負けて生き残った将軍もグル | 天然記録

 

 

↑より抜粋

 

慶応3年12月9日

この日は西暦では1868年1月3日であったが

この日、王政復古の大号令が発せられた。

脚本・出演、岩倉具視、共演、大久保利通、西郷隆盛の大陰謀である。

これによって、幕府も朝廷も、将軍はすでに無くなっていたが

関白も廃され、天皇中心の新政府が発足したのだ。

西暦では前年1867年に当たる慶応3年11月18日

坂本龍馬横死(おうし)の3日後の長州三田尻において

長州藩世子毛利広封(ひろあつ)と薩摩藩主島津茂久(もちひさ)

(毛利忠義、島津久光の子)が会議し

今後の両藩の軍事行動について申し合わせをした。

 

前に坂本龍馬が仲介した薩長の「合意」は軍事同盟というより

「薩長友好条約」だと述べたが

では、それがいつ軍事同盟に変わったかと言えば

この慶応3年11月18日の時点であろう。

薩長両藩に討幕の密勅が下されたからこそ

両藩が軍事行動について合意することが可能になったのだ。

王政復古を進めるにあたって

薩摩・長州あるいは土佐の行動だけが

クローズアップされるが、実は岩倉・大久保コンビは

他に芸州(げいしゅう)浅野家と尾張徳川家を味方に引き入れていた。

両藩とも勤皇の志篤く、徳川慶喜とは一線を画していたのである。

 

12月5日、岩倉と大久保はクーデターの手順を決めた。

まず3日後の8日に朝議を開かせる。

出席者の公家には慎重に根回しがされていたが

この会議で決めるべきは次の三箇条である。

 

① 毛利藩主父子の官位復活と正式な入京許可

② 三条実美ら五卿の赦免(しゃめん)

③ 岩倉具視ら勤皇派公家の処分解除

 

もちろん、反対派もいるから朝議は紛糾(ふんきゅう)した。

だが結果的に岩倉らの思惑通りになったのは

実は慶喜の方に致命的ミスがあったからだと言われている。

 

この朝議には、いわゆる「一会桑(いつかいそう)」

つまり徳川慶喜、松平容保:かたもり(会津藩主京都守護職)

松平定敬:さだあき(桑名藩主京都所司代)の

三者も呼ばれていたのだが、慶喜の判断で全員が欠席した。

そのために朝議は岩倉らの思惑通り

前記三項目を決定してしまったのだ。

王政復古はこの後、この朝議の結果

宮中に入ることを許された岩倉によって行われたのだから。

にもかかわらず、慶喜は最大のチャンスを見送った。

いったいなぜそんなバカなことをしたのか?

これは実は幕末維新史の大きな謎の一つでもある。

 

通説的に言われているのは慶喜が

この朝議への招集を倒幕派の策略だと考えていたという解釈だ。

つまり、のこのこ宮中に出かけて行って

倒幕派に身柄を拘束されるのを恐れたというものだ。

確かにこの時宮中は、岩倉、大久保の画策によって

薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の藩兵で固められていた。

(長州はまだ上洛を許可されていない)

しかし、土佐は慶喜に同情的だし、尾張、越前は親藩でもある。

それゆえ薩摩が突出して慶喜を拘束あるいは暗殺出来たとは考えにくい。

 

もっとも、慶喜がそれだけ恐れたのは

「討幕の密勅」が薩摩藩に下されたことを察知したからかもしれない。

通説では慶喜はこの密勅の存在を知らなかったことになっている。

しかし、密勅(天皇の秘密指令)とは言いながら

薩摩藩内ではこれが倒幕反対派の説得材料に使われたのだから

密勅が出されたこと、あるいはその具体的な内容も

情報として慶喜に伝わっていた可能性は無いとは言えない。

そしてその内容とは「幕府を倒せ」ではなく

「慶喜をぶち殺せ」なのだから

慶喜が宮中での暗殺を恐れても不思議は無い。

いや、天皇の命令を実行することは暗殺では無い。

堂々たる正義である。

とにかく客観的事実だけを述べれば

「慶喜らは朝議に参加する権利があったのに

それを放棄し、岩倉らの陰謀を成功させてしまった」のである。

 

