を比較してみると

やはり最大の差異は「リアリズムの有無」であろう。

現実認識と言ってもいい。

あたり前の話なのだ。

それは事前のデータで予測できたことなのである。

しかし、そういうデータには聞く耳を持たない。

 

幕末の時点でもっとも優秀な人間である(といっても世界水準では中学生並)

勝海舟や坂本龍馬、あるいは佐久間象山(しょうざん)といった人々は

「現実を見なくとも敵の優位を理解する」

次に「優秀」な高杉晋作や姉小路公知(あねがこうじきんとも)は

「見て理解する」同じく薩摩藩の人々も

「話には聞いていたがやはり敵は強い。

われわれの旧式装備では奴らに勝てんでごわず」と悟った。

要するに目が覚めたのである。

薩英戦争の歴史的意義はまさにそこにある。

 

ところが、時系列的に言えば、薩英戦争(文久3年7月2日)

よりも1か月も前の6月初旬にアメリカ、次いでフランスに

下関で完膚無きまでに敗北した長州藩過激派は

それでもまだ旧式大砲のみで外国に勝てると信じていた。

まさに「狂信」と呼んでいいだろう。

これが長州的観念論と私が呼ぶものである。

なぜそうなるかと言えば、根底に天皇に対する熱烈な信仰があるからだろう。

念のためだが、天皇に対する信仰を否定するつもりはまったくない。

だからと言って「天皇の軍隊だから負けない」

というのは誤りだと言っているのである。

「長州的観念論」の信奉者は

「敵に大砲があるなら、こちらにも大砲がある。

あとは大和魂(闘志)はこちらが上だから絶対に勝つ」と考え

現実を無視してしまう。

今後、日本を再び滅亡の淵に追い込む事態が起こるとすれば

その原因はこの「長州的観念論」であろう。

対策は簡単だ。「ありのままの現実を見る」

ただそれだけである。

 

 

長州藩は存亡の危機にあった。

禁門の変で惨敗し、完全に朝敵とされてしまったことも問題だったが

それに加えてイギリス、フランスなどの列強が

艦隊による下関攻撃を計画していたからだ。

既に述べたように、長州は文久3年(1863)5月に

「攘夷を実行する」として、関門海峡で外国船に無差別砲撃をかけた。

実はこの時、長州の砲台は不意打ちをかけたにもかかわらず

外国船を一隻も沈めることはできなかったが、死傷者は出た。

自国船を攻撃され怒ったアメリカ、フランスは個別に軍艦を派遣し

長州「海軍」の虎の子の軍艦庚申丸(こうしんまる)

壬戌丸(じゅんじゅつまる)をあっという間に撃沈したばかりか

猛烈な艦砲射撃で主な砲台を破壊した。

 

長州の武力はアメリカ海軍の軍艦ワイオミング号一隻に勝てないものだった。

その直後、フランス海軍のセミラミス号

タンクレード号に攻撃された時は、フランス兵の上陸まで許している。

それなのに無事だったのは、最大の軍事力を持ち

列強のリーダー格であったイギリスが取りあえず目標を薩摩に絞っていたからだ。

生麦事件の報復である。

長州が無差別砲撃を始めたのは、文久3年の5月10日だが

7月2日には、イギリス艦隊の鹿児島襲撃

いわゆる薩英戦争が起こり、薩摩も惨敗し「完全攘夷」の不可能を知る。

そこで、薩摩は「敵に学ぶ」つまり「大攘夷」の方向へ大転換するわけだが

長州はこの大転換をどう見たか?