 

そして、昨日まで参内を許されていなかった岩倉が

用意しておいた王政復古令の文書を宮中に持ち込んだ。

まだ少年の面影を残す明治天皇の側近は

ほとんどすべて倒幕派で固められている。

岩倉から文書の入った筥(はこ)を受け取った天皇は

ただちに小御所(こごしょ)に入り「王政復古の大号令」を発した。

 

天皇は神だ。だから、その命令は絶対で

ここにおいて江戸時代という、いや前近代の悪習とも言うべき

身分制度がすべて吹き飛んだ。

倒幕派にしてみれば、これからは天皇の名のもとに

自分たちの方向性に沿う形で

天皇の側近を選び、事を運んでいけばいいわけである。

 

これが若き天皇が自ら思い立ったことではないことは

前後の事情から見てあきらかだ。

孝明天皇が亡くなった後に、政治情況が180度転換したこと

たとえば長州藩が復権し会津藩が朝敵とされたように

それがこの時期の政治の実相であった。

 

この小御所会議の前に王政復古の大号令が発せられたはずだが

そこには今後「摂関幕府等廃絶」とある。

「摂関」は狭義では「摂政と関白」という意味だが

「幕府」と並べられているのだから

ここは「朝廷」(とそれに伴う官位制度)という意味だろう。

とすると、大号令が発せられた時点で

内大臣という職もこの世から無くなるはずで

その後の会議で「徳川慶喜に内大臣を辞めさせる」

ということが議題になるはずが無いのである。

私より先にこの大矛盾に気がついた歴史学者の

佐々木克(すぐる)京都大学名誉教授は

次のように述べている。

 

通説ではこの日

「王政復古の大号令」が発せられたことになっているが

わたしは違うと思う。

いまみてきたように「大号令」の内容

「将軍職辞退」が小御所会議で議論されているからである。

会議が終わったのが深夜12時を過ぎていたから

会議のすぐ後で発せられたのでもない。

(「岩倉具視」佐々木克著)

 

佐々木氏説以前の学者という学者が

なぜ「王政復古の大号令→小御所会議」という

順序にいささかも疑問を持たなかったのか、という疑問である。

「記録や史料にそう書かれているのだろう」

と思うかもしれないが、実は違う。

 

天皇が御学問所に出御し

正親町三条(おおぎまちさんじょうら)を召し

(宮・公家の全員か否か不明で武家は呼ばれていない)

尽力するようにとの勅語があった。

ただしこの際の勅の内容についての詳しい記録は残っていない。

これまで、この勅が「王政復古の大号令」であるとされてきたが

それは間違いであろう。

この日参内した者とその関係者が残した記録のいずれにも

どこにも、この日の「王政復古の大号令」があったことを

記録したものはない。

(「岩倉具視」佐々木克著)

 

実際は、佐々木教授も指摘しているように

小御所会議の前に出された

「勅の内容についての詳しい記録は残っていない」のである。

史料は国の公式発表だけでは無い。

明治以降は公家の回顧録など出版されているが

そうしたものにすら何の証言も残っていないのは

実に不思議なことではないか。

もし、この勅が本当に発表されたとおりの

「大号令」であったとすれば、それは歴史的瞬間であり

立ち会った人間の証言が後世に残されても不思議では無い。

だが、そうなっていない。

 

翌日、松平春嶽(しゅんがく)と徳川慶勝(よしかつ)は

京の二条城にいた慶喜を訪ね

朝廷いや「新政府」の意向を伝えた。

慶喜は、領地の一部を返上ではなく

「新政府」のために献上する、と答えた。

「返上」というと正式な権利も無く

所持していたものを返還するというニュアンスだから

「献上」つまり自分のものを自分の意思で

差し上げるという形に拘ったのだ。

また、将軍職辞任が正式に認められたことは

もともと自分から申し出たことだから異存は無いが

内大臣については辞職はするがそれに伴う

「位階(正二位)」については

返上するつもりが無いと答えた。

 

二条城を退去することも承諾した。

これはとくに春嶽らが望んだわけでは無いようだが

慶喜にしてみれば将軍職を辞した時点で

いかに徳川家の持ち城とは言え、洛中(らくちゅう)に

兵と共に駐屯しているのは畏れ多いという判断があったのかもしれない。

基地としては近くに大坂城があるから何の問題も無いのだ。

春嶽はほっとして、役目を果たせたと思ったようだが

何しろ「二心殿:にしんどの(ころころ変わる)」と

揶揄された慶喜のことだ。

腹に一物あったのは言うまでも無い。

12月になって慶喜は多数の旧幕府兵と共に二条城を退去した。

「前(さきの)内大臣」というのが、いまや慶喜の肩書であった。

 

余談だが、大政奉還からこの退去までの間の二条城が

よく映画やテレビドラマに出てくるが

よく見ると屋根瓦がすでに「菊紋」になってしまっている映像が多い。

この時点では「三つ葉葵」でなければおかしい。

今のように菊紋になったのは、これ以降ことである。

 

 

すでに二代光圀(水戸黄門)が

「将軍家は親戚頭、天皇家は主君、ここを間違うではないぞ」

という意味のことを言っているし

他の大名ではまったく禁じられていた

公家とも通婚も堂々と行われていた。

きわめつけが慶喜の母は吉子(よしこ)女王なのである。

父斉昭(なりあき)も天皇家絶対主義だ。

つまり慶喜は生まれた時から、父母によって

「天皇家絶対主義」の教育を受けたということだ。

 

では、そういう教育を受けた慶喜にとって

最大の罪、もっとも避けるべき事態は何か?

「朝敵(天皇家の敵)となること」である。

 

「話には聞いたことがあるが見たことは無い」

それが「天皇軍」すなわち「官軍」であることを示す錦旗

いわゆる「錦の旗」というものであった。

では、どんな「話」に出てくるかといえば「太平記」である。

ところで「太平記」には、錦の御旗とは

「月日(げつじつ)を金銀にて打ち着(つけ)たる」旗とある。

じつは「十六花弁の菊紋を打つ」とは書いていないのである。

しかし、岩倉が作らせた旗は「月」と「日輪」の一対ではなく

共に赤地の錦に金色の十六花弁菊紋を打ち出したものだった。

(異説もある)

 

単なる「月日旗」では相当に歴史に詳しい人間でないと

「天皇軍の旗印」ということはわからない。

そこで、もっとわかりやすいデザインにすることを考えた。

おそらく岩倉が

「もっと誰でもわかる意匠(いしょう)にしろ」と命じ

「それなら菊の御紋章を強調すれば良い」

と故事に詳しい玉松操(たままつみさお)が設計図を考えたのだろう。

王政復古の勅の文章を起草(きそう)したのも玉松だ。

もちろん、岩倉は大久保とも相談の上だった。

 

「錦の御旗」などというものは一般庶民は知らないのである。

当然「あの旗は何?」という疑問を

官軍の行進を見て誰もが抱く。

その疑問にこの一番の歌詞は見事に答えている。

この歌は「日本最初の軍歌」とどんな事典にも記載してある。

確かに官軍は日本初の鼓笛隊(軍楽隊)が

この曲を演奏しながら行軍したのだから

「軍歌」であり「行進曲(マーチ)であることは

間違いないのだが、私はむしろこれを

「日本初のPRソング」として評価したい。

 

 

家康の「保険」は

「水戸出身者は将軍とはならず、あくまで天皇家のために戦う」

ということが基本になっているのに

水戸家出身者が将軍になってしまえばどうしようもない。

「台無し」という意味はおわかりだろう。

以上のような考察を、専門学者は否定する。

「史料が無い」からだ。

仮に百歩譲って「家康の保険」は存在しなかったとしても

水戸家が勤皇の家柄であったことは動かない。

 

では、慶喜に対して「お前は朝敵になったのだぞ」

と思い知らせる一番良い方法は何か?