「腰抜けめ、外国がそんなに怖いのか」と非難したのである。

この辺り、この時代から約80年後、薩摩の作った海軍の

山本五十六が「アメリカは侮り難い」と言っていたのを

長州の作った陸軍の強硬派が

「山本は臆病者だ」と非難していたのとよく似ている。

歴史は繰り返すということか。

 

関門海峡が無事だったのは、幸運であったに過ぎない。

地図を見ればおわかりのように

関門海峡は「日本のスエズ運河」であり

この通行が遮断されていることは

貿易立国である列強にとっては大迷惑であった。

一国だけ突出して封鎖解除に動けば、それは下関の利権独占に通じ

他国との抗争に発展する恐れがある。

要するに、長州はまったく恐れられてはいない。

列強が恐れているのは同じ列強の他国との抗争だったのである。

 

たとえてみれば、長州という丸腰の少年を

数匹のオオカミが取り囲んでいて

いつ食い殺してやろうかと互いに様子をうかがっている状態だ。

ここでリーダーが「かかれ」と合図すれば

オオカミは一斉に食らいついて少年を餌食にするだろう。

しかし、この少年はオオカミが飛びかかって来ないことを

「オレの強さを恐れているんだ」と思い込んでいるのである。

あなたがもし長州を愛する人であり

この状態を「外」から見たら一体どう考えるか?

当然、「内」へ飛び込んで行き

一刻も早くこの危険な状態から脱するよう力を尽くすだろう。

実は、この時、そういうポジションにいたのが

「外」であるイギリス本国にいた「長州ファイブ」の面々なのである。

 

伊藤俊輔(後の博文)、井上聞多(もんた)ら「長州ファイブ」の面々は

高杉の弟分で、攘夷の嵐が吹きすさぶ中、長州を脱出しイギリスに留学していた。

文久3年5月12日に、イギリスのジャーディン・マセソン商船に

密航する形でイギリスに向かっているのである。

しかもこれは初めから長期留学を目的としたもので

藩主毛利慶親(よしちか)の内命を受けてのことだった。

このことはあまり知られていない。

彼らの死を恐れぬ(当時、密航は死罪)

勇気と不屈の精神に感動したイギリス人が、ロンドン大学構内に

「長州ファイブ」の顕彰碑(けんしょうひ)

を立てたことも知る人はむしろ少ない。

彼らの事跡が同名の映画になって

ようやく知られるようになって来たというところか。

ちなみに伊藤、井上以外の3人は遠藤謹助(きんすけ)

(後、造幣局長、大坂名物の「桜の通り抜け」の考案者)

山尾庸三(ようぞう)(工業大臣として活躍)

野村弥吉(やきち)

(後の井上勝、鉄道の発展に尽力し、日本の鉄道の父と呼ばれる)

 

 

この時代の攘夷派と言えば「欧米は悪の帝国」だと思い込んでいたし

「ガイジンは斬ってもかまわない」という過激な思想の持ち主であった。

だから久光が生麦事件を起こしたことさえも

「勇気なる行為」と高く評価されたのだ。

しかも、伊藤と井上はほんの数か月前に

高杉が隊長として行なった

イギリス公使館を焼き討ちしている実行犯なのである。

こんな「テロリスト」の入国を認める間抜けな国はあるまい。

イギリスと言えば、古今東西もっとも「抜け目ない国」ではないか。

しかし、事実は伊藤も井上も入国を「許可」されている。

 

形の上ではあくまで「密航」だったが

長州藩から1人頭千両、総額5千両にものぼる渡航及び留学費用が

イギリスの国策会社とも言うべきマセソン商会に支払われ

向こうへ着いた後も様々な便宜が図られている。

イギリス政府が伊藤らをテロリストとして認識していたら

絶対に有り得ない待遇を受けているのだ。

確かに5千両は大金だが、国家の安全を売り渡すほどの金では無い。

では、一体なぜ彼らの留学は認められたのだろうか。

それは、イギリス側はこの2人は

英国公使館焼き討ち事件の犯人とは知らなかったということだろう。

それ以外に考えようがない。

 

そもそも高杉や久坂は

「生麦事件でライバルの薩摩に一足先に攘夷を実行されてしまった。

(外敵を撃ち払って入国させないこと)

このままでは収まりがつかない」

ということで、初めはイギリス公使暗殺を

次いで公使館焼き討ちを計画したのではなかったのか。

こういう考え方なら「犯行声明」を出さないと意味が無い。

ところが「あれはチョーシューの犯行だ」ということは

イギリス側にも知られていなかった。

つまり彼らはせっかく実行しながら

「これは長州のやったことだ」ということを隠したということだ。

宣伝するためにやったはずのことを、なぜ隠す必要があったのか?

 

この点については、実は幕臣の多くもこの建設には反対で

(公使館は建設中でイギリス人死者は一人もいないので、建設現場焼き討ち)

幕府も下手につつくとヤブヘビになること

(幕臣の犯行が証明される可能性)を恐れており

高杉はこれを見越して「ガス抜き」であると同時に

藩には迷惑がかからないと見て犯行に及んだとも考えられる。

では、伊藤や井上が犯行後わずか数か月で

「イギリスをやっつけろ」から

「イギリスに学ぼう」に「転向」していることはどうか。

考えてみればこれほどおかしな話はない。

 

この時代、武士たるものが行なうべきは攘夷であった。

それもまさに生麦事件のような過激な攘夷である。

上級武士である井上も、足軽の伊藤も

いや足軽である伊藤は余計にと言ったほうが正確だが

「攘夷を行なう勇気」が無いとバカにされた時代なのである。

下手に「外国にも良いところがある」などと言えば

「臆したか(臆病者め)」という言葉を浴びせられる。

その言葉は武士にとって相手を斬り殺してでも撤回させるか

そうでないことを(焼き討ちのように)実行して証明するしか無い時代だ。

 

しかし、留学するということは

相手に対して頭を下げて師として仰ぐということだ。

いかに藩主の命令とはいえ

「洋行などまっぴら御免でござる。

たってと仰せられるなら腹を切ります」

と断固拒否したほうが、尊敬される時代なのである。

そういう時代風潮を頭に入れれば、この伊藤と井上の「転向」が

とてつもなく異常なこととわかるはずだ。

そして、あまりにも異常であるからこそ「わかりにくく」なり

結果的に長州ファイブのことを知る人が少ない

ということになってしまったのだろう。

後に明治史の主役となる

伊藤と井上がメンバーに入っているにもかかわらず、である。

 

 

5人はロンドンで勉学中、「ロンドンタイムズ」紙上で

長州藩が馬関(ばかん)海峡でたびたび外艦を砲撃し

各国が連合して問罪の挙に出ようとしている記事を見た。

彼らは欧州諸国発展の状況を見聞きし

攘夷の無謀を知っていたから、もし郷国が列国と戦端を開けば

滅亡の危機に瀕するかもしれないと憂慮し

藩是を開国に変更させようと

井上と伊藤の2人が帰国してその任にあたり

野村、遠藤、山尾の3人は留学の宿志を果たし

万一、2人が同時に死んだら後図を継ぐため

残留することとした。

(「高杉晋作」梅溪昇(うめたにのぼる)著)

 

ところで、彼らが読んだというタイムズの記事だが

長い間特定できなかった。

この「高杉晋作」にも「ちなみに彼らが帰途に着いたという

決定的契機となったタイムズの関連記事は見あたらない」としている。

実はそれは前年の10月21日付の記事であることが最近わかった。

 

 

印象的なのは、ロンドンタイムズの記事の最後の部分である。

長州藩主や薩摩藩主は「悪人」だとしながらも

日本人の能力については絶賛していることだ。

イギリスは既にアヘン戦争で中国(清国)とは長年戦ってきたわけだが

中国人に対する見方は辛辣きわまる。

全体を読んでみると

この記事が伊藤、井上らの目に触れることになった経緯は

次のように推測できると思う。

まず彼らは貧しい。

長州を救うなら一刻も早く蒸気船で駆け付けるべきなのに

船費が払えないほどだ。

だから毎日優雅にタイムズに目を通す余裕など無かったろう。

英語力の問題もある。

 

ところが彼らに好意を持つイギリス人(誰だかわからない)