それは「あれは朝敵、征伐せよとの錦の旗」である。

教養人でもある慶喜は当然「太平記」は読んでいるはずだ。

この時代、武士そして勤皇家としての基本教育は

まず「太平記」を読むことである。

ならば「トコトンヤレ節」が無くても

この「強力兵器」は慶喜にとって

「致命傷」を与えるものになるはずだと岩倉は予測した。

そして、その通りになった。

同時代の史料や明治以降の回想録には書かれていないが

この1月4日に錦の御旗が立てられたということを知った慶喜は

この時点で「全面降伏」を決心したと、私は考えている。

 

江戸城を薩長に明け渡した徳川慶喜もまた

なお半世紀の余生を送っている。

あれだけ、多くの秀れた幕臣を、死に追いやり

上野山内を、彰義隊(しょうぎたい)の

若い血汐(ちしお)で染めさせ、会津若松では

今だ15、6歳の少年たちを切腹させておきながら

忠誠を誓わせた総帥(そうすい)たる15代将軍職に在った者が

のうのうと生きのびたことを、私は軽蔑する。

徳川慶喜は、江戸城内に於て(おいて)

割腹自殺すべきだったのである。

(「生きざま」柴田錬三郎著)

 

「切腹すべきだった」などと言われると

意表を突かれたような奇妙な感覚がするだろう。

しかし「武士の世界の常識」に沿って考えるなら

むしろ柴田錬三郎の言っていることの方が正しいのである。

「江戸城無血開城」と言えば聞こえはいいが

これは敵に一矢も報いず城も無傷で渡したということだ。

 

私は、慶喜が「薩長(つまり官軍)にもう抵抗はしない」

と決心したのは、鳥羽・伏見の戦いの緒戦で負けて

追い打ちをかけるように官軍の先頭に

錦の御旗がひるがえった時だと思っている。

しかし、後の回想を読むと

「それ以前にすでに戦うつもりは無かった」

と慶喜は言っている。

だが、それは信じられない。

「もし慶喜に戦意がなかったことが当人の言葉通りだったとしたら

会津・桑名両藩兵と幕府歩兵隊を主力とした軍勢は

自分たちで勝手に進撃し

まったくムダに命を落としたことになってしまうからである。

 

慶喜はあきらかにウソをついている。

それも、自分のために戦って死んだ人々の霊を

貶(おとし)めるようなとんでもないウソだ。

その理由を知るためにも「なぜ切腹しなかったのか?」

を徹底的に追及する必要がある。

前節で述べたように「朝敵にされてしまった!

このまま死ねば朝敵の汚名を着たまま歴史に残ってしまう。

だから絶対に死なない。朝敵の汚名が晴らされる日までは」

ということなのである。

 

慶喜の価値観では

先祖伝来の江戸城を明け渡すことよりも

朝敵の汚名を晴らさずに死ぬことの方が

はるかにご先祖様に対して申し訳が立たない、のである。

また、武門の棟梁(とうりょう)としては

自分のために死んでくれた人々の名誉を

傷つけるようなことは絶対にしてはならないのだが

これも慶喜の場合は朝敵の汚名を晴らすためなら

許されるのである。

だから平然とウソをつく。

 

もう一つ、私の知る限り歴史家すら気がついていない盲点を述べよう。

それは、江戸城無血開城がなぜ成功したか、ということである。

「決まってるじゃないか—

それは一代の英傑(えいけつ)である勝と西郷が—」

という答えが返ってくるだろうが、ちょっと待っていただきたい。

私が指摘したいのは、その前提条件である。

西郷では無く、勝海舟の方だ。

前提条件というのは

勝が「幕府全権大使」にいかにしてなったか

ということである。

確かに勝はきわめて優秀な男だ。

この時期、勝以外にこの交渉をまとめられる人間はいなかっただろう。

だが、いかに勝とて、この交渉に関してすべてを一任されなければ

交渉をまとめることなど到底できなかったろう。

このことについては旗本のほとんどが反対だったと言っていい。

しかし、勝が交渉に乗り出した時には

勝に対抗しうる反対派の大物

たとえば小栗忠順(ただまさ)などは

すべて要職からしりぞけられていた。

だからこそ、勝は成功したのだ。

 

では、この条件を整備したのは誰か?