たまたま目にしたこの記事を取っておいて

しばらくたってから彼らに見せた。

「見たまえ、タイムズが君の国をこんな高く評価しているぞ」

ということだ。

もちろん、そのイギリス人は彼ら「長州ファイブ」が

ほんの一年前まで記事にある

「ruffians:悪党」だったことは夢にも知らなかった。

マゲを切り洋服を着て慣れないイギリスで苦労している彼らは

当然開国派であると考え、励ますためにそうしたのだろう。

ところが記事を見せられた彼らは仰天した。

長州はまさに存亡の危機にある。

そこで慌てて伊藤、井上の両名の帰国を決めたのではないかと思うのだ。

2人は何とか間に合った。時期的には。

元治元年(1864)6月10日(和暦)に横浜にたどりついたからだ。

 

実は伊藤、井上の帰国は3か月の日数を要した。

彼らには金が無いので蒸気船では無く

帆船(はんせん、ほぶね)で上海まで戻った。

上海からは蒸気船で横浜に入り、ポルトガル人という触れ込みで

日本語を口にしないよう注意しホテルに泊まった。

 

既に長州では京都出兵が決定しており

16日には主力部隊が三田尻から出港した。

結果的に一か月後の7月19日には禁門の変が起こるのだが

二人が日本に着いた時点では禁門の変も列強艦隊の下関攻撃も

始まっていなかったのである。

しかし、伊藤も井上も「母国」長州の無防備さには愕然としただろう。

何度も言うが、既に薩摩はイギリスの攻撃を受けていた。

次は長州の番であることは火を見るより明らかなのに

藩は守りを固めるどころか京都出兵におよんでいるのだ。

 

横浜に到着した2人は

つてをたどってイギリスのオールコック公使に会い

「自分たちが藩主を説得し攘夷をやめさせるから

下関攻撃はしばらく待ってくれ」ともちかけた。

通訳のアーネスト・サトウと会ったのもこの時だろう。

サトウの日本語はかなり水準が高かったらしい。

結局、オールコックは2人の申し入れを受け入れ

イギリス海軍のバロッサ号で長州に向かうことになった。

もっとも三田尻(みたじり)に入港しようとすれば戦争になってしまうので

彼らは九州の国東(くにさき)半島沖の姫島で降ろされ

ボートで富海(とのみ)現防府(ほうふ)市に上陸したようだ。

おそらく長州入りするまでには、背広姿から和服に服装を改めていただろう。

攘夷派を無用に刺激しないためである。

ただ「ザンギリ頭」は隠しようも無い。

そして長州入りした2人は、26日に山口政事堂で開かれた

藩主臨席の首脳会議で、関門(馬関)海峡の封鎖を解除し

列強に対する無謀な攻撃は中止すべきだと説得を試みた。

 

伊藤と井上の藩への説得工作。

常識で考えれば成功するはずであった。

にもかかわらず、説得は成功しなかった。

実際、一般藩士や奇兵隊士は

2人をイギリスに魂を売った裏切者と見ていて

「斬るべし」と叫ぶ連中であふれていた。

2人に賛成することは生命を危険にさらすことであったのだ。

2人のうち井上は有名な癇癪持ちである。

激怒したがどうしようもない。

伊藤とともにいったん長州を出た。

 

2人のうち伊藤は陸路江戸に向かって4か国の公使と会い

戦争回避への道を探ることになった。

注目すべきは、この時伊藤は井上や高杉と違って

上士ではなく足軽身分だということだ。

言わば足軽が大将代理となったのである。

もちろん、戦国以来かつて無かったことだが

それだけの仕事をこなせる能力のある人間が他にいなかったのだ。

 

一方、井上は長州に残った。

この間萩(はぎ)に行き、自宅に謹慎状態

(座敷牢に入れられていたらしい)