慶喜ではないか。勝に全権を与えたのも

最大の障害になるはずだった小栗を

罷免(ひめん)したのも慶喜なのである。

ここで思い出していただきたい。

慶喜のあだ名は何であったか?

「二心殿」ではないか。

「態度がころころ変わる」という意味である。

しかし本来の「二心殿」なら、小栗を罷免したりせず

いわば両面作戦を取っただろう。

「二心」ということは、選択肢は減らさない。

ということだ。

 

小栗は「温存」しておいて勝の交渉が失敗したら

再び小栗を軍事責任者に据えて

官軍と徹底的に戦うという選択肢もあった。

本来ならそういうやり方を取るのが

「二心殿」こと慶喜にふさわしい。

しかし、慶喜はあくまで武力抵抗を唱える小栗派を

小栗を直接クビにするという

過激な方法でしりぞけ、禍根(かこん)を断っている。

これでは「二心」どころか「一心殿」ではないか。

そう、「一心殿」なのである。

 

謀略を仕掛けた側の岩倉や大久保にとっては

この錦旗投入は絶妙のタイミングだった。

すでに述べたように、慶喜から見て敵が錦旗を立てようと

戦争で負けていなければ、木戸孝允(たかよし)のように

「玉(天皇)を手に入れれば良い」と聞き直る選択肢もあった。

だが、滝川や竹中といった戦国以来の名門の連中がぶざまに負けた。

同じ、三河以来の名門である小栗も

この時慶喜の信頼を失ったのだろう。

 

慶喜は名門の出身だから

本来は滝川や竹中や小栗といった人々の方に

親近感を持っていたに違いない。

これに対して勝は、三代前は町人で成り上がりもいいところだ。

好き嫌いで言えば慶喜は勝が嫌いだったろう。

しかしここが慶喜の政治センスの優れているところなのだが

嫌いということと役に立つということは別だ。

これ以上絶対に傷口を広げず最終的に朝敵の汚名を晴らすためには

この勝海舟という男にゲタを預けるしかないと思い定めたのだろう。

 

一方、慶喜のそういう思いは切れ者には読めただろうし

願ってもないことだった。

「日本人勝海舟」は薩長と徳川が江戸で闘うことなど

外国を利するだけだと思っている。

通常の手段ではそれを防ぐ方法は無い。

しかし、動機はどうであれ総大将の慶喜が徹底恭順してくれるなら

決戦を防ぐことは可能になるかもしれない。

つまりこの大目的のために慶喜は利用できる、ということだ。

しかも、これは徳川家の将来にとっても良いことだ。

主家を裏切るのでは無く、むしろ生かす道だ。

かくして、勝、西郷のコンビ以前に

勝と慶喜のコンビが成立していた。

この点に気がつかないと

このあたりの時代の流れは読めないと、私は考えている。

ずっと後年の明治31年(1898)2月に

朝鮮国の大院君:だいいんくん(李氏朝鮮末期の王族、政治家)

李昰応(イハウン)が亡くなった時

勝は追悼の言葉の中で次のように述べている。

 

同君はかつておれを、東海の英傑(えいけつ)だといつて

朝廷には誠忠をもつて事(つか)へ

徳川氏の宗廟(そうびょう)を絶やさないように処置した功績は

千載不朽だと賞(ほ)めてくれた‥‥‥

(「氷川清話」勝海舟)

 

これが勝にとっては生涯最大の誇りだったと私は考えている。

そして、この大院君死去直後の同じ年の3月2日

勝の生涯最後の大仕事が成就(じょうじゅ)した。

明治天皇御夫妻が宮中に

慶喜夫妻を招き親しく懇談したのである。

ここにおいて慶喜の朝敵の汚名は完全に晴らされた。

 

最晩年の力を使い果たした勝は

翌明治32年(1899)

満75歳で死んだ。