の高杉のところへ行き、長い間話し込んでいたという。

この辺りも「長州」で、他藩なら謹慎中の人間に

担当の役人でも無い者が会うことなど不可能である。

井上はおそらく自分に対する唯一の理解者とも言うべき高杉に

思いのたけをぶちまけたかったのだろう。

ちなみに年齢は高杉の方が4歳年下である。

だが、高杉はそんな年齢差などものともしなかった。

 

結局伊藤は、交渉は到底間に合わないと途中から引き返して来た。

 

結局、アメリカ、フランスの単独攻撃の時と同じことになった。

とても勝負にならないので長州は負けた。

負けるべくして負けた。

ようやく血の気の多い連中も沈黙した。

戦争は終わらせねばならない。

幸いに長州には伊藤、井上というイギリスへのパイプがある。

藩主に呼び出された井上は進言した。

「この際、高杉を起用すべきです」

藩主は喜んで許可を与えた。

 

一般に、長州藩というのは

明治維新をリードした藩としてイメージが良いが実情はこれであった。

無茶な「小攘夷」を貫こうとして、何度も暴発を繰り返す。

挙句の果てに、禁門の変で大惨敗を喫する。

それでも懲りずに英仏蘭米の4か国連合艦隊と下関で決戦し

文字通り完膚(かんぷ)無きまでに叩かれる。

最初から外国と戦うべきでないと主張していた伊藤、井上も

座敷牢で事態を見守っていた高杉も

いくら何でもこれで目が覚めただろうと考えた。

攘夷派のことだ。

今の長州の武力では欧米列強に勝てるはずがないということである。

 

井上の進言によって、座敷牢から出て来た高杉は

同じく井上の進言によって4か国との講和についての全権大使に任命された。

高杉の家では藩を代表するには格が低いということで

家老の宍戸(ししど)家の養子という形を取り

宍戸刑馬(ぎょうま)という変名を名乗った。

そして英語が話せる伊藤が補佐して講和交渉が行われることになった。

 

和平交渉はとりあえず順調に進んだ。

1点だけもめたのは、イギリスが関門海峡の入り口にある

彦島(ひこしま)を租借(そしゃく)したいと申し入れたのに対し

高杉が頑強にこれを拒んだことである。

租借というのは、言わば彦島が「香港」になることで

こんな急所を外国に押さえられたら独立も何もあったものでは無い。

そこで高杉は、神代からの日本の歴史

つまり「古事記」の内容から始めて

とうとうと日本の歴史を弁じまくり

ついに租借の件を断念させたというのである。

 

明治になって内閣総理大臣になった伊藤が

船で関門海峡を久しぶりに通過した時

「あの時、高杉の奮闘が無ければ彦島はイギリスのものになっていただろう」

と述懐(じゅっかい)したというエピソードも残されている。

これは高杉の英雄美談ということになっているが

本当にあったことか疑問を呈する研究者もいる。

伊藤はなぜ初代総理になれたのか?

他に候補がいたが「英語ができる」というのが決めてだったという。

とにかく、第1回交渉は何とか成功した。

決裂せずに、次回も交渉を重ねようということになったのだから

成功と言っていい。

 

後に、4か国は300万ドルという莫大な賠償金を幕府に要求する。

生麦事件の賠償金が10万ポンド(40万ドル)

だったことを考えれば、これがいかに法外な金額かわかるだろう。

だが、幕府はこれを拒否せず、苦しい財政の中から何とか都合した。

拒否すれば、幕府が大名の上にいるということを

否定する形になってしまうからだ。

もちろん英国公使オールコックはその辺りのことをよく知っている。

だからこそ、取りっぱぐれは無いと確信していたのだ。

(この賠償金は分割払いで支払われることになったが

そのツケは明治政府にまで回された。

これが完済されたのは明治7年(1874)のことである)

 

幕府は当然怒った。長州憎しの思いが頂点に達した。

長州征伐を決意し、将軍家茂が自ら大将となり出撃する意向を示した。

幕府にとって幸いだったことは、禁門の変で長州軍が御所に向かって

発砲し「朝敵」となったことだ。

国父、久光の留守の間、薩摩軍を預かる形になっている西郷も

長州征伐には何ら異存は無かった。

西郷の思いを一言で言えば「長州はアブナイ藩だ」ということである。

その上、長州を征伐せよというのは、かたじけなくも天皇の御意志でもある。

その西郷が突然180度の転換を見せた。

長州討つべしが、にわかに長州許すべしに変わったのだ。

 

9月11日の夜のことだ。

長崎から神戸に戻っていた勝海舟は、所用あって大坂へ出張していた。

それを知った西郷は手紙を出して面会を求めた。

なぜ西郷は面識の無い勝を訪ねようと思ったのか?

それは西郷が神のように崇拝していた

亡き島津斉彬(なりあきら)の「導き」であった。

「こんな優れた男がいるぞ」と斉彬が西郷に常々話していたということだ。

そういうわけで西郷は

勝という男が斉彬さえも一目置く優れた人物であるということは知っていた。

 

では幕臣である勝と、当時薩摩藩主であった斉彬がどこで会ったか?

それは、長崎海軍伝習所で海軍術を学んでいた勝が

訓練航海に出た時に、鹿児島に立ち寄ったからである。

斉彬はこれを大いに歓迎した。

一行は上陸を許され、斉彬は勝に集成館(近代工場群)を見学させた。

この時、勝と斉彬は身分を離れて意気投合したようだ。

そんな勝がすぐ近くに来ていることを知った西郷は

共通の知人の仲介で勝に面会を求めた。

勝も、西郷が斉彬の自慢の家臣であったことは、よく知っている。

申し入れを快諾し、2人は大坂の宿舎で初めて対面した。

対面の後、西郷は大久保利通宛てに有名な書簡を送っている。

 

勝氏に初めて会いましたが、実に驚くべき人物です。

最初はへこませるつもりだったのですが

すぐに頭を下げました。

どれほど知略があるやらわからないほどで

まず英雄の肌合いを持った人物でしょう。

(亡くなった)佐久間象山より実行力があり

学問と見識でも、今や勝先生の方が勝っているかもしれません。

いやはや、ひどく惚れこみました。

 

まさに絶賛と言うべきだろう。

西郷がこれだけ褒めている人物は後にも先にも勝一人しかいない。

(斉彬は主君であり、西郷にとっては「神」であるから批評の対象ではない)

では一体、勝は何をもって西郷をここまで感心させたのか?

実は明治維新の後も生き残った勝も西郷も

その中味については詳しく述べていない。

通りいっぺんの報告はあるが、肝心な事については口をつぐんでいるのである。

もちろん西郷は、禁門の変以降、強硬論から寛容論へ意見を変えるまでに

多くの人物と会っているが、他の人物の意見に動かされた形跡は無い。

あるとすれば

「どれほど知略があるかわからない」という勝の意見しか考えられない。

 

第2章の冒頭でも述べたが

私は勝海舟を維新の志士ナンバー1だと思っている。

人格、人望という点では西郷に劣るかもしれないが

勝は最初から最後まで「日本人」という視点で物事を考えていて

その信念は一度もブレていないからだ。

大事なのは日本であり、幕府でも薩摩でも長州でも無い。

天皇家ですら無い。

「愛国ということを忘れた勤皇など意味が無い」のである。

 

しかし、この時点で、勝は幕臣であって軍艦奉行でもある。

通常の武士の道徳で言えば

「幕府を倒す」などということを口にするのは「裏切り」である。

もちろん、勝がそれを口にしたからこそ西郷は驚き

目からウロコが落ち、「日本人」として目覚めた。

だが、それを通常の武士は理解できない。

あくまで「幕府に対する裏切り」という形でしか見ることができない。

だから、勝も西郷も、この時「勝が何を言ったか」ということは

具体的には述べなかったのだろう。

それは「墓場まで持って行く秘密」だったに違いない。

勝の方も西郷に惚れた。

この会談後、勝があまりにも頻繁に西郷のことを褒めるものだから

一番弟子の龍馬は「私も会ってみたいから紹介状を書いてくれ」

と師匠の勝に頼んで西郷に会いに行った。

 

帰って来た龍馬に勝が「どうだった?」と聞くと

龍馬は「成程、西郷という奴はわらかぬ奴だ。

少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。

もし馬鹿なら大きな馬鹿で利口なら大きな利口だろう」

と言ったと言う。

勝は「評せられる人も評せられる人、評する人も評する人」と

ともに大したヤツだという感想を述べている。

 

この時から2年後に、龍馬の仲介によって薩長同盟ができる。

さらに、倒幕の官軍の総参謀的地位に西郷が就任し

幕府を代表する勝との間で江戸城無血開城が実現する。

この2つの「未来」の下地はこの時にできたのである。

実はこの後も西郷は国元の大久保宛の書簡の中では

「長州を討つべし」と強硬論を繰り返している。

その理由は、薩摩藩の最高権力者である国父の島津久光が

長州を憎み切っていたからだろう。

大久保へ送った通信は当然情報として久光の耳に入る。

ここでうっかり本音を述べたら、久光は激怒し

西郷を国元に呼び返すかもしれない。

それでは長州を救うことができなくなってしまう。

だから、西郷はこの点では猫をかぶっていたのだと考えられる。

 

 

読者は月形半平太(つきがたはんぺいた)という人物をご存知だろうか?

実在の人物ではない。

新国劇の座付作者、行友李風(ゆきともりふう)が創作したキャラクターである。

幕末の志士で長州藩士、美男で剣の達人

日本人同士が争うべきではないと常々考えていて

薩長は手を結ぶべきだと考えているが

その先駆的な考えは周囲に受け入れられず非業の死を遂げる。

(「月さま雨が」「春雨(はるさめ)じゃ濡れて行こう」の名セリフでも有名だ)

 

この創作上の人物について、どんな文学事典も

「土佐の武市(たけち)半平太がモデル」と書いてある。

確かに「半平太」という名は同じだが、これは間違いと言っていいだろう。

武市半平太は土佐藩絶対主義者であった。

薩長が手を結ぶなどということは、彼の脳裏にはまったく無かった。

一方、月形洗蔵(せんぞう)はこの頃から

薩長は連携して国難に当たるべきだと考えている。

それは勝のように日本全体を見た遠大な構想によるものというより

薩摩藩士とも長州藩士とも親しいという

特別な状況から自然に生まれたものかもしれない。

 

しかし、「薩長同盟」というものを初めて構想し

その実現に動いたのは、まぎれもなく筑前勤皇党で

その代表者は間違いなく月形洗蔵なのである。

オールドファンは

「そう言えば最近、月形半平太が主役の映画やドラマが少ないな」

と思っているだろう。

それにはちゃんとした理由がある。

かつては薩長同盟結成のいきさつが一般人の歴史常識には無かった。

しかし、犬猿の仲の薩長が結び付いたのは歴史的事実で

当然そこには仲介者がいたに違いないから

舞台や映画では月形半平太がその役割を果たしていたのである。

 

ところが司馬遼太郎が小説「竜馬がゆく」を書いたことによって

「薩長同盟は坂本龍馬が成し遂げた」ということが国民の常識となった。

歴史ドラマにも龍馬が必ず登場するようになり

逆に月形半平太の出番は無くなったというわけだ。

実は龍馬の盟友で

ともに薩長同盟を成し遂げた中岡慎太郎は

この頃筑前勤皇党と深く交わりを結んでおり

月形とも旧知の仲であった。

中岡が「薩長結ぶべし」と考えたのも、月形の影響であろう。

一言で言っておけば、薩長同盟は龍馬や中岡が

月形の「遺志」を継いで実現させたものと言えるかもしれない。

 

この巻おわり

 

 

 

 

 

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なんと400円くらいでびっくり!最後に得した気分